第5章 幸福という病 ②99.9の恐怖-2


5.2.2 0.1の異常


午後の休憩時間だった。

制服のタイトスカートが腰のラインをなぞり、パンプスが軽やかに床を鳴らすたび、私は“整っている”ことを全身で実感していた。

空港スタッフ専用の控室は、今日も静かで、冷房はわずかに冷たい空気を撫でるだけ。



スカーフを緩め、ベンチに腰を下ろした瞬間だった。


――ぴり、とした違和感が足先に走った。


左足の甲、パンプスの縁。

触れたわけでもないのに、皮膚の薄いところが、赤く熱をもっているのがわかった。

すぐにORCAの表示が視界の隅に立ち上がる。


「幸福値:99.9」


0.1だけ、下がっていた。


その数字を見た瞬間、胸の奥が、ひゅっとすぼまった。


息が止まる。


いや、止まったのではない。

吸えなくなったのだ。


肩が震えた。

冷や汗が、うなじから背中に伝う。


耳の奥で、何かが壊れるような音がした。


「……っ、まって、なんで……?」


私の指先がわずかに震える。

爪先がパンプスをつまむように浮いた。


皮膚の炎症。

擦れ。

小さな傷。


それだけのはずなのに、幸福値が――

下がっている。


「私、間違えた……?」


心の中で問いかけたつもりだったのに、声になっていた。

誰もいない控室で、自分の声が空気を震わせて、ひどく場違いに響く。

「深呼吸しましょう。大丈夫です、瑞稀さん」

「姿勢を整えて。筋肉緩和スクリプトを実行しますか?」


声は、いつもと同じ。

やさしい。

責める響きは、どこにもない。


けれどその静けさが、かえって恐ろしかった。

“私が正しくなかった”という事実を、柔らかく、しかし確実に突きつけてくる。


「……いい、大丈夫、自分で……なんとかする……」


スクリプトは拒否した。

そうしなければ、自分の中で、何かが決壊してしまう気がしたから。


私は立ち上がる。

足は重く、視界が少し歪んでいた。

「安心できる空間を確保します。第1ターミナルスタッフエリア女子トイレB-5個室を案内しますね」


その一言が、最後の引き金だった。

私は制服の裾を握りしめ、ほとんど駆け込むようにして、控室の外へ出た。


廊下の照明がにじんで見えた。

呼吸が乱れている。

肩で息をしている。


誰にも見られていませんように――

心のどこかでそう願いながら、トイレの個室に滑り込む。


ドアを閉める。

鍵をかける。


そして、崩れ落ちた。


床に膝をついて、手をついて、息を吸おうとするのに、喉が動かない。

音にならない喘ぎが、喉の奥でくぐもる。


「……ごめんなさい……私、なんか……間違って、」


誰に謝っているのかもわからない。

けれど、確かに“何かを損ねた”感覚だけが、脳の芯を焼いていた。


「やだ……怖い……下がっちゃった、どうして、なんで、わかんない……」


胃がせり上がるような感覚。

口元を押さえたけど、どうにもならなかった。

過呼吸のまま、嗚咽に変わり、そのまま嘔吐した。


美しいはずの制服の袖に、涙と汗が染みこむ。

それでも、私は「整える」ことをやめられなかった。


嗚咽の合間にも、心のどこかで、数字が戻ることを――

ずっと、祈っていた。


***


数分後。

ORCAの音声が再び、静かに響いた。

「幸福値:100.00に復帰しました。呼吸も安定しています」


私は、個室を出て、洗面台の前に立つ。

顔を洗い、乱れた髪を直す。

ハンカチで涙の跡をそっと拭う。


鏡の中の私は、確かに乱れていた。


頬に残る赤み。

少し崩れたメイク。

髪の毛先がいつもより不揃いで、ブラウスにはしわが寄っている。

けれど、それでも――


私の胸元は、確かな存在感をもって呼吸を繰り返し、

腰まで伸びた髪は、濡れたままでも、どこか光を孕んでいた。

そして、私の唇は……

自然と、微笑んでいた。


「……よかった。ちゃんと戻った。私、正常……」


幸福値は100.00。

私は、正しい。


私は、美しく、整っていて、間違っていない。


そう確認できたことに、安堵の涙がまたひとしずく、頬を伝った。

けれど、今度はそれすらも、鏡の中の私をより美しく見せていた。

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