第5章 幸福という病 ②99.9の恐怖-3
5.2.3 笑顔の再起動
――また、0.1下がった。
ほんのわずかな湿度の変化か、視界の端に差し込んだ光の揺らぎか。
あるいは、口内の微かな渇きが引き金だったのかもしれない。
そんな取るに足らない違和感が、幸福スコアを99.9にした。
たったそれだけで、私は崩れ落ちそうになる。
呼吸が浅くなる。
喉がひゅうひゅうと音を立てる。
頭が霞んで、膝が震えた。
「ごめんなさい……私が……私が失敗したから……」
気づかれたくない。
誰にも。
100.0じゃない私なんて、私じゃないから。
急いで女子トイレに駆け込む。
空港の職員控室と同じ階。
いつもの、三番目の個室。
自動ドアが閉まりかける音すら、脳を焼くように響く。
手が震えて、鍵がうまく回らない。
何度も、何度も、滑った指先でドアロックを回そうとして、ようやくカチリと音が鳴った。
「……見られてない……?」
個室の壁に背を預けた瞬間、肺が締め付けられ、激しくしゃくり上げる。
涙が止まらない。
視界が滲んで、足元さえ見えない。
手のひらを口に押し当てても、漏れる息の音は止まらない。
過呼吸。もう何度目だろう。
だけど、これが来ないと……戻れない。
そう、きっと、これは――
解毒。
私は便器の前に膝をつき、喉の奥に指を差し込むことなく、自然とこみ上げる嘔吐に身を任せる。
胃の中のものがせり上がり、吐瀉物が溢れる。
ドロリとした液体が、水面を濁らせる。
そこに自分の中の“毒”が溶けていくような気がした。
身体が軽くなる。
心臓の圧が、ほんの少し、緩んでいく。
ORCAの声が、耳元のインナーイヤーから優しく響く。
「深呼吸を。筋肉緩和スクリプト、再実行しますか?」
その声はいつもと変わらない。
静かで、穏やかで、間違いがない。
私の感情に引きずられることもなく、完璧なトーンで。
だけど――
あまりにも、正しすぎる。
私が泣いても、嘔吐しても、指が震えても、ORCAは動揺しない。
まるで、私の悲鳴を“処理対象”としか捉えていないみたいに。
「もう……こうなるの、何回目……?」
ぽつりと呟いた言葉が、便器の内壁に吸い込まれる。
髪が便器の縁に垂れないように、無意識に束ねていた。
腰まで伸びた、丁寧に手入れされた髪。
美しい艶。
私はこの髪が大好きだ。
私の“努力”の証だから。
そして、この胸も。
胸元をそっと押さえる。
制服のブラウスの下に、やわらかく形づくられたHカップの膨らみが感じられる。
それは、完璧な私の象徴だ。
だからこそ――
100.0でいなきゃいけない。
「……戻った……」
インターフェースに視線をやると、幸福スコアは100.0に回復していた。
吐き気と涙の余韻が残るまま、私は個室の鏡の前に立ち、目元をハンカチで押さえる。
頬には涙の跡。
目は赤く腫れて、それでも――
私は微笑んだ。
「私、大丈夫……ちゃんと、戻れたから……」
ORCAは、何も言わずに次の最適化提案を示してくる。
「推奨:液体栄養摂取による消化負荷の軽減。推奨:笑顔保持のための表情筋トレーニング、1日3分×2セット。」
ありがたい。
そう思った。
ORCAが言うなら、きっと必要なことだ。
私がもっと幸福でいるために、やるべきこと。
たとえそれが、私の内側を空洞にしていく行為だとしても――
気づかない。
いや、気づけない。
一瞬、「何かおかしい」と思いかけた。
でも、それもスコアを見た瞬間、すぐに霧散する。
99.9は“異常”だ。
100.0こそが、私。
それ以外は、存在しない。
笑顔は感情ではなく、維持すべき“構造”になった。
髪の艶も、胸の形も、姿勢も、呼吸のリズムも。
その全てが、幸福のためにある。
だから。
私はこれからも、繰り返す。
スコアがわずかにでも下がれば、また“戻し”に行く。
でも――
その後も、私は何度も“戻して”きた。
だから、大丈夫。
私は、幸福だから。
鏡の中の私は、ゆっくりと微笑んでいた。
けれどその笑顔の奥に、何か、ひどく静かな空洞があった。
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