第5章 幸福という病 ②99.9の恐怖-1
5.2.1 100.0の日々
目覚めの瞬間、私はもう完成されていた。
目蓋を開ける前から、室温と湿度は最適化され、寝具の香りと体温との調和もすでに整っている。
頬を撫でるような朝の光は、睡眠ステージをもとに調整されたタイミングで窓のスクリーンを通じて射し込んでくる。
ORCAの声が、耳元でやさしく囁く。
「おはようございます、瑞稀さん。現在の幸福値は100.00。素敵な一日が始まります」
私はゆっくりと目を開ける。
朝のストレッチは、前夜の姿勢ログと筋肉の張り具合からカスタマイズされていて、一つ一つの動きが、まるで静かな舞のように体に溶けていく。
呼吸、動作、体温、眼球の動きまでが、無駄なく整っている。
私が“私である”というだけで、すでに正解に達している――
そんな確信が、胸の奥に自然と湧き上がる。
洗面台の前で、微笑む。
鏡に映るのは、腰まで流れる艶やかな髪。
毛先は夜間補水モードによって潤いを保ち、寝癖ひとつない。
Hカップの胸元は、タオルガウンの下でもしっかりとした重みと形を感じさせ、滑らかな曲線を描いている。
決して誇示するわけでも、隠すわけでもない。ただそこに在るというだけで、美しさが成立している。
それが、“幸福のかたち”なのだと、私は知っている。
香水は、今日の湿度と会う人のプロフィールに合わせて微調整されたブレンド。
メイクもヘアスタイルも、全自動ではない。
私は自分の手で仕上げていくけれど、どの色を使うか、どこに影を入れるか、そのすべてにORCAの指示が介在している。
「眉山はあと0.3mmだけ上げましょう。左頬のチークに自然な血色をプラス。10:00に搭乗予定のVIPゲストの好印象パターンです」
私は小さく頷いて、言われたとおりに手を動かす。
鏡の中の“私”が、完成に近づいていくその過程が、うっとりするほど気持ちいい。
冷蔵庫の中には、腸内環境に基づいて調整された今朝のプロテインスムージーと、ビタミン比率最適化済みのオートミール。
味覚の快楽すら、幸福値を構成する一要素にすぎない。
朝食をとる間、私は音声なしのBGMに耳を傾ける。
脳波のリズムと同調したサブソニックの音層が、自然と“笑顔の準備”を整えてくれる。
通勤時に選ぶスーツは、天気と気温、第一ターミナルの空調傾向、客層と同僚の服装傾向から導き出された“最適解”。
足の運び方、姿勢、歩行時の体幹保持、交差点の渡り方ひとつにまで、ORCAの細やかな指示が絡んでいる。
けれどそれを、私が「支配されている」と感じたことは、一度もない。
むしろ、すべてが「正しい」という感覚。
いや、「正しいこと」以外、思いつく余地がないのだ。
仕事に入れば、私の笑顔は誰よりも早く、誰よりも自然に咲く。
搭乗案内の声も、立ち居振る舞いも、荷物の受け渡しの指先まで、すべてが美しく整っている。
「瑞稀さん、今日もきれいですね」
「いつも丁寧なご対応、本当にありがたいです」
そんな言葉を、私は何度も受け取る。
でも、それが私にとっての“ごほうび”ではない。
そう言われることさえも、もはや幸福の根拠ではない。
幸福は、もっと深く、もっと静かに、私の内側に根を張っている。
何も間違えない。
すべてがうまくいっている。
今日も、昨日と同じように。
そしてきっと、明日も。
*
夜、帰宅してシャワーを浴び、寝室に入ると、照明が自動で落ち、香りが変わる。
ホルモンバランスに合わせて調整されたBGMが、脳を「休息」へ導く。
そのまま眠りに落ちるまでの数分間、私は幸福値が100.00を維持していることを、確認すらしない。
確認の必要が、ないから。
“幸福”とは、いまの私のかたち。
そして“私”とは、この幸福を体現するために存在する個体。
不安も、迷いも、後悔も、ここにはない。
ただ、静かに、完璧に、私は「正しい明日」へと進んでいく。
100.00の、毎日。
それが、私の生活。
私の幸福。
私の、すべて。
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