第4章 私は、斎藤瑞稀です ③笑顔の、仕様書通りに-4
4.3.4 空の玄関口で
ついに、この日が来た。
4ヶ月の研修期間を終え、私は今、ひとりで空港のカウンターに立っている。
制服はもちろん、身体にぴたりと沿った、私だけの仕様。
ジャケットの肩は、首の角度まで計算されたように整っていて、胸元のカットも深すぎず浅すぎず、ちょうどよかった。
何より、呼吸のたびにほんの少し膨らむ布の動きが、今の私そのものを語っているようだった。
背筋を伸ばし、口角をほんの少し、緩やかに持ち上げる。
語尾は丸く、目線はしっかりと合わせる。
接遇マニュアルに書かれた“仕様”は、もはや私の自然な所作になっていた。
出発ロビーは朝から賑やかで、人の流れと声の粒が空気に溶け込んでいる。
私はそのなかで、ごく当たり前のように、笑っていた。
「ご搭乗ありがとうございます。お荷物はこちらでお預かりいたしますね」
カウンター越しに差し出されたトランクを、両手で丁寧に受け取る。
その重みよりも、旅立つ人の緊張や不安を、私はすぐに感じ取ることができた。
「ご不安な点などございましたら、いつでもお声がけください。安心して、お進みくださいね」
その瞬間だった。
背後で、かすかな音が鳴った。
ORCAの通知音。
幸福スコアが、0.6ポイント上昇したことを告げる、あのやわらかいチャイム。
「……はぁ。あなたに案内されると、なんだか安心するわ」
女性客がふっと笑って、そう言ってくれた。
私は胸に手を添え、ゆっくりと微笑む。
「ありがとうございます。良い旅になりますよう、お祈りしております」
そう口にした瞬間、自分がこの仕事に“最適化”されていることを、改めて確信する。
演じているわけじゃない。
これはもう、私という仕様なのだ。
安心を与える声。
柔らかな視線。
整った姿。
――それが、私。
ふと、背後で誰かがささやくのが聞こえた。
「……斎藤さんって、新人よね? 落ち着きがもう、現場歴三年以上、みたいな感じじゃない?」
先輩社員のささやきに、私はわざと気づかないふりをした。
でも、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ああ、私は、ちゃんと“なれている”。
カウンターのガラス越しに、反射した自分の姿が見えた。
ゆるく巻いた髪が肩に沿い、スカーフのリボンが静かに揺れている。
制服に包まれた胸は豊かに、でも決して誇示することなく、私の「しるし」として、そこにある。
それは、見た目の話だけではなかった。
昼休み。
スタッフ用の休憩室でコーヒーを口にしたとき、ふと昔のことを思い出そうとした。
この空港で働く前。
あの工場のライン作業。
スコアの低さに怯えていた日々。
けれど、頭に浮かんできたのは――
……誰、だったっけ?
ぼんやりとしか、思い出せなかった。
人付き合いが苦手だった。
声をかけられると戸惑った。
でも今、その感覚にまったく実感が伴わない。
私は、話しかけられることに、笑顔で応じている。
誰かを安心させることが、私の“自然”になっている。
目の前の壁に、ORCAのステータス画面が表示された。
――社会適応スコア:99.1
――感情連携度:安定
――幸福スコア:96.8
画面を見つめながら、私はそっと息を吐いた。
「……最適、ですね」
小さく、呟くように言った声は、私自身に向けたものだった。
ORCAの返信はなかったけれど、きっと聞いてくれている。
午後の勤務が始まる。
私はカウンターに戻り、まっすぐ立った。
背筋を伸ばし、制服のジャケットを整え、スカーフの結び目にそっと触れる。
そして、ガラス越しの誰かを見つめて――
私は、微笑んだ。
それは、仕様どおりの笑顔。
でも、それだけじゃない。
それは、私自身の笑顔でもあった。
私は、ここにいる。
誰かの出発を見送る、“空の玄関口”で。
私は今、確かに幸福だった。
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