第一章:一 親友

 いつからだろう。

 世界が「滑らかになった」と感じたのは。


 すべてが整っている。風は一定のリズムで街路を撫で、光は等間隔に都市の面を照らす。

 誰もがそれぞれのタイミングで起き、それぞれの動きを始める。時計などもう存在しないのに、不思議と社会は乱れない。


 シュウは、それが嫌いではなかった。


 仮想と現実の境界が曖昧になって久しい。〈リアヴァース〉と呼ばれるこの世界に生まれ育った彼にとって、それは「最初から在ったもの」に等しかった。

 水のような空気。滑らかにすべる記憶。表面だけをなぞっていく感情の流れ。

 それらすべてが、完璧な均衡の上に成り立っていた。


 だが、だからこそ彼は自分が他と違うことをよく知っていた。


 評価、期待、注目――。

 それらは数値化されることはなくなったが、完全になくなったわけでもない。

 人々はそれを直感的に感じ取る。まるで視覚でもなく、言語でもなく、もっと深い部分で共有された「意思」のように。


 そして、シュウは“常に選ばれてきた”。

 何かを始めれば、うまくいった。誰かと並べば、相手より先に認められた。

 自分でも不思議だった。努力をした記憶はあまりない。ただ、自然に身を任せていただけだ。

 気づけば“そうなっていた”。

 その違和感は、時折、彼の呼吸の隙間に忍び込んできた。


 「シン、いるか?」


 室内の照度が、彼の声に反応してわずかに上がる。

 奥から足音もなく現れたのは、淡いグレーのシャツを着た青年――シンだった。


 「ここにいたんだ。朝、ありがとね」

 「何が?」

 「空。……一緒に見れてよかった。」


 シュウは、少しだけ言葉に詰まった。

 感謝を言うほどのことではなかった。毎朝の、何気ない習慣だ。

 だが、シンはときどき、そういう“要らない丁寧さ”を挟んでくる。それが彼の特徴だった。


 「なあ、シン」

 「ん?」

 「お前は……何か、変だと思ったことないか? この世界が。」

 「あるよ。……でも、変だって思えるのは、まだ見てない景色があるからかも。」


 シンは穏やかに微笑んだ。

 その表情に、シュウはいつもあたたかさを感じていた。


 (なぜだろうな。何も持っていないはずのこいつに、時々……救われている気がする。)


 シュウは頭を振った。こんな感情は、今の彼にとって無駄なノイズだった。

 そうだ、自分は選ばれてきた。才能は巡ってくるもの。自分が救う側の人間だ。

 少なくとも――ずっと、そうだった。


 だから、理解できなかった。

 なぜ、シンの存在がこんなにも気になって仕方がないのかを。


 この世界は、理由を求めない。

 誰が優れていて、誰が選ばれるか。

 なぜ愛されるのか、なぜ消されるのか――そういう問いには、答えが返ってこない。


 だからこそ、シュウは時折立ち止まってしまう。


 誰よりも器用にこなし、誰よりも早く理解し、誰よりも正しい選択ができる。

 それでも、彼の中にひとつだけ“持てないもの”があった。


 それは――**シンの持つ静かな“在り方”**だった。


 どこにいても、空気がやわらぐ。

 誰と話しても、言葉が角を持たない。

 シンは何かを「正そう」としない。けれど、その存在が人をまっすぐにする。


 それが、ただ、在る。


 シュウは思う。

 自分はいつも“選ばれてきた”。でも、**シンは“残されてきた”**のではないかと。

 その違いを、時々、風の中に感じることがある。


 「お前さ」

 「うん?」

 「……なんか、ずるいよな。」

 「また変なこと言ってる」

 「本当に。言葉にできないんだけどさ。いてくれるだけで、空気が変わるんだよ。」


 「シュウ、それは……ありがとう。」


 その返事はあまりに自然で、何も重くないのに、胸の奥を静かに打った。


 ふたりはそのまま沈黙した。

 都市の輪郭が、遠くで少しだけ揺れていた。

 遠景に広がる、精密に作られた無機質な建築群。そこに吹き込む風の中で、ほんのわずかな違和感が漂っていた。


 それはまだ、誰にも分からない。

 けれど、シュウの直感は告げていた。

 「いつか、この静けさは終わる」と。

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