第3話 ありがとうを禁止された国


 エルフの朝は早い。


 早朝、まだ誰も起き出してこない日も上がらない頃に、ベルは目を覚まし、早々にこの国を立ち去ることを決めた。ありがとうを禁止されたこの歪な世界で、耐えられる気がしなかったのである。


「忘れ物はないかな」

「忘れ物も何も、ここでは寝ることしかしてねえぞ」


 ルアンが呆れた物言いでベルに返す。あの後ベルは着替えもそこそこにさっさと眠りに就いてしまった。これまで、そんなことはなかった。どんな国でも二日三日は滞在し、その国の特色を肌で感じる。それがベルの旅人としてのポリシーだったのだ。しかし、この国でベルはポリシーに反そうとしている。


「今から出国するってのはベルの勝手だが」


 ルアンが、借り部屋の扉を開けたベルの背中に向けて言う。


「この国がなぜこんなことをしているかの理由くらいは知っておきてえな」

「そうだね。ぼくも、それを知ってから出国するつもり」


 そう言ったベルを追いかけて、ルアンも部屋から出た。バタンっと扉が閉められる。


 もう二度と来ることはないだろう宿を後に、旅人は出国に向けて出発した。




「うぐぐぐ……、ちょっと、お腹空いたな……」


 宿を出て、街へと繰り出した頃、ベルは痩せっぽちの腹を抑えて唸り声を上げた。


「昨夜、何も食わずに寝てたもんな。男にもらった果物だけでも食っとけばいいのによ」

「そういう気分じゃなかったんだよ……」


 昨日の果物は、全てベルのリュックサックの中に仕舞われている。折角新鮮なものをいただいたのだから、こうして食べずにおくのは勿体ない気がしないでもないが、旅とは衣食住のままらないもの。できる限りは温存しておきたいというのがベルの胸中であった。


 しばらく腹を抑えて、身体を屈めてヨタヨタと歩いていると、お日様もようやく顔を見せ始めた。それに伴って、街の中もガラガラとシャッターの上がる音が其処そこ彼処かしこから上がり始める。


「あっ、そろそろお店が開き始めるみたいだよ。ちょうどいいや。あそこでパンでも買っていこう」

 



 開店と同時の入店を決め込んだベルに、店主は一瞬ぎょっとした顔をした。しかし当のベルはパンを選ぶことに夢中で店主の反応には一切気づいていない。パンを取り出すためのトングをカチカチと打ち鳴らし、品定めを開始する。


 アンパン、食パン、カレーパン……。どれをとっても美味しそう。選り取り見取りで迷ってしまう。


 長いことパンと睨めっこしていると、他のお客さんも続々と入店し始めた。


 店内を一周、二周、三周ほどぐるぐると回ったところで、取り敢えずクロワッサンとメロンパンというそこそこ無難なところに落着した。ルアンはパンのようなぱさぱさしたものは口に合わないようで、昨日の果物を食べるらしい。あまり食べ過ぎないでよ、とベルが注意すれば、「お前じゃないんだからそれはねえよ」と返された。


 トレーの上に載せた二つのパンをお会計へと持っていき、精算を開始する。


「500Gゴールドになります」


 ベルは懐から財布を取り出し、銀貨を5枚支払い、袋に包んでもらったパンを受け取る。「ありがとうございます」が口をついて出そうになったが、慌てて押しとどめた。


 そうしていると、第二弾が出来上がったらしく、焼きたてのパンの芳ばしい香りがベルの鼻腔を刺激した。思わずもう一個行きそうになるので、一心不乱に出口を目指す。


 そのとき――。



 店員がそういうのが確かに聞こえた。思わずバッと振り向くと、別の人が精算を始めているようだった。そのやり取りを耳に、後ろ髪を引かれる思いでベルは退店する。


「こちらのパンを一ついただけるかしら」

「毎度毎度、恐れ入ります」

「いいのよお、ここのは美味しいんだから」

「恐縮です」




 クロワッサンを口に放り込みながら、ベルは歩く。


「やっふぁり、ふぉのふに……。変だよ」


「ああそうだな、完全同意だ。だがな、食事中に喋るのも同じくらい変だからやめろ」


 パン屋を後にしたベルたちは、どこを目指すともなく街の中を見回っていた。朝の街はそれなりに活気づき、路上シンガーや、バルーンアートを行う俳優わざおぎが、賑わいに花を持たせている。しかし、そのやり取りの中にも、ベルはこの国の毒が回っているのを緊々ひしひしと感じるのだった。


 路上シンガーが歌い終わり、うやうやしくお辞儀をする。


「日頃より、お耳汚しを大変申し訳ございません」

「いやあ、今回のもいい歌だったよ」

「勿体ないお言葉です」


 その様子を横目に、ベルは小さく「きもちわるい……」と零した。


 ふと、ベルたちの隣を若者と老婆の組み合わせが通り過ぎる。


「いつもいつも、すまないねえ」

「いいんだよ、母さんも年なんだから。いつでもさ、頼ってよ」

「本当に悪いねえ……」


 成長した親子の会話と思われる。それ自体は普通なのに、この国にいると、なぜかそれすらも歪なものに感じられた。


「さっさと、『ありがとう』を禁止している理由について調べてこの国を出よう。このままだと、頭がおかしくなりそう」

「だがよお、どこに行けば分かるってんだ? この国のおエライさんにでも殴り込みに行くか?」


 ルアンが物騒な提案をする。ベルは苦笑いを浮かべるが、彼は内心本気でそうしたいと思っているのだろう。内に隠したイライラが尻尾に現れている。心なしか、顔もいつもより強張って見えた。


 そんな彼にベルは提案する。手っ取り早く国の成り立ちを知るにはこれが一番だろう。


「歴史資料館を探してみよう」




 日中をほぼ歩き回り、へとへとになったところで、歴史資料館と矢印された先で建物を見つけた。誰かに聞けば早かったと思われるが、この国の人たちと会話をするのは極力避けよう、というのがベルとルアン、二人の総意だった。この国の瘴気しょうきに当てられたくない。


 歴史資料館は、平べったく、横幅が長かった。奥行きは正面から見ただけではどれほどのものかわからないが、この感じからしてそこまで広くはなかろう。白い屋根を被った壮麗な建築で、この国では大事にされているのだろうということがよく伝わってくる。


「お邪魔しまーす」


 そう一言断りを入れてから、ベルは引き戸式の扉を開き、中へと立ち入った。


 館内は人がまばらで、そこまで自国の成り立ちに関心のある国民というのは多くはないらしい。一先ず、中を見て回る。


 この国から出土された土器や、偉人の絵画のレプリカなど、それなりに歴史ある国らしい展示物がショーケースに入れて飾られていた。


 ところで、なぜ「ありがとう」を禁止したのかについての理由そのものは、さっぱりわかりそうもない。


「外れだな」


 ルアンがそう呟くのも無理はなかった。


 と、そのとき後ろから声を掛けられる。


「もしかして、旅人さんですか?」


 振り向いてみれば、この資料館のスタッフと思わしき眼鏡をかけた女性がベルに話しかけていた。


「そう……ですけど」


 なぜ旅人だと分かったのか、とベルは思ったが、彼女はなかなか足取りがおぼこいので、すぐに余所者だと見抜かれてしまうことに気づいていない。


「やっぱり旅人さんなんですね! それはよかった、どうです。この国は気に入っていただけましたか?」


 お世辞にも気に入った、とは言えず、ベルは俯いてしまう。ルアンも「ノーコメント」と返す。


「あらら……。それは少し、残念です」


 女性がわざとらしく気落ちした態度を示す。そこで、ベルはこの人だったら、何か知っているかもしれないと思い聞いてみることにした。歴史資料館のスタッフなので、当然この国のルーツや仕組みについてもそれなりに詳しいだろうと思ってのことだ。


「単刀直入に聞きます。この国では、なんで『ありがとう』を禁止しているんですか?」

「なるほど、旅人さんはそれが気になっているのですね。それはですね――」


 それについて女性は考える素振りをすることなく、あっけらかんとして答えた。


「『ありがとう』は悪い言葉だからです!!!」


「悪い言葉、ですか……?」

「どういうことだ、説明してくれ」


 ベルもルアンも、彼女の言葉の意味を理解できない。簡単な言葉で構成されているはずなのに、異国の言語で話されているかのような、を感じた。脳が考えを拒否しているのかもしれない。


 女性は妙に芝居がかったポーズでベルたちの周りをぐるりぐるりと回り始め、その理由わけを説明する。


「ありがとう、という言葉は誰かに何かを施された時に出る言葉です。例えば、誰かに助けてもらった。商品を買ってもらった。――ありがとう。ですが! それは本来、感謝するのではなく、お詫び、或いは謙遜するべきなのです。助けてもらったということは、助けられる状況を作ってしまった、商品を買ってもらったということは、その商品を認めてくださったということ……。つまり!!!」


 女性は感極まって、両手を大きく振り被る。


「感謝とは、本来上下関係が生まれなければならないことを、あたかも対等であるように振舞うための悪しき言葉なのです!!!」


 女性は、もはや自分に酔っているように見えた。そんな彼女を、ルアンは白い目で見ていた。


「なるほど、そういうことだったんですね。残念ながら、どうやらこの国はぼくには合わないみたいです……名残惜しいですが、出国します」

「そうですか、それは残念です。またお越しください」


 女性は大して驚くでもなく、淡白に返答した。


「最後に一つ、お聞きしてもいいですか」

「なんでしょうか」


 おそらく、ベルという旅人に興味を失くしたのだろう。女性は素っ気なく返した。


「この国では、誕生日祝いはなんのために行うんですか」

「なるほど、そんなことでしたか。それはですね――」



「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ですよ」



「そうですか、わかりました。それでは、さようなら」

「あ、ちょっとお待ちください」

「えっと、なんですか」

「何か、言い忘れていることはありませんか」

「……そうですね」


「――すみませんでした」


 旅人は、もう、この国を訪れることはないだろうと、歴史資料館を後にした。

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