10(かえるのうた)
「あれ、中川は?」
教室に入るといつも駆け寄ってくる中川の姿がない。
香流が教室の扉の前でぽかんと立ち尽くしていると、窓際の席から柳瀬が答えた。
「今朝教会に忘れもん取りに行くって言ってたぞ」
「忘れもの?」
「絵の具とか美術の用意だって⋯⋯」
「今日そんな日だったっけ」
「時間割見ろよ」
柳瀬はスマホを開きながら呆れ口調だ。
香流は置き勉スタイルなので弁当以外何もかも学校へ置きっぱなしにしている。
当然、忘れ物と言う概念も、時間割と言う概念すらない。
柳瀬の後ろの席に座った香流は、隣がいない事に落ち着かないようにソワソワしている。
仲良いもんな、コイツら。柳瀬は微笑ましく思いながら肩をすくめた。
「迎えに行くか?」
「柳瀬、教会の場所知ってるのか?」
「あぁ、家業で何度か⋯」
言いかけて、柳瀬は笑顔で誤魔化した。
「中川の荷物取りに行くのに何度か足を運んだからな」
爽やかな笑顔が胡散臭い。
と、クラス中が息を飲む中、香流だけが素直に「そうなんだ」と頷いた。
柳瀬は自分で言いながら、コイツすぐ騙されんな⋯と心の中で呟いていた。相変わらず素直が過ぎる。
「じゃあ今から行こう」
「そんなに心配か?」
「なんか⋯学校に中川がいないと落ち着かない」
「俺は静かでいいけどな」
中川と一緒に暮らし始めてから、毎日賑やかで仕方がない。
中川は黒服にもよく懐いているし、地上について色んな事を教えてもらっていつもご機嫌だ。つい先日は晩ご飯にパンケーキを6枚も平らげていた。
毎日友達が家にいる生活。柳瀬は内心心躍る毎日ににやけっぱなしなのだが、本人は隠しているつもりなので黒服達は何も言わずに温かく見守っていた。
「俺は柳瀬がいないのもやだよ」
「なっ⋯!」
そんな嬉しい事言うな!俺はここにいるからしょぼんとするんじゃねぇ!
すぐに真っ赤になる柳瀬と、眉尻を下げる香流のやりとりにクラスメイトがほっこりしている。
柳瀬は教室内の雰囲気を察して、香流の手を引くと急いで教室を飛び出した。
廊下は走りません、と学校の決まりがあるので早足に下駄箱まで歩く。振り返りもしない柳瀬に手を引かれながら、香流は目を丸くして後に続いた。
「HRまでに戻るぞ」
「1限目なに?」
「英語」
あぁ、あの怖いじいさんか⋯。
香流はチョークで黒板を割った英語教師の事を思い出した。すごい怪力の持ち主だ。見た目はひょろっとしたじいさんなのにめちゃくちゃ強い。
下駄箱に着くと、柳瀬は香流の手をぱっと離した。そのまま何も言わない柳瀬に習って下足に履き替えて、ふたりは校舎を出る。
柳瀬は左に曲がって先を進む。今から登校して行く生徒もいる中、逆走して行く柳瀬と香流をちらちらと何人かの生徒達が横目で見た。
「柳瀬、教会って遠いの?」
「学校から徒歩で10分もかからねぇよ」
「近いなぁ」
「ただ細道を通るから、ちゃんと俺に着いてこいよ」
「うん」
「大人しくしてろよ!」
「うん、分かった」
校舎を通り過ぎると、左に曲がって、次の角を右に曲がって、斜め左の住宅の間を抜けて行く。
柳瀬に着いて行きながら、香流はとてもワクワクしていた。
柳瀬と街の中を散歩するの、すげぇ楽しい!
「柳瀬、楽しいな!」
「何が?」
「あんまり危ない道通るなって賢吾が言うからこんな迷路みたいな道通ったことない」
「そりゃ良かったな」
コイツの家族も大概過保護だな。
柳瀬は呆れ混じりに香流を振り返った。丸い瞳をキラキラさせてなんとも楽しそうな顔をすることで。
「まぁ、変な奴が隠れてるかもしれないからこういう道を歩くのは俺がいる時だけにしとけよ」
柳瀬も大概過保護だった。
「中川もこの道通るのかな」
「アイツの事だしまだ教会で呑気にお菓子でも食ってんじゃねぇの」
「朝ごはんちゃんと食べた?」
「食パン1斤食ってた」
話しながら、路地裏を抜けると赤い屋根が香流の視界に飛び込んだ。
外壁にはヒビが入っており、ところどころ蔦が巻きついている。薄茶色の扉には《史磨支部》と書かれた小さな看板が紐でくくり付けられている。
近くには公園もあった。錆びた水道と、滑り台が1台だけ備えられている小さな公園。
誰も利用していないのか、草が無造作に生えている。
香流は驚いた。こんなにボロボロな場所で中川は暮らしていたのか。
柳瀬と暮らせて良かったな。心の底からそう思う。
「ボロボロだな⋯」
「誰も手入れしてないからな」
柳瀬は言いながら、教会の扉を開いた。
ギィィ、と古めかしい音を立てて外開きの扉が動く。中はいくつかの長椅子と、奥まった中央に錆びれた祭壇があった。
埃っぽくて薄暗い。柳瀬が足を踏み入れても、中からは何の反応も返ってこなかった。
「中川?」
香流が声をかける。
反応はない。それどころか、長椅子に絵の具セットが置かれたまま触られた様子もない。
柳瀬も怪訝そうに眉を寄せた。中川ならふたりが来れば喜んで飛んで来るはずだ。
何の気配も感じられない。
「妙だな⋯」
柳瀬がぽつりと呟いた。
確かに、教会に寄ってから学校へ行くねと中川は言っていた。アイツが嘘をつくとは思えないし、何より起き抜けに「今日のお弁当は何かなぁ」とご機嫌で鼻歌を口ずさんでいた。
香流のご飯が何より大好きな中川が学校をすっぽかすとは到底思えない。
香流は柳瀬の横を抜け、絵の具セットの側へ近寄った。中川が帰ってきた痕跡がないかを確認するためだったが、そこで香流はピタリと動きを止めた。
獣のようにある一点を凝視している。柳瀬が近寄ると、香流は視線を動かさないまま片手を上げて柳瀬を制した。
「空間がズレてる」
これまで幾度となく色んな種族に連れ去られたり呼ばれたりしてきたが、このケースは始めて見た。
絵の具セットの前、長椅子の前の空気が微妙に歪んでいる。
まるでブロックを嵌めた時の僅かな隙間だ。柳瀬は息を飲んだ。こんなもの言われなければ気付くはずがない。
「すげぇな、柚木」
「俺は森で育ったから目がいいんだ」
ふふん、と香流は鼻を鳴らした。
「中川はここに連れて行かれたっぽいな」
「何でアイツが攫われてんだよ⋯」
地球の神の側付きの天使のくせに情けない。
柳瀬は眉間を摘んだ。帰ってきたらお説教だな。呑気に食べ物の事ばかり考えてるからこんなことになるんだ。
「柳瀬、これ開けれる?」
「あぁ。任せろ」
柳瀬は腰ベルトに差した扇を取り出すと、ひらりと優雅に開いた。
繊細な模様が描かれた白い扇を前に突き出す。
「
柳瀬が一言唱えると、扇がところどころに細やかな白い花が散りばめられた、鋼のように硬質化する。
そのまま柳瀬は扇を縦に一閃した。ビシ、と硬いものが割れる音がして、空間がガラスの破片のように飛び散っていく。
裂けた空間の向こうには、鬱蒼とした森が見えた。
「手分けしてさが」
「一緒に行く。お前まで攫われたら俺の手間が増える」
「俺そんな弱くねぇもん」
拗ねる香流は無視して、柳瀬は扇を閉じて腰元へ仕舞った。
しぶしぶ並んで空間の向こうへ足を伸ばす。ざり、と土の感触がした。立ち並ぶ木々は見た事のないような葉が繁っており、まるで幼児の落書きのようにも見える不気味さだった。
1枚1枚の葉の模様が異なっていて、黒っぽい緑の中に桃色が混ざりあっている。
「変な世界だな」
「あぁ。落書きの中に入ったみたいだ」
香流と柳瀬はどちらへ進もうか思案する。
そうして、同時に左右に分かれそうになったので、柳瀬は香流の首根っこを掴んで引きずって先へ進んだ。
★★★★★
迂闊だった。
乳白色の結界の中で、中川は眉間に皺を寄せてひたすら結界を展開する。
外からなにかが触れる度に、結界が溶かされては溶かされた箇所を修正する。それを何度か繰り返して、さすがの自分も疲れてきた。
そしてお腹空いた。
今日も学校で柚木のお弁当を3人で食べる予定だったのに。
冷めても美味しいおかずと、ほんのり甘い白ご飯を交互に食べる幸せ。そんな事を思いながら、中川は今朝柳瀬と分かれたあと、スキップで教会へ戻ってきていた。
ボロボロの仮住まいは特段変わりなく、相も変わらずところどころ錆びたり欠けたりしていて貸切状態の仮住まい。それでも祭壇があるので聖なる力は纏っており、中川にとっては居心地の良い場所ではあった。
柳瀬と黒服さん達が荷物を運んでくれたのに、何故か絵の具セットだけは持って行き忘れていたのに気付いたのは今朝だ。
あれぇ?と疑問には思っていた。
荷物は纏めて、眠る時は結界の中で一緒に眠っていた。物取りにあわないようにするためだ。
天使はいくつかの属性に振り分けられている。
中川は、純粋な聖の力に特化している。それ以外の属性には一切適応せず、炎も出せなければ風も起こせない。
だが、結界生成や対魔に関して右に出るものはいない。高密度の結界作成や対象を限定した複雑な使い方も出来る。
そんな中川は、人一倍虫や爬虫類などのもふもふとした生き物以外に苦手意識を持っていた。
教会暮らし時代には常に結界を張っていたから、悪意のある者だけでなく、虫の一匹ですら侵入してくることはなかった。
それに、出来るだけ教会での戦闘は避けたかった。学校へ行くための大事な授業道具が壊れるのは嫌だったから。
柚木と一緒に学校へ通えなくなるのだけは絶対に嫌だから。
大事にしていた。鉛筆一本ですらなくなさいように気をつけていた。
天界で嫌われている自分が、何かを新しく買ってもらうことは不可能だから。
そんな自分が不注意で忘れ物なんかするだろうかと、その時にもっと深く思い至れば良かった。そうしたら柳瀬も着いてきてくれたのに。
蛙が、一匹。
中川の絵の具セットの近くに、佇んでいた。
息を飲んだ自分の肩を、誰かの手が撫でた。視界を移した中川の目に飛び込んできたのは、4本の指と指先の球体。
そして緑色。
「いやぁぁー!!」
暗転。
中川は意識を失った。
「もぉぉ!しつこいなぁ!」
そして現在、人型の蛙とひたすら攻防を繰り広げている。
タキシードを着た蛙。でも顔も四肢も蛙。その手が伸びる度に結界が破壊され、即座に修正する。それを繰り返しもう何分経った。
巨大な池の
どうやって着替えさせられたのかなんて想像したくもない。奴が現れる前に目が覚めたのは幸運だった。現状把握の前に結界を張れたから。
『姫!誓いのキスをしましょう!』
「姫じゃないもん!」
蛙のくせにタコみたいな口をするのはやめてほしい!
厄介なのは、前方からだけではなく後方からも小さな蛙が突撃してくることだ。
もう、俺じゃなかったら捌ききれないんだからね!
地上に降りたのが俺で良かったね!
半泣きの中川がタキシード蛙を睨みつけると、蛙が頬を赤らめた。
ぞっとする。その瞬間、集中が途切れたのが自分でも分かった。
「やばっ」
ぽつりと声を零した中川は、ぎゅっと目を瞑る。
でも、触れたのはヌメヌメした4本の指ではなく、温かい人肌だった。
「中川、何でドレス着てんの?」
「柚木ぃ!」
まるでお姫様のように救い出してくれたのは、中川だけの絶対神だった。
中川は泣きながら香流の首筋にしがみつく。香流は苦しいと思いながらも、口には出さなかった。近くの蓮の葉に着地し、蛙達と対峙する。
「おい柚木、勝手に飛び出すな!」
少し離れた地面から、柳瀬が声を荒げる。香流はすました顔で柳瀬に向かって口角を上げた。
「俺の勝ち」
「勝負してねぇわ!」
『誰だ君たちは!』
タキシード蛙が香流達を指さして怒鳴りつける。
香流は蛙達が動き出すより先に、柳瀬の近くへ蓮の葉を渡って跳躍した。中川さえ帰ってくれば応戦する必要もない。さっさと帰るのが得策だと考えたからだ。
「よし、帰ろう」
「そうだな、相手の数も多い」
『君たち、姫を返しなさい!』
―――姫。
思わず香流と柳瀬が中川を凝視した。
中川はぶんぶん首を振る。もげそうなくらい首を振って顔が真っ赤になっていた。
「あんなやつ知らないよ!教会に帰ったら蛙がいて、気付いたらここにいたの!」
「ドレス似合うぞ、姫」
「柳瀬のいじわる!」
ニヤニヤと楽しそうな柳瀬に中川は頬を膨らませる。相変わらずあざとい奴め。だから姫なんて呼ばれるんだ。
柳瀬が呆れていると、眼前に音もせずタキシード蛙が着地した。
さすがの跳躍力だ。姫と言う単語に反応してる場合じゃなかった。
『姫を返してもらおう』
3人の後ろから、ケロケロと無数の鳴き声が聴こえる。
後ろを向いている中川だけが、「ひぇっ」と息を飲んだ。視界を埋め尽くさんばかりの緑が池一帯に広がっている。
「返さないけど、何で中川を返して欲しいんだ」
中川が下りてくれないので、仕方なく中川を抱っこしながら香流がタキシード蛙を見上げる。
少し背の高いタキシード蛙は、耳触りの良い低い男性の声でふふんと顎を持ち上げた。
『一目惚れだ』
「ひとめぼれ」
お米の種類かな?
「柚木、お前の考えてることは間違ってる」
間を置かず柳瀬が突っ込んだ。隣のアホがあまりにアホ面をしていたからだ。
「要するにアイツは中川と結婚するつもりだったんだろ」
「結婚!?」
『きゃっ、そんな破廉恥な!』
「俺が恥ずかしい奴みたいな言い方はやめろ!」
柳瀬が怒りながらタキシード蛙を指さした。何でまともな解釈をしてそんな言い方されなきゃならないんだ。誰が破廉恥だこの野郎。
柳瀬が憤っていると、香流がドン引きしながら呟いた。
「⋯中川、蛙と結婚すんの?」
「しないよ!!」
中川が渾身の力で叫んだ。怒りに身を任せてアホ神の頬を引っ張る。
「俺は攫われたの!この服も好きで着てるんじゃないの!ちょっとは頭使って!」
「いたい」
「泣きべそかくなアホ神!」
珍しく中川がブチ切れている。タキシード蛙と柳瀬は何となくその気迫に押されて黙っていた。
『姫、お嫁さんになってくれればなんでも君の思い通りだよ』
「やだ!」
『嫌だなんて言わないでくれ。口付けをすれば君も立派な蛙になる』
「何でこんなに可愛く生まれてきたのに蛙にならなきゃならないの!絶対やだ!」
なんてポジティブな奴だ。柳瀬は心の中で突っ込んだ。
『確かに君は可愛い。初めて公園で見かけた時、なんて可憐なんだろうと思わず詩を詠んだものだ。
うつくしき わがぎんいろの ほうせきひめ』
「何で5、7、5?」
あぁくそ、負けた。突っ込んでしまった。
柳瀬はくっと歯噛みする。もう嫌だこのアホ共の相手をするの。どうして毎度俺ばっかり無駄に疲れなきゃならないんだ。
『今までは何故か教会に入れなかったから、君は宝箱に護られた宝石なんだと知ったんだ。数週間前からようやく教会へ入れたと思ったら、君の姿はなかった。ずっと待ち続けて、今だよ!』
タキシード蛙が両手を広げる。
「知らないよ!」
中川は己の腑抜け具合に愕然としていた。そんな前から目をつけられていたとは夢にも思わなかった。
『僕の姿を見て身を委ねてくれたじゃないか!』
「気絶しただけです!」
「中川、蛙苦手なの?」
「俺は昆虫と爬虫類は苦手です!それを好きな人は否定しません!」
「そっか。じゃあ、お前が悪い!」
香流はタキシード蛙を睨み付けた。
タキシード蛙の胸がキュンと高鳴る。
「嫌がってるのに無理やり好意を押し付けるのは良くない事なんだぞ!」
「ゆ、柚木がまともなこと言ってる⋯」
「すごいだろ」
「別にすごくはねぇよ」
柳瀬の辛辣な突っ込みが冴え渡る。何でだよ、と拗ねる香流をじっと見て、タキシード蛙はゆっくりと跪く。
『素晴らしい⋯⋯』
恍惚のため息をつきながら、タキシード蛙は胸を押さえる。
柳瀬と中川もため息をついた。もっとめんどくさい事になった。香流だけがふふんと自慢げに口角を上げている。
『君は我が妾になるといい!』
「めかけ?」
「愛人みたいなものだよ」
「あいじん?」
「側室とか⋯⋯」
「そくしつ?」
「ほんっとアホだなお前」
柳瀬が呆れている。話が全く進まなくてある意味助かったが、もう通じなさそうなのでこれ以上言及するのは止めておいた。
『案ずるな。青い君も妾にしてあげよう』
「
柳瀬は限界まで開いた扇を前へ突き出した。
扇の先端から数え切れないほどの小さな薔薇が咲き誇り、同時に
『痛い痛い!』
「タキシードを着てるのが仇になったな」
タキシード越しに棘が刺さって剣山のようだ。
中川がようやく香流から腕を離した。綺麗なトゥーシューズで地面へ降り立つ。
そして頭のティアラをむしり取ると渾身の力で地面へ叩きつけた。
「帰してくれますか?」
『僕と結婚すれば幸せになれるのに⋯』
「まさか。俺が柚木と離れるなんて有り得ない」
中川が怒っている。
とても静かな声だ。いつもの明るくて華やかな声とは違う。鈴の音のように涼やかな声。
『そうだ!そのふたりを君の側仕えとするのはどうだい?』
その言葉は、中川の琴線に触れた。
中川はあくまで天使だ。そして神である香流の側にいられることを誇りに思っている。
いくら神本人が友達だと認めてくれようと、神と天使の本質には明確な上下関係がある。
その上下関係を覆される事は、香流と中川の関係を否定される事に他ならない。
「俺の神様をこれ以上侮辱するな」
す、と中川は手を差し出した。
中川の身体が薄い乳白色の光に包まれる。紫色の瞳がアメジストのように瞬き、銀色に輝く柔らかな髪が宙に揺らぐ。
「《
中川が聞き慣れない言語をぼそりと呟いた。
瞬間。
何百といた蛙が瞬く間に消滅した。
タキシード蛙だけが膝をつき、胸元を押さえている。
『姫、僕は君と一緒に』
「赦しは聞かない。お前は滅びろ」
中川が言うのと、タキシード蛙が消え去るのはほぼ同時だった。
柳瀬と香流は少し後ろに下がってその様子を呆然と眺めていた。
何だったらちょっと引いていた。
「な、中川が怒ってるの初めて見た⋯」
「普段大人しい奴を怒らせるとヤバいって言うもんな⋯」
「中川は怒らせないように気をつけよう」
「食いもん与えてりゃ大丈夫だろ」
ボソボソと話していると、ふ、と中川の周りの光が消えた。
中川ががくりと膝をつく。香流は慌てて中川の傍へ駆け寄った。
「中川!」
「お⋯」
「お?」
「お腹空いた⋯っ」
ポロポロと大粒の涙を零しながら中川が泣いている。
柳瀬は眉間の皺を指で押さえた。
なるほど、中川が常に何か食べている理由が分かった。
天使の中川が地上で活動するための必要なエネルギーと言うわけだ。そのエネルギーは能力使用にも依存するのか。
チビのくせに一体どこへ入ってるんだと思っていたが、常にエネルギーを放出させているならあの大食らいも理解できる。
中川は食欲かぁー。
睡眠依存の柚木と相性抜群だな。ってこのコンビ燃費悪いなオイ!
柳瀬は踵を返した。さっさとこのよく分からない世界から脱出するためだ。
「中川、ごめん。何も持ってない」
「柚木のお弁当が食べたい」
「うん、帰ろう」
「怖かった⋯」
飛びつくように抱きつかれ、香流は中川の頭をぽんぽんと撫でる。
中川が蛙にならなくて良かった。
中川がいなくならなくて良かった。
今更、怖くなってきた。落ち着かない理由がこれだったなら、すぐに中川の元へ来られて良かった。
あの時、もう少し遅ければ、間に合わなかったかも知れない。
そう思うとぞっとした。怖い。当たり前が壊されるのはとても怖いことだ。
「俺も怖かった⋯」
香流は素直にそう言うと、中川をぎゅうっと抱きしめた。
友達が突然いなくなるかも知れないなんて、考えたこともなかった。
中川はいつも学校へ行けば会えると思っていた。
でも、違うんだ。
不変なんてないんだ。
嫌だな。俺の周りから誰もいなくならないで欲しい。
香流は中川のドレスを握りしめる。しばらくそのままでいると、やがて中川はふっと笑った。
「心配かけてごめんね」
「⋯⋯うん」
「今回は油断したけど、次はないから!」
中川はどんと自分の胸を叩く。
「俺強いから!だから、泣かなくていいよぉ〜」
香流の涙を拭って、中川はいつも通りニコニコと微笑む。
その笑顔がすごく安心出来た。初めて会った時から中川はずっと笑っていて、怒ってる中川よりもそっちの方がいい。
「柚木は意外と泣き虫だね!」
「中川がいなくなるのは嫌だ」
「いなくならないよ!」
「お前ら、出口見つけたから帰るぞ」
柳瀬が戻ってくると、香流が泣いていてぎょっと目を見開いた。
「な、なんっ」
「俺がいなくなると思って怖くなっちゃったんだって」
「そ、そうかよ⋯」
ぎこちない動きで柳瀬がふたりに近付く。泣いてしおらしくしてたらめちゃくちゃ可愛いな。と言うかコイツらセットでほんと⋯⋯
「可愛いな⋯!お前らマジで可愛いな畜生!俺は本当に役得だ!」
「どうしたの柳瀬」
押さえきれなくなってつい口から出てしまった。
柳瀬は膝を着いた。深いため息をついた柳瀬は、ぱっと顔を上げてすました顔をする。
「さ、帰るぞ」
「柳瀬、お腹空いて歩けないからおぶってー」
「柳瀬もいなくならないで欲しい」
「よし、何でも言うこと聞いてやる!」
柳瀬は中川を背負って、香流の手を引いて先程自分が開けた空間まで歩いて行った。
道中には来た時と変わらず、落書きのような木が鬱蒼と生えている。出口に辿り着くまで何の生き物にも遭遇しなかった事が、少し不気味だがありがたかった。
空間の裂け目の向こうに薄汚れた協会が見える。
柳瀬と香流が足を踏み入れると、ヒュ、と小さな音を立てて空間が閉じた。あの場所を作った主がいなくなったからか、それとも単に何らかの術が切れただけか。
聞く前に消えちゃったしな。柳瀬はいつもニコニコと笑顔をたやさない中川の怜悧な瞳を思い出して僅かに微笑んだ。
自分の事では怒らなかったのに、柚木の事を言われるのは我慢ならないんだな。
柚木に対してあの蛙が『妾』と言った時点で中川の表情が険しくなっているのには気付いていた。
よっぽど大切なんだな。俺が思うよりもずっと、中川は柚木への忠誠心が高い。
「お腹すいたー⋯。柳瀬、何か買って」
「コンビニ寄って戻る時間あるかな」
「そもそも俺の制服どっか行っちゃったし⋯。もういいや、1限目サボろ」
「1限目英語だけどな」
「柳瀬、早く戻ろう」
「ドレスで行く気かよ」
中川と柳瀬のいつもの軽口を聞いていたら、少し気持ちが落ち着いてきた。
泣いたのなんて故郷を離れた日以来だ。それだけ新しい今の環境が大事になっている自分に驚いた。
変わらないものはない。時は流れていく。
ばあちゃんは元気かな。もう歳だから無理してないといいけど。
いや、大丈夫か。ばあちゃんは強いもんな。俺が大人になって警察官になるまではピンピンしてるよって笑ってたもんな。
「ほら、柚木も早くコンビニ行こ!」
「寄らずに戻れば間に合うんじゃねぇの?」
「やだ、お腹空いた!もう歩けないもん!」
「めんどくせぇ姫だな」
「姫じゃないもん!天使だもん!」
「もんもん言うな男だろお前は!」
「俺は可愛い天使の男の子だもーん!」
中川と柳瀬が言い合いしながら笑っている。
いつもの光景に安心した。今の俺の場所はここだよ。それだけは間違いない。
ばあちゃん、友達って怖いんだな。
初めて知った。ここへ来て初めての事ばかり知る。
ずっとこのままはないんだ。家族ではない繋がりはすごく曖昧で、中川も柳瀬も家族みたいに一緒に暮らしている訳じゃない。
毎日一緒にいられることを大切にしなきゃならないんだ。
いつかまたその話を出来た時、ばあちゃんは笑ってくれるかな。
絵の具セットをすっかり忘れて行くふたりの背中を見送って、香流は中川の絵の具セットを持ってふたりの後を追いかけた。
中川はコンビニでおにぎりとスイーツを3つずつ食べた後、お弁当もぺろりと平らげた。
それでも足りなさそうだったので、初めて購買という場所へ行った。残ったパンを買い占めた中川は、クラスメイトがドン引きするくらいずっともりもり食べていた。
そして、金を搾り取られた柳瀬からあまり強い魔法を使うなと説教されていた。
ちなみに服は学校で体操服へ着替えた。ウェディングドレスで登校する男子中学生に担任の錦織先生は、
「可愛いから全てまるっと良し!」
と謎の大絶賛だった。
「ばあちゃんに会いに行きたい」
夕食中。
しばらく黛家は本土生活だと言うので、雲雀も一緒に柚姫リクエストのオムハヤシを食べている最中。
ぽつりと呟いた香流の言葉に、3人は一斉にガタンと立ち上がった。
「勝手に行くんじゃないぞ!」
「えっ」
「お兄ちゃん、あの村はバスもないのよ!子どもだけじゃ行けないのよ!」
「う、うん」
「やっと学校へ行けるようになったんだから、しっかり学校通わないと!」
「うん⋯」
すごく責められた。
いきなり家族全員に責め立てられ、香流はしょぼんと肩を落とす。
「俺乗り物苦手だし、ひとりでは行かないよ⋯」
「当たり前だ。村よりここの方が暮らしやすいだろ」
「そうよ!ここでの暮らしはたくさんお洋服もあって楽しいのよ、お兄ちゃん!」
「それに、まずはやるべき事をやらないとね」
何でこんな必死なんだコイツら⋯。
俺はそんなに信用がないんだろうか。ちょっと会いたいと言っただけなのに。
そもそも船の乗り方も分からない。全部保護者がやってくれたし、気付いたらここにいたくらい村から移動した記憶がまるでない。
良く寝てたらしい。そのお陰で村への帰り方が分からなくなってしまった。
きちんと覚えていたらひとりでも行けたかもしれないのに。いや、ひとりでは行かないけど。行くならみんなで行きたいな。
「ちゃんとここにいるよ。お前らのご飯作らなきゃならないしな」
俺がいないと生活出来ないもんな、コイツら。
香流がそう言うと、3人はあからさまにほっとした。なんか傷付くな。最近の行動を振り返ってもすごく大人しくしてるのに、その反応は納得いかない。
「明日はガパオライスが食べたい」
「何それ」
「ゆずはオムライスがいい!」
「柚姫はオム好きだな」
「俺は肉じゃが」
「なぁせめて系統を統一してくれよ」
一食で何種類作らなきゃならないんだ。別にいいけど。
その夜は何故かいつもより柚姫と賢吾がベッタリくっついて離れなかった。夏も近いというのに暑苦しかったけど、俺はお兄ちゃんなので我慢我慢。
家族なんだから勝手に置いて行ったりしないのにな。
変なの。
そう思いながら、今日も誰よりも早く眠る香流だった。
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