第4話 魚雲
「もう出国されるんですね」
歴史資料館から逃げるように出てきたベルたちは、昨夜通った国の出入り口へと真っ直ぐやってきた。そこで、昨日見た衛兵に声を掛けられたところだ。
「はい。もう、十分です」
この国は、あまりにも歪だ。人へ感謝する、という気持ちがなくなったことで、他人への施しは偉いことであり、またそれを受けた・施させてしまった側は恥ずべきことなのだという価値観が根付いている。それを違う、と言い切れる確固たる根拠をベルは持ち合わせていない。なのに、明確に違うと分かる。本能がそれを拒否している。だから怖かった。
「畏まりました。この国が旅人様の肌に合わなかったのは、ひどく残念でなりませんが、我々はいつでも歓迎いたしますよ」
そう言って、衛兵が国を出るための、重く堅い扉を開く。
「それでは、お元気で!!」
衛兵がにこやかな笑顔を浮かべて旅人を見送る。
だから、国の外へと出た旅人は
「はい、ありがとうございました」
『ありがとう』を禁止された歪な国を出てしばらく、ベルは考え事をしていた。思い出すのは、歴史資料館で聞いたこと。
この国では、誕生日祝いはなんのために行うんですか――その答え。
あの時、ベルは瞬間にして頭が真っ白になった。それこそがあの国の
「この世に産んでしまったことを、謝罪するために行うんですよ」
青い青い草が一面広がる緑の大海原。豊かな風が、さらさらと
そして、不意に天を指差し呟いた。
「あ、あの雲。なんか見たことある」
「そうそう同じ雲が二個も三個もあるかよ」
その旅人を見下ろす付き人の獣は、呆れたような溜息を一つ吐いて言った。
「そうだけどさ、なんだか……魚みたいなんだよ」
この主ときたら、なんとも呑気なものである。雲の形を見て夢想するのもほどほどにしてほしい、と苦労人の狐は思うのだった。
「そういや確かに前に言ってたな。いつの頃だか覚えちゃいねえが」
彼らが旅をしてからは長い。幾分の月日が経ったかは数えることもできないほどだ。それほど、彼らは付き合いを共にしてきた。
「確か、果物を拾ったんだ。その後、荷車を直したんだよね」
「いや、逆だったろ」
狐が言えば、旅人は「そうだっけ?」と笑う。
「元気にしてるかなあ、あの行商人」
「さあな。どっかで野垂れてねえといいが」
ぼんやりと空を眺め、蒼い海を泳ぐ魚と一緒に風に揺られていると、心地が良くなってくる。旅はよいものだ。
「ルアン、いつもありがとうね」
「な、なんだよ、藪から棒に」
いきなり前触れなくそんなことを言い出したベルに、ルアンは少々戸惑ったような反応をする。その彼らしからぬどぎまぎした様子が面白くって、ベルはまたも笑った。
言葉にするのはどこか恥ずかしくて、されど、伝えれば気持ちが良くて……。そんな魔法の言葉。
ルアンは茶化されたことに少し立腹して、その後、彼らしく口調を整えて、ふっと余裕ある笑みを浮かべてベルに言葉を返した。
「お互い様だ」
——第一章「ありがとうを禁止された国」 完
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