第4章 私は、斎藤瑞稀です ③笑顔の、仕様書通りに-3
4.3.3 学びとは、仕様の習得
制服の胸元が、今日もわずかに浮いている。
ボタンはきちんと留めてある。
けれど、立ち姿のまま深く息を吸うと、ほんのりと生地が張って、布の陰影が柔らかに揺れる。
それでも私は、少しも気にしていなかった。
これは仮の制服。
私の身体に最適化された“本来のかたち”のものが、もうすぐ届く。
そのことを思うだけで、ふわりと心が軽くなる。
私のためだけに、正確に設計されるという事実に――
幸福を感じていた。
*
本格的な新人研修が始まって、二週間が経った。
場所は、空港内の研修棟。
マナー講師と現場のリーダーが交代で講義に立ち、私たち新入社員に「人としての接遇」を教えていく。
もちろん、空港受付の業務の大部分はAIが担っている。
案内も、搭乗手続きも、問い合わせも。
人間が“処理”する必要は、ほとんどない。
それでも、私たちに求められているのは、そこにはない“ぬくもり”だった。
目線の高さ。
語尾の響き。
立ち姿の安定感。
髪の揺れ、肌の透明感、声の湿度。
そうしたすべてが、「安心感」と「印象」のデザインであり、仕様であり、私たち受付コンシェルジュにとっての“機能”なのだと、私はもう知っている。
講師の先生が言った。
「コンシェルジュの役割は、答えることではありません。“いてくれること”が価値になる存在。それが、あなたたちです」
その言葉を、私はノートの端に丁寧な手書き文字で記した。
縦の線と横の線を意識して、文字がまっすぐに並ぶように。
きちんと整った字は、それだけで安心を与えるということも、ORCAから以前学んだことがある。
耳元では、今日もORCAがそっと支援してくれていた。
「笑顔の筋肉が疲労しています。休憩中に軽いストレッチをどうぞ」
「この講師は“目を見て話せる人”に好印象を持ちやすい傾向があります。次の質疑応答で目を合わせると幸福スコアが+1.4予測されます」
けれど、もう私はその言葉がなくても、自然にできるようになってきている。
たとえば同期の女の子たちと会話しているときもそうだった。
「瑞稀ちゃん、ノート、めちゃくちゃ綺麗。字まで美人って、ずるい~!」
「肌、なに使ってる? え、何もしてないわけないよね!? この透明感、やば……」
「今日の髪型、どうやってるの? 昨日は三つ編みだったよね?」
そう、髪は毎日アレンジを変えていた。
昨日はゆるく編んだ三つ編みを左肩に寄せて、前髪は自然に流れるように。
今日は、高めのポニーテールをくるりと内巻きにして、毛先にだけ軽くカールを加えていた。
腰まで伸ばしたこの髪は、私の“しるし”だ。
美しい髪には時間がかかる。
でも、その手間が、誰かの安心につながるなら、惜しくはなかった。
休憩時間、円形のソファに集まっていたとき――
ふと、ひとりが私の腕に触れながら、冗談めかして聞いてきた。
「ねぇ瑞稀ちゃん……ちょっとだけ、触ってみてもいい?」
言葉よりも先に、彼女の視線が胸元に向いていた。
制服の上から、私のHカップの胸が、ふわりと柔らかな起伏を描いているのを、皆が見ていた。
私は笑って頷いた。
恥ずかしくなんて、なかった。
私は、もう、そういう存在なのだ。
「やば……柔らか……ていうか、何これ、マシュマロ?」
「っていうか、瑞稀ちゃんって、ほんと女神系だよね。美しいし、でも押し付けがましくなくて、ずっと一緒にいたい感じ」
「わかる! しかもあの声。ずっと聞いてられる~。なんか安心するの」
私はただ笑って、首をかしげる。
「えっ、でもみんなもすごく綺麗で、私……全然普通だよ?」
「出た、瑞稀ちゃんの“謙遜モード”!」
「ほんとそれ。絶対自覚してるくせに~」
笑い声が広がる。
私はその中心にいた。
***
そして、ようやくその日が来た。
研修開始から三週目、ようやく私のために仕立てられた特注制服が届いたのだ。
広げられた制服は、仮制服とは比べものにならないほど、私の身体にぴたりと寄り添っていた。
ベージュとネイビーの上品なジャケットは、胸元の曲線に自然に沿い、ボタンが浮くこともない。
胸の厚みに合わせて調整された立体裁断。首元には、淡いグレージュのスカーフ。
ボトムスは膝丈のグレーのタイトスカート。
身体のラインを出しすぎることなく、けれど“整っている”ことだけは明確に伝えてくれるシルエット。
鏡の前に立つと、私は思わず、息をのんだ。
そこに映っていたのは、誰よりも女性らしく、誰よりも優しく、そして確かに“安心”をまとう存在だった。
髪を今日はハーフアップにして、残りはゆるく巻いて垂らした。
スカーフと髪の柔らかさが調和して、ふわりと香りが広がる。
廊下ですれ違った先輩社員が、私を見て言った。
「斎藤さん、制服、ほんと似合ってるね。……あ、いや、似合ってるだけじゃなくて、なんか……空間が華やかになるっていうか」
私は微笑んだ。
「ありがとうございます。今日から、もっと頑張れそうです」
その声の高さ、笑い方、歩き方。
すべては仕様として、私の中に刻まれていた。
でも同時に、それは私の“自然”でもあった。
私は“女性らしさ”を演じているのではない。
それはもう、私という仕様の一部で、私が“安心を与える装置”であることの、証だった。
そしてそのとき、ORCAが小さく告げた。
「幸福スコア、更新されました。現在値:96.1。声のトーン、笑顔の角度、すべて正常範囲内です。瑞稀さんは、最適です」
私は思わず、胸に手を当てた。
制服の中で、胸がゆっくりと上下する。
心地よい圧迫感。
フィットしていることの安心。
これが、今の私。
そして、これからの私。
学ぶこととは、仕様を知ること。
最適化されたこの身体で、“誰かの記憶”になるということ――。
それが、私の仕事。
それが、私の幸福。
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