文芸部の隠し事
神浦七床
文芸部の隠し事
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「推理をしよう。誰が犯人なのか」
先輩はぐるりと僕達を見回した。笑い話では済まない誰かの悪意がここにある。それを持っているのは、今まで一緒に活動していた部員の誰かなのだ。
小説を読んで作者の意図を想像し、小説を書いて何かを作り上げようとした。
今までの部活動でも不思議な謎はいくつかあったが、それらには悪意はなかった。
しかし、これは違う。
僕はゴクリと唾を飲み込む。
これは物語じゃない。小説の犯人当てではない。
僕らはもう、事件が起きる前の僕らには戻れないのだろうか。
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放課後の教室は賑やかだ。入学したばかりでとりあえず誰かと話したいという人や、部活の可愛い先輩について情報交換する輩、はたまた購買パンを確実に買う裏技や校内の七不思議といったチップスをばらまく奴もいる。
いつもはすぐに帰るのだが、時間をつぶす都合で課題を片付けつつそんな与太話に耳を傾けていたが、やっぱり興味は抱けなかった。何も知らない今だからこそ噂話や信憑性の薄い話で盛り上がれるだけであって、実情を知ればこんな話なんてすぐ価値がなくなるだろうに。
「陸上部のポニテの可愛い先輩、名前なんて言うんだろうな」
「まずは店員に顔を覚えてもらうんだ!」
「カップルが屋上に行くと分かれるらしいよ……ってそんな相手いないか」
つまらない。それは、どの話も僕に対してされたものではないからかもしれなかった。
本を読むことが好きだった。
いつでも好きな時に好きな場所に行ける手段で、現実を忘れられる逃避の方法だった。
本を読むことしか好きじゃなかった。
現実の日常も非日常も淡々と灰色で、面白くないことか怖いことしか起きない。自分の心根の問題だとは分かっていても、あんなに楽しい世界があることを知ってしまった今、現実はつまらないものにしか思えなくなった。
「だから、ずっと本を読んでます。好きなジャンルはミステリです」
パラパラと拍手が鳴る。自分を見る六つの瞳は好奇心に満ちているわけでも退屈そうに閉じられているわけでもなく、その温度感に安心した。
「はい。ありがとうございました。ようこそ文芸部へ」
対面に座っている茜色のメタルフレームの眼鏡をかけたボブカットの先輩がにこやかに言った。
「二年以上は三人しかいないから、入ってくれてとても助かるよ。五人以上いない状態が二年続くと廃部になってしまう決まりだからね」
優等生っぽくきっちりと制服を着た男の先輩が嬉しそうに微笑む。
それに同調するように、長い黒髪の物静かな女の先輩が頷いた。
誰も同情も共感も示さないことに安堵する。きっと、ここの人たちはみんな同類なんだろうと思った。
何かしらの部活に所属しないといけないと言われた時は面倒だと思ったが、こういう環境で適度な距離を保てるなら悪くない。なんて、何も知らないのに思うことではないか。
「君たちは、廃部になっても特に困らないのかもしれないけど。俺にとっては結構な問題なんだよ」
男の先輩は、廃部という言葉に反応の薄かった女の先輩二人に言った。
「えー、私も困りますよ。書いた小説を読ませられる相手なんて、なかなかいませんし」
「感想を話すのは楽しいので」
笑顔と真顔で二人の先輩は否定する。こうは言っても、文芸部の新入生向けビラは簡素な文字だけのものだったし、部活紹介の日も文芸部は登壇していなかったので、あまり勧誘に力を入れる気はなかったのだろう。
「じゃあ、今度の昼休みに私たちだけで一年生の教室へ行って、勧誘してみる?」
「嫌」
「そっかあ」
新しい人を入れようとしないのは、内輪で固まった人間関係があるからなのかと思ったが、すごく仲がいいわけでもないようだ。
少なくとも、創設六年目の新設校らしく部室は綺麗で、たっぷり一部屋占有している。本棚も充実しているから居心地は良さそうだ。
「……でも、今は四人しかいないのに大丈夫なんですか」
文芸部の現部員は三人。新入生の僕が入っても四人で、決まりの五人にはまだ満たない。僕がいても意味がない気がする。
「大丈夫大丈夫! 実はあと一人新入生がいるんだ」
向かい合うようにくっつけられた机は五席あり、誕生日席が未だ空だった。そういうことか、と納得する。
同じ新入生。どんな人なんだろう。物静かなお下げ髪の女子や、僕みたいなコミュ障かもしれない。それなら仲良くしやすくていいんだけど。
「すみません。委員会決めが長引いて遅刻しました」
ガラリと部室の扉が開いて現れたのは、眼鏡をかけた男子だった。申し訳なさそうに頭を下げ、上げる。目が合って、もう一度頷くように頭を下げられた。金縁の丸っこいフレームの眼鏡をかけていて、随分クラシカルだなと思った。
「気にしないでいいよ。ようやく揃ったし自己紹介を始めからやり直そうか」
優等生先輩が指差した空いてる席に彼はすぐに座った。
「学年順でやろう。俺は三年の三浦律。ジャンルに関わらず雑多に読む。受験で参加頻度は少ないと思うけどよろしく」
茜色眼鏡の先輩が拍手をし、それに従った。
「続きまして、二年の物見咲です。好きなジャンルはグロめのホラー。一応部長です。よろしくね」
「二年。田嶋由香。好きなジャンルはファンタジー」
無口だった先輩は、必要な情報だけを口にして頭を下げた。
もう一人の新入生と、どちらが先に自己紹介するか目で問うと、お先にどうぞと手のひらで促された。
「一年の佐倉御影です。好きなジャンルはミステリです。よろしくお願いします」
三浦先輩と物見先輩は「いいね」というように頷きながら拍手してくれた。それに笑顔を返し、残る一人に視線を送る。
丸眼鏡の新入生は肩をすくめたように見えた。
「同じく一年の日向八雲です。本は、あまり読んだことがないです」
……え?
「これを機に読もうかなと思ってるので、おすすめがあれば教えてください」
先輩二人は「えっ、おすすめしていいの?」とはしゃいでいる。僕は頭の中の疑問符に気を取られ、なおざりな拍手になってしまった。
本を読まないのに文芸部に。もしかして、部活に入らなければならないから適当に籍を置こうと思っているのか。それは特に咎めることではないけれど……。
「なんで本を読もうと思ったの?」
物見先輩の問いに、日向くんは小首を傾げつつこう言った。
「新しいことを始めたいと思って」
その表情には、この場を取り繕おうとするきな臭さは見えなかった。気後れしたように目を伏せる仕草には好感が持てる。
高校生になって本を読まなくなる人は多いと聞くが、読み始めようとする人もいるのは意外だ。どうして読書に興味を持ったんだろう。
聞きたいとは思うが、初対面で話すのは不躾だろう。
その後はつらつらと部活の基本事項が説明された。
活動日は木曜。全て任意参加で部費などはなし。年二回部誌を出すが、その締め切りは九月、一月である。部活紹介で聞いていたから知っていたが、ふんふんと頷いておく。
「それじゃあ、新入生歓迎読書会の課題小説を配るね」
今日はこれを楽しみにして。放課後時間を潰していたのだ。当日まで課題小説は分からず、すぐに読める短編小説が配られて十五分で読み、感想を述べるという形式は新鮮だった。
配られたのはワードファイルをそのまま印刷したような一枚の紙。本をコピーしたわけではないようで意外に思う。読んだことはなさそうな文だった。
「あの、タイトルとか作者名はないんですか」
一文目から文章が始まっていてそれらの記載はなかった。それを聞いた物見先輩は悪戯っぽく笑う。
「これも趣向のうちなんだ。まずは読んでみてよ」
後悔が無いと言ったら嘘になる。でも、時間が巻き戻せたら何をするかと問われても、あたしは何も答えられない。
どうせ今から死ぬんだし、走馬灯代わりに自分のことを改めて考えよう。
ずっと前から好きだった先輩がいた。入学した時に一目惚れしたから同じ部活に入ったし、友達にも根回しして先輩と良い雰囲気の子がいたら報告してもらうようにしてた。何人かいた身の程知らずには、きちんとそれを教えてあげた。ここまではよくあることだったと思う。あとはあたしが先輩から告白されるのを待つだけだった。
それなのに、計画が狂ったのは夏休み明け。いつも一人で登下校していた先輩の横に知らない女がいた。いかにも真面目そうで、メイクもせずスカートも折っていないような二年生。ありえないと思った。確かに顔は綺麗だけど、どうしてあたしじゃなくて努力してない人を選ぶんだろう。実は魔性の女なのかと思って調べたけど、全然そんなこともなかった。ううん、魔性かどうかなんて関係ない。とりあえずどうにかしないといけないと思った。
よく協力してくれる人に、あの二年に変な噂を付けられないか頼んだ。いかにもそれらしい写真を捏造し、ばらまくことに成功した。あたしが手を下したとはばれず、先輩はまた一人で登下校するようになった。
やらない後悔よりやる後悔、と思って偶然を装って先輩に声をかけた。そしたら全てがうまくいって、先輩はあたしの彼氏になった。
全てがうまくいった。そうだよね。
でも、それも今日で終わり。気づいちゃったんだからしょうがない。
下に見える常夜灯が、無意味に人工芝のグラウンドを照らすのを見ながらため息をついた。
遺書は残さないけど、天国にも行きたいけど、この気持ちはここに残ったらいいなって思う。
……何だこの文章は。死ぬ間際の誰かの独白のようだが、物語というには内容がなく特に面白いともつまらないとも思えない。これに感想を持てというのも難しいんじゃないか。強いていうなら意味がわかると怖い話に似ているテイストだが、意味がわからないのでどうしようもない。
顔を上げるとニヤニヤ笑っている物見先輩と目があった。どうやらこの反応まで折込済みらしい。となると、今回は単に感想を言い合うのではなく、この文章が何なのかを話すのが目的に含まれるのだろうか。他の人の顔をチラリと窺うが、田嶋先輩の顔はつややかな黒髪に隠れ、三浦先輩も唇をきゅっと結んで行儀良く紙に目を向けているので分からない。
「さて、みんな読み終わったみたいだね。お気づきの通り、面白くて出来の良い小説を扱うわけじゃない。この短編は、今から五年前の部員が部誌に寄稿した文章です。今回の読書会のテーマは『筆者の意図を推測しよう』。書評の仕方を考える第一歩として、こういうアプローチもいいかなと思って選んだよ」
背後に隠していた冊子をひらりと見せびらかす。表紙には、紅葉を見つめる制服姿の少女の絵が描かれていた。
全員その意図を聞いて苦笑気味だった。三浦先輩が「物見さんらしいね」と呟くのを見るに、捻ったことをしがちなんだろうか。
「まずは何から話そうか。特になければ俺から言っていいかな」
異論はない。学級委員長みたいな仕切りには安心感がある。
「それじゃあ前提の確認から始めよう。これを読むに、語り手の少女は飛び降り自殺をしようと屋上に上がり、過去を振り返っている。そして、少女はかなり身勝手で恋愛気質だと考えられるね。そこで気になるのは、少女は何故自殺しようとしているのか、だ」
頷いて同意を示す。「どうせ今から死ぬ」という言葉や「下に見えるグラウンドの灯」という描写から、飛び降り自殺を目論んでいるのが匂うし、「身の程知らずには、きちんとそれを教えてあげた」と言いつつ「よくあること」と片付け罪悪感を持たない様子は、自分勝手だと強く印象づける。しかし、そんな自分勝手な人間が何故死ぬのだろう。
「作者が設定したこの少女のプロフィールが分からない以上、死ぬ理由の何が正解かなんて決めうちできないんじゃないでしょうか」
細部まで設定をつめなければ、推理可能な謎は出来上がらない。僕の言葉に三浦先輩は「その通りだね」と首肯した。
「そういう意味で『筆者の意図を推測しよう』なんだな。よくある少女の内面にしか見えないのに、何をとっかかりにしたものか……」
早速机に突っ伏す三浦先輩。打たれ弱く振り回されがちなのかもしれない。田嶋先輩は顔色一つ変えず紙を見つめている。この人は何を考えているのか全く分からない。日向くんはどうしているかとこっそり横目で見るつもりが、目があってしまった。思ったより意思の強そうな黒い瞳が、考えがあることを物語っていた。
「この話って学校の七不思議と似ていませんか。僕もまだちゃんとは知らないんですけど」
「七不思議……」
クラスメイトが話していたものを思い出そうとするも、屋上やカップルというワードしか出てこなかった。
「七つのうちの三番目に、『恋人だった先輩を奪われて屋上から飛び降り自殺をした女生徒が、屋上を訪れるカップルを不幸にする』というのがある」
田嶋先輩が小声で言った。七不思議に興味を持っているなら、ハイファンタジーよりも、身近なところに不思議があるローファンタジーの方が好みなのかもしれない。
「そう、それです。屋上からの飛び降り自殺というところに共通点があるんじゃないかと思って。ここの学校のグラウンドは人工芝ですし、学校を舞台にして七不思議をモチーフに使って書いたと考えるのはどうでしょう」
パッと顔を明るくさせて日向くんは提案した。眼鏡も合わさって幼い印象を受ける。
「でも、恋人を奪ったのは主人公の方なのに七不思議と矛盾しないかい」
三浦先輩が鋭く指摘した。先輩らしく押さえる部分は押さえている。
「確かに……」
しゅんと俯くのがなんだか可哀想で、「七不思議を何故改変して小説に仕立てたのか、作者の意図を推測するのはどうでしょう」と言ってしまった。
「いいねえ佐倉くん。これが私の期待していた展開だよ」
眼鏡を輝かせ、物見先輩はご機嫌だ。
「この答え、物見先輩はご存知なんですか」
「ううん。だから知りたいと思っているんだ。自分なりに考えたこともあるけど口を出すと君たちの議論にバイアスがかかっちゃうから、あくまで聞く側として振る舞うけど」
昔の学生の小説をきちんと読み、その意味を知りたいと思うなんて、とても文芸部のことが好きに違いない。
それはさておき、本当に答えがあるのかというのがネックだ。小説内で起きた事件なら十全に必然性や解決策が満たされるが、現実で書かれた小説の全てに意味があるとは言い難い。考えたところで意味がないなんてことも多い。
じゃあ、考える意味なんてないんじゃないか?
一度そう思うと、口を開くのも考えるのも億劫になる気がした。考えすぎで空回り、何もない裏を読み、飽きて疲れ果てて何も手に入らないのは面倒だと思う。
「単に再解釈を謳って大幅な設定変更したのかもしれないですし、軽い気持ちで設定変更した可能性は否定できませんよね」
ポツリと呟いた言葉に、一人を除く顔が沈んだ。
「いいや、否定できる」
物見先輩は真正面から僕を見つめ、キッパリと断言した。
「この作者はそういうことをしない人だから」
「……知り合いなの? だったら、その人に直接意図を聞けばよかったのに」
三浦先輩がため息まじりに問うと、物見先輩は首を横に振った。
「いいえ。私が作者は嘘をつかないと決めただけです。こういう前提がないと、議論が進まないので」
確かにミステリでは必要なことが。でも、それを現実でやったら真実の特定を妨げることにならないだろうか。僕の違和感をよそに、彼女は高らかに宣言する。
「改めて言いますね。この作者が意味のある行動をしていたことは私が保証します。それを前提に話を進めてください」
それは信頼が元になった、暴力的な前提だ。でも、そう言い切る先輩が清々しくて、何も追求する気にならなかった。
「作者が、七不思議の内容を正そうとしていたならどうだろう。実は元となった事件があって、それが歪んだ形で七不思議になったから、小説という形で訂正したのでは」
田嶋先輩の声は小さいものの滑らかで、説得力もあった。
「うちの学校で飛び降り……これのことかな。五年前の事件だ。被害者の名前も事情も書かれていないけれど、ネットニュースが出てきた。未遂だそうだけど」
すぐさまそれを補強しそうな証拠を三浦先輩が出した。「そうですか」と田嶋先輩は、身を乗り出して三浦先輩のスマホ画面を見る。
僕も自分のスマホで学校名と飛び降りというキーワードでサーチする。確かにその内容のネットニュースがあった。
「これが元になって七不思議が作られ、その内容が事実とは異なったから小説を書くことで正そうとしたということかな」
「本当に死のうとしたのは恋人を取られた側ではないと主張したいということですね」
三浦先輩と田嶋先輩が二人で流れるように話を進めていく。なんとなく会話に入りにくく、黙っている日向くんも気になって今度は体を動かして日向くんを見る。
「日向くんはどう考えてるの?」
名前を呼ばれて驚いたように顔を上げ、僕を見てはにかむ。
「佐倉くんは、作者への信頼は、前提として機能すると思う?」
その口から出たのは思ったより語気の強い言葉でたじろいだ。大人しく控えめな笑顔なのに、声は低く重い。何故そんなことを問う。「思わない」ことがありありと分かる声音で。
「……機能してほしいと思うよ」
「綺麗な答えだね。でもそんなもん前提にしなくとも、おかしい点はあると思わないか?」
先ほどから表情は全く変わっていないのに、唇の端に皮肉っぽい歪みが見えた気がした。童顔に丸眼鏡で優しげで無害そうな印象なのに、今までの振る舞いも大人しい男子生徒のものだったのに。途端に圧力をほしいままに操り始めたような。
彼の声は潜められていて、熱心に議論している二人もそれを見ている物見先輩も誰も気付く様子はない。
「何のこと?」
「好きなのはミステリなんだろ? それなら分かるんじゃないの」
これは明確な皮肉だ。こう言われると聞くわけにもいかず、僕は話を振り返る。
小説の中ではこの学校を舞台に彼氏を略奪した身勝手な女子生徒が飛び降り自殺を試みた。一方、七不思議では、略奪された側が飛び降りて死んだとされている。細かい謎はいくつもあるが、作者の人格を前提として考えなくともおかしいと指摘できるものはどこにある?
感情や心理なんてものは本人にしか分からない。好き嫌いのような本人の中で相対的に語られるものも、ある程度は前提としてパーソナルな情報が必要だ。
確実に他人から指摘できるのはもっと絶対的なもの。ほとんどの人間が常識として共有している概念だったり、人として揺るがないもの。
例えば、時間。
時系列におかしいところはないだろうか。物語内では現在が夏休み後であることが分かる。七不思議に特に時期はない。実際の事件のネットニュースの日付も五年前の九月だ。特におかしくはない。
いや、でも、それでいいのか?
この物語が載った部誌が作られたのはいつだろう。締め切りが昔から九月、一月なのであれば、九月のはずだ。だって表紙には紅葉が描かれているのだから。
事件が九月に起き、その物語も同じ年の九月に作られた。
それ以外は特におかしくはない。ちょっと不謹慎な気はするが、矛盾はない。
おかしいのは、この話がいつ七不思議になったのか、だ。
起きたばかりの事件がすぐ匿名性の高い七不思議になるわけがない。何も知らないからこそ噂話で盛り上がれるだけであって、実情が分かるならこんな話に価値はないのだから。それなら、そもそも七不思議とこの事件とは関係がないのか?
それも違う。
この学校は、創設六年目の新設校。
五年前より前の六年前に噂ができるわけがない。
だって、六年前の創設一年目に先輩なんて存在するわけないのだ。
それなら、この七不思議ができたのは事件よりも物語よりも後のこと。七不思議と物語に関係があるという前提が破綻する。
「噂話は分かりやすいようにどんどん変わっていく。それなら事実ベースの物語と全く違った話になっていてもおかしくない、だろ?」
僕が気づいたことに気づいた日向くんが顔を覗き込むようにして言った。
「じゃあ結局、『七不思議を何故改変して小説に仕立てたのか』なんて意味のない問いだったんだ」
はあ、とため息がこぼれる。
「うん。それを先輩方にも伝えてきてくれるかな」
「え、なんで僕が。先に気づいたのは日向くんじゃん」
僕がやらなくてもいいことなのに。その不満が視線で伝わったのだろう。日向くんはにこにこと人好きのする笑みを浮かべて言った。
「目立ちたくないんだ。頼むよ」
僕も目立ちたいわけではないのだが……。それでも日向くんの圧力に押し切られ、僕が先輩方に声をかけて今までの前提に問題があったことを説明することとなった。
「ああ、確かにそうだね」
と知っていて黙っていたらしい物見先輩。三浦先輩は「なるほど、よく気づいたね」と微笑み、田嶋先輩からは特にリアクションはなかった。
「結局残った大きな謎は、何故語り手は死んだのかと、何故作者はこれを書いたのかだね」
気を取り直して三浦先輩がまとめた。
「そもそも、この内容がよく部誌に載ったなと思いますけどね」
誰も不謹慎だと止めなかったのだろうか。
「書いたのが本人なのかもしれない」
ぼそりと田嶋先輩が呟いた。
確かに、それなら逆に誰も止められない。物見先輩を見るが、良い笑顔で「ノーコメント」と言われてしまった。これについては知らないらしい。
自分が自殺未遂したことを小説に書くなんて正気の沙汰ではない。それでも、作者にはこれを物語として残したいという気持ちがあったんだろう。
「残るは結局ホワイダニットか……」
「何故手に入れたかった彼氏を手に入れたのに、物語のあの子は死んじゃったんだろうね」
物見先輩の直接的な言葉は鋭利だ。
「彼氏が裏切った。または別の女性にすぐ奪われた可能性はどう?」
田嶋先輩は、切り揃えられた前髪の下から大人びた目で僕を見た。初めて視線があってなんだかドギマギしてしまう。
「もしくは、他の友達から遂に見放されたとかね」
三浦先輩は笑ったままさらりと言ってのけた。
人が死ぬ理由。そんなの星の数だけあるだろう。それを勝手に推測していいのかと躊躇う気持ちもあるが……。
「死にたい理由は、好きな人とは全くの無関係だったんじゃないでしょうか。死にたい気持ちと愛されたい気持ちは矛盾しないと思うんです」
思うに、この物語の主人公は人からどう思われても気にしない性格だ。
「否定はしないけど、物語が何故書かれたかの説明にはなってないよ」
物見先輩は僕の意見にだけきっぱりと言葉を返した。
「作者がせっかく物語として残したのに、そこに書かれてないことが重要だと考えるのはズレてるんじゃないかな」
……それもそうか。「はい」と頷く。やっぱり変に口を出すんじゃなかった。僕が発言しなくとも議論は進むんだから。
「日向くんはどう思う?」
さっきから黙っていた日向くんに、先輩が話を振る。俯いていた彼は、戸惑ったように上目使いでこちらを見る。さっきの挑発的な雰囲気はもうなく、人畜無害そうで物腰柔らかな新入生の姿がそこにあった。
「絶望したんじゃないですか、相手にも、自分にも」
ぽつりと彼は呟いた。
全員がその意味を図りかねて顔を見合わせる。
「自分が望んだとはいえ、あっさりと元の恋人を忘れて自分を好きになった相手や、そんな揺れ動く不安定なものに全ての価値を置いていた自分が、嫌になったんじゃないですか」
一度気づけば、もう戻れない。
壊れた価値観は何も支えない。
自分勝手な彼女が、自分の都合で自滅するのは、あまりにも「らしかった」。
「いい意見だね。承認しよう」
物見先輩は満足気に微笑んだ。
作者の性格とこの回答に齟齬はないのだろうか。ただ物語を自分の都合のいいように解釈しただけのようにも思えるけれど。
聞きたいことは山ほどあったが、やっぱりそれは僕が聞けることではないと思って口をつぐんだ。
そして、僕は今日初めて触れた文芸部員のスタンスを思う。
物見先輩の前提を信じた上で、舵取りをして現実的な回答を導き出そうとした三浦先輩。
知識を用いつつ発想力で叩き台を作った田嶋先輩。
物語を自身で定義し、議論を外から楽しんでいた物見先輩。
そして、信じないことを出発点にして明らかな矛盾を皮肉っぽく指摘した日向くん。
こんな奇妙な会だったのに、それぞれの考え方に触れられてお得だと思うのは見当違いだろうか?
「さて、今日は良い部活だったね。作者の意図を読み解く良い練習になったんじゃないかな」
物見先輩は晴れやかな笑顔で言った。三浦先輩は気遣うように僕たちを見やる。
「新入生の二人は楽しんでくれた?」
「はい」
僕も日向くんも頷く。
「文芸部では七不思議を追うような活動をしているんですか?」
「いや、今回選んだ小説がたまたま七不思議を題材にしていたってだけだよ。うちはオカルト研究会ではないからね。小説の話をして、作者の意図を考えるのが文芸部だから」
物見先輩はそう言ってウインクをする。
「そうだ、忘れちゃいけない。小説の話をするだけじゃなくて、自分たちで生み出すこともしないとね。九月に部誌を出す話はしたっけ。そこに出す小説を、みんなで書いてみようと思う」
「みんなで?」
小説というのは、一人で書くものじゃないか。
「うん。リレー小説って知ってる?」
リレー小説は、何人かが順番に文章を書いて一つの小説を完成させる遊びだったはずだ。日向くんは首を横に振ったので、物見先輩が説明してくれた。
「この遊びのいいところは、前の人の設定をそのまま活かすことができるから簡単に小説が書けるってこと。小説を書いたことがない人にもおすすめなんだ。二人ともやってみない?」
僕らは顔を見合わせる。小説を書くことに興味はあった。中学生の頃に一度書こうと思ったことがあるが、結局三日坊主になった。これなら、責任も伴うし、すっぽかさずにやれるかもしれない。
「もし書けないと思ったら、そのまま先輩に渡してしまえばいいよ。できることなら書いてみてほしいけどね」
三浦先輩の人のいい笑みに流され、僕らも順番に組み込まれることになった。
あみだくじをして、順番を決めたところ、物見先輩、僕、三浦先輩、日向くんの順になった。
「あれ、田嶋先輩は書かないんですか」
日向くんに問いに、「私は書かないから」と先輩はきっぱりと述べた。数に流されずに書かないことを選ぶなんて、強い自我があるんだろう。
「よし、じゃあ早速今日から始めよう。書き終わったら、印刷して部室に置いておくからね。じゃあ、今日は解散!」
ご機嫌な物見先輩が締めの言葉を言って、部活はお開きになった。
上級生は予算のことなどを話すということで、僕と日向くんだけ先にお暇することになった。
僕は電車通学で日向くんは自転車通学のようなので、自転車置き場までとりあえず一緒に歩くことにした。
「読書会って基本的にこういうもんなのか? 僕、あまりよく分からないんだけど」
「いや……本当は物語の感想を言ったり考察を述べたりするだけで、作者がその時どういう状態だったとかまで話すことは珍しいと思うよ」
数少ない経験からでも、今回の読書会が異質なのは分かる。
「ふうん。あの物見先輩って人が変わってるだけなんだな」
納得したように言って、本が詰まった紙袋をぶらぶらと振る。部室にあった先輩のおすすめを持ち帰るようだ。
日向くんと並んで歩いていると、彼の身長が自分より高く体格も良いことに気がついた。それに、座っている時から思っていたが姿勢も良い。
「新しいことを始めるのに、運動は選ばなかったんだね」
「…………」
何となく聞いただけなのに、返事が聞こえず戸惑った。
「運動は、もういいやと思って」
「中学の頃やってたんだ」
「まあね」
高校に上がるタイミングで運動部から文化部に転向する人が多いということも話には聞いている。大学受験を見据えてキツい運動部は避けたいと思う人や、運動に限界を感じる人がそうするらしい。
しかし、日向くんの表情からはさっぱりとした諦めも、悟りも読み取れなかった。
本人は意識してないだろうが、後悔のようなものが現れているような気がした。
「佐倉くんはずっと本を読んでるんだ?」
時と場合によっては不躾な問いだと思いかねない聞き方だったが、純粋な質問だと分かったので素直に返す。
「うん。親に読み聞かせてもらってた時期から今までずっと」
「飽きないんだ」
「物語は沢山あるからね」
「……そうじゃなくて、本を読んでも特に何かが変わるわけじゃないだろ」
それは、読まない人間の意見だ。そう思ったのが伝わったのか、「失礼な言い方だった。ごめん」と日向くんは言った。
「単に知りたいだけなんだ。本を読めば、何か変わるのか?」
「日向くんが変わりたいってこと?」
質問で返すと、「困ったな」と呟いて日向くんは眼鏡をずらして眉根を揉んだ。
「変わりたいってことなのかな」
ふふっと笑うその顔は、大人しい好青年そのものだった。
本を読んで、何が変わるのかなんて考えたこと無かった。物心がついてからずっと変わらぬ習慣で、それによる影響なんて分からない。
でも。
「良い変化かは分からないけど、生きやすくなるとは思う」
生きやすく、と日向くんは口の中で転がす。
「いいな、それは」
その反応は心底嬉しそうに見えた。
「それじゃあ、また部活で」
校門と自転車置き場の分岐点で、日向くんはひらひらと手を振って僕に背中を向けた。
まるで、名探偵みたいだったな。
先入観に囚われず矛盾を指摘して思いがけない答えを生み出すその姿は、僕が好きなミステリの探偵によく似ていた。
ただの大人しい男子高校生ではないのだろう。今までどう生きたらあんな風になれるんだろうか。
次の部活が楽しみだと感じる自分に気が早いと呆れながら、僕は校門をくぐった。
リレー小説一番目 物見咲
文化祭マジックという言葉がある。そのような現象は、幻想の姉妹に過ぎず、俺には無関係であると思っていた。
校舎裏。喧騒から外れた、静謐な植込と植込の間。そこには、俺と学級委員長の二人だけであった。突然俺を連行した委員長は、俯いてもじもじしている。聖女のようにいつも澄ましたかんばせが朱に染まっている。
漸く決意したように、彼女は形の良い唇を動かした。
「鈴木くん、私、君のことが」
す、と吐息の音がすると共に、突然委員長の顔が視界から消失した。
鈍音。瑞々しいものが破裂した音。靴の中がじゅくりと水気を帯びた。足元を注視すると、委員長が地面に倒れ伏せていた。その頭部からじわじわと滲み出た液体が、地面を泥濘に変えている。気が動転した俺は、委員長の肩を掴んで引き起こそうと試みた。
その頭は無残に潰れ、肉塊と化していた。じゅくじゅくとした灰色の脳味噌と白い骨片と赤い肉があるのみだった。俺の手から委員長の身体だったものが滑り落ちる。地面に落ちて、また血液を散らす。その傍らには、血に塗れた植木鉢が落ちていた。これが凶器となり委員長の顔貌を奪ったのであろうか。
見上げると、屋上の柵すれすれに整列していた植木鉢が一つ欠けていた。つまるところ、これが落下したようである。ふ、と自分の身体を巡る血が下へ下へと降りていくのを感じる。手先が冷え、頭がずんと重くなる感覚。
俺は意識を手放した。
2
「へえ、綺麗なところですね」
日向くんは感心したように、くるくると辺りを見回した。
「そうだね。学校が譲り受けた宿泊所なんて、古くて狭いのかと思ってたから意外だなあ」
バス停から、整備されているが人はいない遊歩道をしばらく歩き、木々のカーテンが開けたところに、宿泊所はあった。高校が所有している宿泊所なんて大したことなさそうだ、と僕も思っていたが、建物は綺麗で大きく管理も行き届いている。
今日から一泊二日で、文芸部はゴールデンウィーク合宿をする。宿泊所利用は抽選なのだが、ダメ元で応募してみたところ、なんと他の運動部やら大所帯の文化部やらを差し置いて最終日の枠に当選してしまったらしい。物見先輩の豪運が恐ろしい。
合宿ということもあって、今日はほとんどの人が私服で来ている。
田島先輩は白のワンピース。物見先輩はブラウスとワイドパンツ。日向くんは半袖のシャツを羽織り、セットアップのズボンを合わせている。そして、三浦先輩はなぜか制服のまま。
この方が分かりやすいから、とかなんとか言っていたが、迷子になるほどあちこちに移動することはないと思う。
管理人さんに門を開けてもらい、宿泊棟である二階建ての白く四角い建物の前に案内された僕達は、鍵を持ってきてもらうまでの間、しばし周りを観察していた。日差しがポカポカと降り注ぎ、外にいるのが全然苦にならない。
ガラス張りの玄関にはホワイトボードが置いてあって、ゴールデンウィークにここを使う部活が日毎に書かれている。陸上部、体操部、演劇部ときて文芸部となるグラデーションが面白い。
「学校が創立した翌年に改築されたこの施設には、宿泊棟と体育館と管理人の宿舎がある。体育館は今回使わないよ。困ったら管理人を呼んだら対応してくれるらしいから、心配しないようにね」
三浦先輩が全員に視線を送る。
「体育館があるんだね。まあ、使わないか」
「うちは運動系じゃないからね。少し離れた場所にグラウンドもあるんだっけ」
「先輩方も初めてなんですか?」
日向くんの質問に、物見先輩は頷く。
「うん。去年はゴールデンウィーク合宿なんてしてなかったからね。今年は部員も増えたし、バイトのおかげで部の貯金も潤沢になったしで、ここを使える条件が整ったってわけ」
バイト? 部活と結びつかない言葉に首を傾げると、補足してくれた。
「うちは、新聞部に寄稿してお手伝い料をもらってるんだ。色んな部活を取材して紹介するだけの簡単なバイト! 今度一年生にも任せると思うよ」
文芸部だから文章も書けるだろう、ということで依頼が来るんだろうか。そんなバイトで稼げるお金なんてわずかなのでは、と思うものの、うちの学校の新聞部は学外でも色々活動しているらしいから資金は潤沢なのかもしれない。
「ほら、最新号を見せようと思って持ってきたんだ。田嶋ちゃんが陸上部を紹介したやつ」
ガサガサとリュックを漁る先輩の手を止めたのは、今まで一言も喋らなかった田嶋先輩。
「やめてよ。恥ずかしい……」
どうやら田嶋先輩が書いた文章らしい。身長が低い田嶋先輩が、ゆるく編んだ三つ編みをパタパタと揺らして僕と同じくらいのタッパがある物見先輩に縋る姿は、いつもより年相応に見えて愛らしい。
しばらく「どうしよっかな〜」と言って田嶋先輩の反応をニヤニヤしながら見ていた物見先輩だったが、断固拒否の姿勢に「そっか残念!」と言って物見先輩はリュックを背負い直す。
「今回は田嶋ちゃんのおかげでスムーズに行って良かったよね。毎回取材に苦労するから」
「別に、大したことしてないよ」
俯いているが、照れ隠しらしい。普段は無口な先輩が取材が上手いというのは意外な気もするが、きっと取材の時は仕事モードに入っているのだろう。
「さて、入ろうか」
気づけば三浦先輩は管理人さんから鍵を受け取ったようで、管理人さんの姿は消えていた。
「はーい」
僕は食料の入ったビニール袋を持ち上げて、先輩の後に続いた。
宿泊棟は、二人部屋がいくつかと大部屋、キッチン、シャワースペースで構成されていて、シンプルな作りになっていた。
個室に自分の荷物を運び入れ、三浦先輩の号令で早速大部屋に集まって机を囲む。
「さて、今回の合宿について確認しておこう。一泊二日で、明日の昼ご飯を食べたら出発です。基本的に食事は自炊。スーパーまでは徒歩三十分くらいなので、基本的に持ってきた食糧でやりくりしよう」
「先輩! 早くメインの説明をしてくださいよ」
物見先輩が楽しそうに茶々を入れる。三浦先輩は「それもそうだな」と呟き、
「この合宿のメインは、二十四時間でテーマに沿った小説を書き上げること。さて、今回のテーマを発表します。『この施設が登場するホラー』です。みんな頑張ろう」
「やったー! ホラー!」
拍手が沸く。
釣られてぱちぱちとしたが、ホラーなんて書いたことがない。というか、まともに小説を完結させたことがほぼない。
書けなかったらどうしよう……。
不安げな顔になっていたのか、田嶋先輩が少し微笑んだ。
「最後まで書けなくてもそれはそれでいい。書かないというのも選択肢」
「その通り。無理をしろとは言わないよ。でも、せっかくの機会だから挑戦してくれれば嬉しいなと思う」
「分かりました。やるだけやってみます」
頑張ります、と小さく呟いた。書けなくても怒られるような雰囲気ではないことは分かっているが、どうしても緊張してしまう。
「予定しているスケジュールだと、私でも書き上げられるか分からないな」
「はは。俺は意地でも書くとも」
今まで、努力して遮二無二頑張った経験がない。力を出し切ってそれでも及ばないのが怖い。それなら、無理せずちょうどいい世界で十分だ。
受験勉強で徹夜なんてしたことない。高校受験も、A判定がずっと出ていたここを第一志望にしてしまった。
そんな僕が、頑張って一日で小説を書き上げるなんて。できるのだろうか?
それから、次々とこれからの準備の分担が決まった。日向くんと物見先輩が掃除。それ以外の人は持ってきた物の整理だ。
「持ってきた物といっても、食料を冷蔵庫にしまうくらいですよね?」
「いやいや、こんなものもある」
大部屋の机に置いた袋のうちひとつを三浦先輩が開けると、ブルーレイプレイヤーとディスクが出てきた。
「なんですか、これ」
「上映会用の荷物だよ。めちゃくちゃ良いアニメなんだ。ミステリの大御所が脚本をやったやつ。名前くらいは知らない?」
「あ、聞いたことあります! 興味はあったんですけど見逃しちゃって。マイナーなサブスクで独占されているのが勿体ない傑作サスペンスって紹介されてましたよね?」
「うんうん。こういう機会に布教しないとみんな観ないからね」
三浦先輩は上機嫌に言ってプレイヤーをテレビにセットし始めた。いや、今はまだ観るタイミングじゃないはず……。
「……あの、食料運び入れてるけど」
キッチンからこちらを見ていた田嶋先輩にぼそりと言われ、僕は慌ててキッチンに向かった。
「三浦先輩、ああいうところがあるから」
田嶋先輩は肩をすくめつつ冷蔵庫を開けた。ひとつずつ袋から生鮮食品を出して、中に入れる。夕飯、朝食、昼食の三食分だから、そこそこ量があった。
「好きな物の話をすると、それ以外見えなくなってしまうってことですか?」
「そうだね。それに、こうと決めたら曲げない頑固な部分もある」
まとめ役の上級生だと思っていたが、のめり込み癖を後輩にフォローされることも多いようだ。
「でも、基本は何でもやってくれる良い人だよ。今回の合宿も、物見さんがふざけて言い出したのを形にしてくれたから」
良い人だ、と納得するより前に、田嶋先輩がいつもよりよく喋っていることに驚いてしまった。本人には言えないので、相槌を打つに留める。
「よし、とりあえず全部移し終えた」
「生鮮食品以外のものはどうなってますか?」
「君たちが楽しそうにやってるうちに終わらせた」
「……すみません」
戸棚を開けると、じゃがいもや玉ねぎと一緒に缶詰がずらりと並んでいた。とりあえず押し込んだだけといった具合で、複数のトマト缶や鯖缶、ツナ缶がバラバラに入れられていて、整頓されているとは言い難い。
「すごい量ですね。僕、整理しときます」
「そうかな? 後でやろうと思ってたからやっとくよ。それより他の手伝いをしてきて」
真顔で首を振られ、すごすごと僕はキッチンを後にした。田嶋先輩とはまだ雑な世間話はしにくい。業務連絡はするし、話していて笑顔を見せてくれることもあるけれど、どうもまだ調子がつかめない。僕にとっては、ザ深窓の令嬢って感じだ。物静かな人同士なら話しやすいかと思いきや、陽キャと話すのと同じくらい緊張する。
とはいっても、他の部員となら仲良く話せるかというと、それもまた微妙。三浦先輩は話しやすいが、僕を新入生のお客様として気にかけてくれてるのが感じ取れる。逆に物見先輩は、誰にでもあんな振る舞いだから、仲良くなったというべきではない。そして、日向くんは……。そこそこ話す。違うクラスではあるけれど、授業や行事の話をすることが多い。しかし、気になっていたことは聞けないでいる。たまに見える彼のピリついた振る舞いはなんなのか、とか。
「佐倉、そっちは終わった?」
大部屋を出たところで、廊下の奥から歩いてくる日向くんが見えた。
「田嶋先輩がまだやってるけど、僕は無職」
「そうか。どこかにモップがなかったか見てない? ほうきをかけ終わって、あるなら拭き掃除もしたいと思って」
意識して見ていなかったから分からない。とりあえず大部屋に引き返して辺りを見回す。
「三浦先輩、モップがある場所を知りませんか?」
満足したのか正気に戻ったのか、テレビを消して大部屋の机を拭いていた三浦先輩は「俺も分からない」と言った。
「俺にこのふきんを渡した、田嶋さんなら知ってるかもしれないね」
名前を呼ばれるのが聞こえたのか、田嶋先輩がキッチンから顔を覗かせた。
かくかくしかじかと尋ねると、「この建物にはそもそもないんだと思う」と答えが返ってきた。
「ないならしょうがないか。一通り使う場所の掃き掃除は終わったから、これで一段落かな」
日向くんはそう言って伸びをした。しなやかで猫のような動きだ。
「そういえば物見先輩はどうしてるの?」
日向くんと物見先輩の二人が掃除担当のはずだが、物見先輩は先程から姿を見せていない。
「あー。『モップが見つかったら教えるように。それまで寝てる。やっぱり教えなくていい。三浦先輩にやらせといて』って言って、自分の個室に入っていった」
引き止められなかった、と肩をすくめた。
「物見さん。自由だねえ……」
ふきんを洗って戻ってきた三浦先輩は、しみじみといったように呟いた。三浦先輩にやらせろ、と言われたのに平然としている。
「田嶋さんもそろそろキッチンが片付けそうだから、ここで休憩にしようか。夕飯や風呂の準備は五時くらいからするとして、あと二時間は自由ということで」
異議なし。
「俺はこの辺を散歩しようと思うんだけど、二人も来るかい?」
「いいですね。行きます」
「あ、僕も」
日向くんが行くなら、と僕も手をあげた。
「よし、じゃあ三人で行こうか。物見さんを起こすのは怖いし、田嶋さんも昼寝をするらしいから」
三人でぞろぞろと大部屋を後にした。
「この辺りに遊歩道兼ジョギングロードがあるらしい。陸上部の合宿ではそういう所も使ってたんだとさ。そこを歩こう」
門を出て敷地の裏手に回ると、緑豊かな小道があった。道の左右に木々が植えられ、木漏れ日が柔らかく差し込んでいる。自然豊かな光景だが、道は平らに舗装されていて歩きやすそうだ。
「三浦先輩は目的のない散歩が好きなタイプなんですか?」
日向くんの問いかけに、先輩は小首を傾げる。
「今はそんなに好んでは行わないな。とりとめのない考え事をするのは疲れるから。今日は君たちと話すのが目的ってところ」
のんびりとした答えに、日向くんは控えめに微笑んだ。
「二人は部活には慣れた? あまり関わりやすい部員たちじゃないとは思うけれど」
関わりにくいというよりアクが強いんだと思うが、とりあえず頷く。
「二人とも変人ですよね」
日向くんがどストレートに言うと、「変わってはないよ。ただやりにくいだけで」と先輩は表情を変えずにそこそこひどいことを言った。
「去年は男子部員が俺だけで、少し肩身が狭かったんだ。俺が卒業するまでは辞めないでくれよ?」
「三浦先輩、苦労したんでしょうね」
「その通りだよ。物見さんと田嶋さんは最初から今みたいな感じだし、俺のひとつ上はおっとりした人でね。物見さんが何をやろうとニコニコ見守るだけだし、田嶋さんが黙ってても好きにひとりで喋ってるし、強い人だったよ」
三浦先輩がある程度しっかりしている理由が分かった気がした。
「二年の二人を残すのが心配だから引退しないんですか?」
三年生は今年受験だ。三浦先輩からは全く引退するような話が出ないから、気になって聞いてみた。
「半分はそうかもね。もう半分は、まだここに残っていたいからかな」
「この環境からしか得られないものがあるということでしょうか」
陽の光が柔らかく肌を撫でる。三浦先輩は口ごもり、その代わりに光に向かって手を伸ばした。その先には葉っぱがひらひらと舞い落ちる。
「あらら」
先輩の手をすり抜けたそれは、僕の肩にあたってそのまま地面に落ちた。
「得られるものがあるかは分からないよ」
木の葉を目で追い、先輩は足を止めた。
「でも、文芸部という肩書きが外れたらどうなるのか分からなくて怖い。だから、小説を書き続けられる限り、引退しないと決めてるんだ。結局小説を書けなきゃ意味がないからね」
「引退したからって、交流が途絶えるわけでもないじゃないですか」
違うよ、と先輩は肩をすくめた。
「肩書きなしで小説を好きでい続けることって、案外難しいと思うんだ」
黙々と同じような景色を歩き続けると、やがて道はふたつに分かれた。
「右が十分でここまで戻ってこられる散歩コース。左が三十分で池の周りを一瞬する散策コースだとさ」
看板を読み上げ、三浦先輩は右に一歩踏み出した。
「どうする? 次の集合は一時間後だからどちらを選んでもいいんだけど、ここで希望に合わせて分かれようか。俺は戻って小説を書きたいから短い方にするよ」
「先輩には申し訳ないですが、僕は三十分コースで」
「そうか。佐倉くんはどうする?」
十分歩いても三十分歩いても体力に影響はない。小説を書くとしても二十分の差が影響する気はしない。となると、決め手はどちらがより居心地がいいか。
「じゃあ、僕も三十分で」
少しアンニュイになった先輩と二人で話すのは、コミュニケーションが不得手な僕には難易度が高かった。
またあとで、と軽い挨拶を交わして僕らは左に進んだ。今までと変わらない緑の風景がトンネルのように真っ直ぐに続く。
「小説、読むようになった?」
一度黙ったらもう喋り出せない気がして、当たり障りのない世間話を繰り出す。
「多少は。日常の謎が出てくる本を少しずつ読んでいる。高校の部活が舞台で、好奇心旺盛なヒロインが出てくるやつ」
普段部室で読んでいるのは知っている。他にも、孤島に天才が集まるミステリを三浦先輩から借りたり、奇妙な寄宿学校が舞台のミステリを田嶋先輩から借りたりしていたはずだ。物見先輩は、黄色い表紙にくじ引き箱の絵が描いてある本を貸していた気がするが、もし僕が想像するあの本なら性格が悪いと言わざるを得ない。
読書は部室でするだけなのだろうか。クラスが違うから、普段の日向くんをよく知らない。
どのような人と友達で、どのようなことを話すのか、僕は知らない。
「そっちは? 何読んでるの」
「ゼロ年代の作品を一通り読みたいと思って、当時の新人賞受賞作を中心に一日一冊読もうとしてる」
「一日一冊? そんな時間ある?」
日向くんは目を丸くして僕を見つめた。子供っぽい表情だ。
「うん。休み時間とかに課題を終わらせてその後読めば十分時間はある」
「休み時間に課題」
繰り返された言葉に「あ」と気づいた。
普通の高校生は、休み時間に人と話さず課題をやったり本を読んだりしないのだ。
自分から友達が少ないことを暴露してしまったようなもので、いたたまれない気持ちになる。
「まあ僕も勧められた漫画を読んでいたら次の授業になることはあるな」
漫画を勧めそうな部員はいないから、クラスメイトからか。
「へえ、どんなの?」
彼があげた作品は、メジャーな少年誌や青年誌に連載されているものではあるものの、ニッチなファンが多い部類で、それが少し意外だった。キラキラとした絵柄と非情な展開が売りの鬱漫画として有名だった気がする。
「クラスメイトがそういうの詳しくてさ。漫画好きって言ったら紹介してくれて、思ったよりハマったんだ」
他におすすめされたというアニメの感想を聞いていると、どうやら日向くんもこちら側の人間ではあるらしいと思えて、どこか安心した。
横で、大きな深呼吸の音が聞こえた。吐ききったところで、ぼそりと言葉が呟かれる。
「物語の登場人物って、みんな純粋でいいなって思う」
「そう? どうしようもない悪役やクズもいると思うけど」
「それはそうなんだけど。そいつらも信念やそうならざるを得なかった境遇があるわけじゃん。真っ直ぐ生きた結果曲がってしまったようで。なんとなくで行動してない感じがして好感がある」
考えたこともなかった。悪は悪、クズはクズだと思っていた。一度レッテルを貼ったらその見方でしか見たことがなかった。
でも、確かにそうかもしれない。登場人物の行動には理由があって、その理由にはきちんとエピソード付けがされている。
「日向くんは面白いね」
「僕が?」
「あまり小説読んだことないって言ってたけど、そういう自論が頭の中にあるのは羨ましいなって。僕はどうしても楽しんで読むだけだから」
日向くんは戸惑ったように首を傾げ、それからふっと笑みを浮かべた。嬉しそうなものでは無かった。諦観や自嘲のような暗い笑い。
「ただ、現実の人間がクソだなって思っただけだ」
「え……」
吐き捨てるような言葉に含まれているのは明確な悪意だった。その顔に少しでもふざけている様子がないか探したが、微塵もない。「現実はクソだ」とふざけて皮肉るような、よく見るセリフではなかった。
地雷を踏んだ? 僕の振る舞いが気に触った? 分からない。
「……ごめん。佐倉は関係ないんだ。これは僕の勝手な気持ち」
よほど僕の慌てぶりが滑稽だったのだろう。日向くんはふっと陰鬱な空気を笑い飛ばす。
「佐倉は面白いな」
「何それ」
言った言葉を返されるなんて、馬鹿にされているんだろうか。
「純粋培養って感じだ。癒し系ってよく言われない?」
「根暗、おどおどしてる、もっと自己主張をしろ。くらいしか言われないけど」
「はは。じゃあ今日から癒し系も追加しな」
日向くんはからからと機嫌よく笑った。なんだかよく分からないが、この切り替えの速さが彼の性格なのかもしれない。
「息が上がってるけど、もしかして疲れてる?」
虚勢を張りたかったが、わりと疲れていた。単なる運動不足である。日向くんはどこからかラムネ菓子の筒を取り出して、「やるよ」と三粒くれた。お礼を言って口に含むと、ほのかな甘味と酸味が広がった。子供の時によく食べた味だった。
「ところで佐倉、一個聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「そろそろ三十分くらい歩いたと思うんだけど、ただ真っ直ぐ歩いているだけで全く池の周りを回っている気がしないのは気のせいか?」
…………たしかに。
「先輩と別れてから一回分岐点があって、幅の広い道を選んだけど、その時に間違えたのかな」
「え、そんな道あった?」
「うん。細いから散策コースとは関係ない道だと思ってスルーした」
「戻ろう」
時間を見ると、復路の三十分を歩いて集合時刻にギリギリ間に合うかどうか。
僕らはUターンして、早足で宿泊所を目指した。
到着したのは集合時刻ちょうどだった。物見先輩は「なんだ、初手遅刻なら面白かったのに」と茶化し、三浦先輩はほっとしたように笑っていた。
「すみません。散策コースで道を間違えてしまって」
「紛らわしいよね。しょうがない」
田嶋先輩までフォローしてくれた。間に合ったとはいえ、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「さて、夕飯の準備と風呂の準備だ。あみだくじを作ったから名前を書き入れてくれるかな」
紙をすべらされ、二つある空欄の一つに自分の名前を書き入れ、「僕のも書いて」と言われて日向くんの名も書いた。
その結果、夕飯の準備は僕、物見先輩、三浦先輩で、風呂の準備は日向くんと田嶋先輩になった。
「私は刃物は使えないんだ。任せた!」
物見先輩は高らかに宣言し、サラダ係に就任した。
「……どっちがいい? 米研ぎか野菜切り」
三浦先輩はさりげなさを装って聞いてきたものの、その腕は米の袋を抱えている。
「野菜、切ります」
「ありがとう!」
あからさまにほっとした表情になるのが面白い。週に一回くらい母の代わりに夕飯を作っているから、包丁が使えないわけではない。カレーの具材くらいならどうとでもなる。林間学校のような機会では、率先して包丁を使いたがる人に任せていたから、自分がこの役目を担うのは変な気分だ。
「三浦先輩、料理できないんですかあ?」
刃物を使えない宣言をした物見先輩が、三浦先輩を煽っている。許されるのだろうか。
「逆になんでできると思ったんだい」
その返しでいいのか。
「だって、前に自家製スパイスで作るカレーの本読んでたじゃないですか」
「ああ、スパイスは好きだからたまに読むんだ。作らないけど、想像して楽しむんだよ」
作ればいいのに。
トントン、とにんじんを切っていると、口が暇だったのか物見先輩が話しかけてきた。
「佐倉くんは、テーマ小説書けそう?」
「まだ何も手をつけてないんです。書くほど面白いアイデアが浮かばなくて」
「ふふ、そんなもの考えても思いつかないよ」
三浦先輩がへらりと笑う。少し毒を含んだ響きにたじろぐも、物見先輩も「そうそう、書いてみるしかないの」と同調した。
「そもそも書いたことがあまりないんだっけ?」
「何回かはあります。でも完成させたことがないんです。設定だけ説明して満足して終わり、みたいな」
世界を作り上げるのは楽しいが、物語にまで発展しないのだ。
「まずは短編から書くのがいいよ。気負いすぎずにね。リレー小説はもっと適当でいいからさ」
一理ある。完成させることが大事だと、やり遂げることが大事だと、人が言っているのをよく聞く。何も完成させたことのない状態よりも、やったことがあると胸を張って言えるほうがいい。それはそうだ。
「あとは、登場人物と向き合うといい。彼らが何をしたいのか分かれば、自然に物語は進んでいくから。でも、回想シーンを入れて後から人物の設定を補強するのは俺は好きじゃないな」
登場人物と向き合う。それは、どういうことなんだろう。詳しく聞きたかったが、三浦先輩は米を炊飯器にかけにいってしまった。
切り終わった人参をボウルに移し、じゃがいもを手に取る。五人分のカレーのレシピ通り五つあるが、不揃いだからこれで十分なのか不安になる。
「三浦先輩、手が空いたならツナ缶取ってくれます?」
戻ってきた三浦先輩に、間髪入れず物見先輩が指示を出す。
「うん。佐倉くん、一瞬失礼するよ」
ちょうど僕の足元に缶詰の入った戸棚があったので、包丁を置いて離れた。中にはツナ缶が二つだけぽつんと入っていた。二つともを取り出して、三浦先輩は物見先輩に手渡した。なんだかその一連の光景に違和感があったような気がしたが、三浦先輩から掛けられた言葉で考えは妨げられた。
「リレー小説は進められそう?」
「ああ。物見先輩のを読んで、なんとなく流れは考えました。今のままではバッドエンド直行なので、どうにか回避できそうな展開にしたいなって」
「物見さんは考えなしにグロを持ち込むからな。反省しなさいよ」
「こういうのが一番面白いから、しょうがないでしょう」
物見先輩は悪びれずに言い切って、
「少なくとも五月いっぱいは悩んでいいよ。一人一ヶ月かけても完成は七月で、デッドラインの八月には間に合うからさ」
と、僕に向かってウインクした。こういうところは面倒見がいい。
「そういえば、日向くんは小説を書けそうかな。何か聞いてる?」
「合宿のテーマ小説の話は、まだ特にしていないです」
「先輩、日向くんのことが心配なんですか? 確かに今年の一年生は普段の自己主張が控えめだし、どんな話を書くのか気になりますけどねえ」
物見先輩の問いに、三浦先輩は「そうなんだよ」と頷きつつ、
「自分から口には出さないことを、文字にだったら起こせると言うならいいんだ。ただ、自分の殻にこもったままなら小説は書きにくいだろうと思ってね」
「確かに、日向くんは私たちに遠慮しているところがありますもんね。こちらと一本線を引いているというか」
うんうん、と相槌を打った。僕の前ではまた少し違うという話は、なんとなく隠しておいた。
「まあ、本人がいないところで話してもしょうがないか」
「佐倉くん、なにか手伝えることはある?」
「あ、じゃあ先に豚肉を鍋で炒めておいてください」
皮をむいたジャガイモを切りながら、先ほどの違和感に考えを戻していると、ようやくその正体に気づいた。戸棚にはもっと缶詰が入っていたはずだが、さっき見た時には二つしかなかった。残りはどこに行ったのだろう。
「佐倉くん! 油は引くのかな?」
宙に漂っていた思考がはっと目の前の料理に引き戻された。僕はあわてて三浦先輩の調理を見守りに行く。まさか、僕がいないと何も進まない日が来るなんて。
その後も、料理をしながら色々な話をした。小説を愛好し、小説を書くなら避けられない話をした。
「新人賞への応募って、したことありますか」
ちょっとした興味だった。作品を作り上げるなら、それを世に出してみたくなるんじゃないか。そんな単純な思いつき。
「あー、まあ、うん」
三浦先輩も、物見先輩も歯切れの悪い返事をした。
「私は一次に残ったことは何回かあるかな」
「俺は最終選考まで残ったことはある」
「すごいですね!」
自分の書いた作品が選考を一回でもくぐり抜けるなんてすごいことだ。心からそう思った賛辞に、二人はまた苦笑する。
「〝残ったことはある〟だけだよ」
それはつまり、受賞したことはないという意味だと、僕はやっと分かった。
「……でも、残るだけすごくないですか?」
そうだ、と笑ってほしかった。
もしくは、悔しいと清々しく宣言してほしかった。
「別に。こんなもんだよ」
物見先輩にへらりと笑い飛ばされた。僕は何も知らなかったことに気づく。喜ぶだけの時期はとっくに終わっているのだ。挑戦するたびに最後にたどり着けない事実をぶつけられ、その度摩耗した精神に、「すごい」という言葉はなんの意味もなさないのだった。
「準備できたよ」
出来上がった夕食は、合宿らしいラインナップで、そこそこちゃんとしていた。少し具が不格好なカレーとツナサラダ。失敗しようがないメニューでよかった。
「美味しい」
「懐かしい味です」
田嶋先輩と日向くんの感想に、三浦先輩は「そうだろうとも」と胸を張る。
「三浦先輩は食べないんですか?」
先輩は食卓につかず、テレビの近くでブルーレイディスクをいくつも開けていた。
「いつもこうだから、気にしないで」
田嶋先輩は肩をすくめた。きっと鑑賞会の準備なんだろう。しかしなんで大量のディスクを持ってきているんだ。こんなに見られるわけないのに……。
「よし、これに決めた。流すぞ」
ようやく先輩は席につき、リモコンを操作する。
「え! まさかここで観れるとは思わなかった! 観返したかったんですよ」
タイトルが表示された瞬間、物見先輩が歓声を上げる。そうだろうとも、と言わんばかりに三浦先輩は頷く。
「これ、有名なんですか? 普通のアニメに見えますけど」
一方、日向くんはぽかんとしている。横にいる田嶋先輩も、無表情ながら小首を傾げていた。
ものすごい勢いで首をそちらに向けた三浦先輩は、「それは人生を損している」と言い放ち、べらべらと説明を始め出した。物見先輩と視線が合い、「仕方ないな」と笑いつつ、僕らは画面を見つめた。
食後の片付けのあとは、花火をやることになった。
「用意してたんですか? 知らなかったです」
「用意って言うほどじゃないけどね、余ってたから。敷地内なら自由にやっていいらしいよ」
田嶋先輩がビニール袋から出したのは、線香花火の詰め合わせと、スタンダードな手持ち花火のパックだった。一緒にぺらりと出てきたレシートには、この近くにあるらしいスーパーの名前が書かれていた。どうやら本当はわざわざ買ってきてくれていたらしい。
「買ってきてくれたんですか? すみません」
日向くんに田嶋先輩はゆるゆると首を振って「大したことじゃないよ」と答えた。恥ずかしかったのか、すぐにレシートはしまわれてしまった。
「バケツ用意しました。やりましょう」
玄関から日向くんの声が聞こえた。僕らはパタパタとそちらに向かう。
花火をやるのは小学生の頃祖母の家に行った時以来で、火がついた瞬間吹き出す火花の勢いと輝きに圧倒されてしまった。
「火、分けてくれ」
日向くんが花火の先端を差し出してきたので、どうぞと少し近づける。すぐに日向くんの花火も火花を吐き出し始めた。
「合宿って感じだな」
「そうだね。思い描いていた理想の合宿って感じ」
みんなで作る夕食も、色鮮やかな花火も、今まで頭の中で想像していた合宿そのままだった。文芸部に入るにあたって、分かりやすい青春があるとは思わなかったので、良い意味で期待を裏切られたとも言える。
田嶋先輩と三浦先輩は線香花火を慎重に持ち、物見先輩が二人の写真を撮っていた。
「空、見てみなよ」
顔を上げると、火花が焼き付いてチカチカしていた目が次第に暗闇に慣れていく。黒に少し青を混ぜたような空には、ちらちらと星が瞬いていた。
「……綺麗だ」
周りには人がいるはずなのに、一人宙に吸い込まれたような静けさを感じた。
ふっと視線を花火に戻すと、気づけば既に燃え尽きていた。火薬の匂いだけが残っていた。
花火が終わり、シャワールームで汗を流した頃には日付が変わる一歩手前になっていた。一同解散となり、僕と日向くんは割り当てられた部屋に向かった。
「二段ベッドの上と下、どっちがいい?」
「どっちでもいい。どうせまだ寝ない。……小説、書かなくちゃいけないんじゃないか」
すっかり忘れていた。そういえば明日合評会をすると言っていた。今日は全く書く時間がなかったということは。
「徹夜になる?」
「さあ。それは頑張りしだいなんじゃない」
部屋には作り付けのデスクが一つと、小さなティーテーブルが一つ。作業スペースはある。
さっそくパソコンを取り出して、メモ帳機能を表示させるも、何を書いていいのか分からない。
テーマは「この施設が登場するホラー」。ホラーというからには、怪物や悪霊を登場させればいいんだろうか? こっそり日向くんを盗み見ると、同じく手は進んでいなかった。
たとえば殺人鬼が合宿所で暴れまくるとか、合宿所で死んだ霊が仲間を作ろうとするとか、思いつく話はたくさんあるが、ありふれている。いまいち僕の気分が乗らない。
何度か小説の冒頭を書いた時は、自分が嫌な思いをした相手を登場させて好きなようにしたり、自分の失敗を何倍にも濃縮した救えない話を書いたりしていたけれど……。
今日は楽しかった。
楽しかったから、小説の書き方が分からない。
いっそのこと、このまま楽しい思い出に浸って寝てしまいたいくらいだ。
「手、動いてないな」
日向くんの声にびくっとしてしまった。
「うん。日向くんはどう?」
「捗ってたら話しかけないよ」
それもそうか。
「文芸部の人、みんな良い人達だよね」
急に何を言うんだ、と言いたげに怪訝な顔をされ、弁解するようにこう続ける。
「特に後輩にあたりキツくないし。合宿楽しいし」
「小説を書く時間を与えずに翌日合評会の予定だけ入れるのはキツくないの?」
「あー、まあ。それはそれ、これはこれ」
なんだそりゃ、と日向くんは薄く笑い「眠気覚ましに糖分補給」と言ってラムネ菓子を口に放り込んだ。確かに小説を書く時間は全然足りてない。でも、こうやって夜寝ずにいることは楽しいように思えた。
「日向くんは、何か面白い出来事はあった?」
尋ねると、「フリが雑だな。たとえばどんな内容を期待してるの?」と返された。
「なんだろう。思いつきで話しちゃったから、例は思いつかないけど」
肩をすくめた気配。人と話していたいが話題が思いつかない時は、どうしていたんだっけ。
「そうだ。面白くはないけど良いことはあったよ。田嶋先輩といつもより長く喋れたんだ。田嶋先輩ってミステリアスで何か話題がないと話しかけにくいと思わない?」
「そう? 僕は田嶋先輩とも普通に話せるけど」
それってつまり、単に僕が田嶋先輩に苦手意識があるだけってことか……。人との相性を相手のせいにするなんて、最低なことを言ってしまった……。
「いや、まあ、僕は特殊なんだよ。誰とでも話せるから」
焦ったように早口で日向くんは言った。僕をフォローしようとしたのかもしれないが、それにしてはすごいことを言っているな。彼の中では相当な失言だったのか、汚れの無さそうなメガネを外して、レンズを部屋着のジャージで拭い始めた。
やっぱり日向くんは不思議だ。目立ちたくないと言ったり、物語を楽しんでいたりするけれど、どこか僕とは違う。自然と会話に溶け込み、楽しく人と話す方法を知っているみたいだ。それなのに、突然毒を含む強い言葉を放つ。
今まで僕がクラスで見てきたのは、なるべく大人しくして周りから嫌われないように振る舞う人や、仲の良い人達だけの狭いコミュニティで生きる人、もしくは明るくて悩みなんてなさそうなスポーツマン、またはいつも大声で騒ぎ嫌なことがあったらすぐに口にだすお調子者だけだった。生き方や志向性が分かりやすい人達ばかり。
だから、よく分からない日向くんのことを不思議に思う。
「なに? 面白いことがあったか振り返ってるの?」
その言葉にようやく我に返った。会話の途中にフリーズしていたらしい。僕はあわてて適当に頭に浮かんだことを口に出した。
「そういえば、三浦先輩と田嶋先輩って特に仲がよく見えない? 特に田嶋先輩は三浦先輩のこと『分かってる』振る舞いが多いような気がしたんだけど。もしかして付き合ってるのかな」
日向くんはきょとんとし、それから爆笑した。
「さすがにないだろ。相手のことをよく分かってるイコール付き合ってるなんて、小学生みたいなこと言うなあ」
……適当に思ったことを言うんじゃなかった。あまりにも日向くんがケラケラと笑っているから、なんとか話を変えようと、さらに思いついたことを言う。
「そうだ。今から肝試しをしよう!」
涙が浮かんでいたらしい目を拭い、日向くんはようやく笑いを止めた。
「え、今から? どこで?」
勢いで言ったので、具体的な案は考えていなかった。
「ええと、そうだな、この宿泊棟を出て周りを一周するとかどうかな」
「それはただの散歩だろう」
そうツッコミながらも、日向くんは「いいよ」と言ってくれた。気晴らしがしたかったらしい。
廊下に出ると、宿泊棟の出入り口の方に非常口のマークがぼんやりと緑色に光るのみで、足元は黒々としていた。歩く方向がわかるのはいいが、どことなく不気味だ。この明かりが消えたらどうしよう……。
「照らせばいい」
パッと後ろから白色の明かりが足元に落ちて、僕はびくりとした。日向くんのスマホの明かりだった。
「ほら、さっさと行こう」
スタスタと日向くんは左に歩き出した。このまままっすぐ行くと右手に出入り口があり、さらに奥に進むと大広間がある作りだ。しかし、迷いなく明かりを頼りに進む彼の足が止まった。
「なんか、話し声が聞こえないか?」
「えっ」
なんでそんな怖いことを言うんだ。耳をすませるが、何も聞こえない。
「あそこから聞こえるんだ」
昼間から夕方まで僕らがいた大広間を指差す。吸い寄せられるように、出入り口を通り越して、大広間の扉の前に歩み寄る。僕は、ごくりと唾を飲んだ。
日向くんの手が、大広間の扉にかかった。ゆっくりと隙間の空間が生まれていく。
クスクスクス。
笑い声がする。でも、扉は開かれてしまった!
否応無しに、目の前に広がる空間が僕の瞳に飛び込んできた。
「……え?」
「先輩方、何やってるんですか」
そこには、机にろうそくを立てて向かい合う田嶋先輩と物見先輩の姿があった。
「百物語をしてみたいと思ってね。でも途中で話が尽きたから各々やりたいことをしてたんだよ」
田嶋先輩はろうそくの明かりで本を読み、物見先輩はパソコンをいじっていたようだ。目が悪くなりそうだし、電気をつければよかったのに。それにしても、田嶋先輩が物見先輩のこんな発案に付き合うとは意外だ。
「部員全体に声をかけてくれてもよかったんですよ。少なくとも僕と佐倉は参加しましたし」
「一応、夜は小説を書くことになっていたから、邪魔したら悪いかなってさ」
こういう変なところで、物見先輩は常識がある。
「どちらにせよ、三浦先輩はつまらないと言って参加しないと思う」
田嶋先輩は、本から顔を上げて断言した。この合宿を実現したのは三浦先輩のようだし、楽しんで参加してくれそうだと思うが……。
「三浦先輩は変なところがリアリストだからねえ」
「こだわりが強くて頑固だから」
三浦先輩が一番常識人なんだと思っていたが、意外とそうでも無いのかも知れなかった。
二人も小説書くの頑張ってね、と言われたことから、僕らは散歩はやめにして部屋に戻ることにした。肝試しもどきはいい気分転換になったものの、やっぱり筆は進まない。
「眠い。佐倉、また面白い話をしてくれ」
からかい混じりの声にむかっとしたが、気を取り直して記憶を探る。
「そういえば、昼に先輩達と食料をしまったんだけど、料理を作る時に減ってたんだよね。あれ、なんでなんだろう」
「料理を作ったから減ったんじゃなくて、料理の前に減ったのか。それって誰かがつまみ食いしたってこと?」
いや、そんな量ではなかった。
僕は記憶を振り返る。
そう、缶詰の量のことだ。
食材を戸棚にしまった時は、じゃがいもや玉ねぎと一緒に缶詰がずらりと並んでいた。複数のトマト缶や鯖缶、ツナ缶がバラバラに入れられていて、とりあえず押し込んだだけのような雑さを感じた記憶がある。
でも、料理を作っている時に見た際は、ツナ缶が二つだけぽつんと入っていた。間違いなく料理にトマト缶やら鯖缶やらを入れた憶えはないのに。
「トマト缶と鯖缶か。間食で食べるようなものでもないな」
「間食で食べられる量でもないんだよ。ごっそり無くなってたから」
面白いな、と日向くんは呟いた。
「まさに日常の謎みたいじゃないか。眠気覚ましにちょっと考えてみよう」
日向くんはノートを破いて、そこにペンを走らせた。僕は問われるがままに答え、日向くんは時系列を書いていく。
三時より前に、田嶋が戸棚に缶詰を入れた。その時に戸棚の近くにいたのは、佐倉、田嶋と、少し離れたところに三浦。その後、田嶋が整理をした。
三時から五時まで、佐倉、日向は長時間散歩。三浦は散歩の途中で離脱。田嶋、物見は部屋で待機。
五時過ぎに料理を始め、途中で戸棚を見た。その時に近くにいたのは、佐倉、三浦、物見。
「佐倉の見間違えか自作自演でなければ、僕と佐倉には缶詰を取り出す時間はなかったと言える」
「先輩三人にはアリバイがないね。三時から五時の間なら自由に取れたと考えてもいいかな。田嶋先輩と物見先輩は同室だけど、片方が寝ていたなら気づかれずに持ち帰れたはずだし」
「うーん。誰が可能だったかを考えてもラチがあかないか。もう少し詳しく状況説明を頼めるか?」
僕は、缶詰をしまった時から料理中に戸棚を見た時までの話を思い出せるかぎりで話した。
聞き終わると日向くんは「ふーん」と腕を組む。
「とりあえず、佐倉の証言は全部正しいと仮定して話を進めようか。そういう取り決めって、ミステリでは大事なんだろ?」
短期間できちんとお約束を吸収していたらしい。
「この話だけで誰が怪しいか、分かる?」
怪しいという言葉を口にした瞬間、ひやりと背筋が冷えた。
誰かを疑うということ。犯人扱いするということ。ただの些細な暇つぶしであってもそんなことをしていいんだろうか、というモヤモヤが頭をよぎる。でも、その気持ちは、次の日向くんの言葉で消し飛んでしまった。
「分かるよ。佐倉の話を聞かなくてもね」
「え、ええ!?」
僕が大きい声をあげると、日向くんは「うるさいよ」と言って肩をすくめた。
「僕らは同じものを見ていたし聞いていたんだから、思い当たってもおかしくないんだけどな」
「まさか、僕が覚えていないだけで、缶詰の話題が出ていたとか?」
「ああ、そうじゃなくて。そもそも、この合宿には一人嘘つきがいた。その嘘つきと缶詰にどんな関わりがあるのかは分からないけど、きっとイレギュラー同士関係があるんだろう」
「嘘つき……」
人狼や知能パズルじゃあるまいし。そんなまさか。
「みんな楽しくやっていたじゃないか。嘘なんて誰かついていたっけ?」
日向くんは可哀想なものを見る目で僕を見ていた。
「ついていたよ。その人の発言のいくつかは会話のすれ違いや『ただ言わなかっただけ』で片付けられるけれど、一つ状況と発言に矛盾がある。それが何のための嘘なのか、悪気があるのかは分からないけどね」
矛盾。矛盾ってなんだ。人間だし、言い間違いや記憶違い、その時の気分でいくらでも矛盾なんて起こり得ると思うけれど。
僕の考えを察してか、日向くんは解説を加えてくれた。
「言った言わないの不安定なものじゃない。明らかに不可能みたいな話だ。たとえば、僕が『一分後にアメリカにいる』と言うような矛盾だよ。時間的・空間的に不可能ってこと。こないだの七不思議小説と同じような話」
一分後にアメリカにいるというのは、推理小説の中ではトリック次第で何とかなりそうじゃないか、と思ったがそういうことではないらしい。
時間的・空間的な制約……。
たとえば、散歩コースで「三十分コースを選んだ」と言ったのに五分で汗もかかずに戻ってきた、みたいな矛盾だろうか。
「はい、時間切れ」
出来の悪い生徒になった気分だ。今まで出来が良かったこともないけれど。
「佐倉、スマホでここから一番近いスーパーとコンビニまでの距離を調べてくれ」
「なに、アイスでも食べたいの?」
軽口のつもりで言ったらにらまれた。さすがにこの流れでアイスを所望されるとは思っていない。
「スーパーまでは徒歩三十分、コンビニまでも徒歩三十分だな」
「うん、その通り。最初に先輩も『スーパーまでは徒歩三十分くらい』と言っていたしね。これが物理的な制約だ。でも、それを破った行動をした人が、一人いた」
といっても、僕らはほとんど外に出ていない。強いていえば散歩くらいじゃないか。
いや、一人いた。あれを買ってきてくれた人が。
〝買ってきてくれたんですか? すみません〟
〝大したことじゃないよ〟
線香花火の詰め合わせと、スタンダードな手持ち花火のパック。一緒に出てきたレシートには、この近くにあるらしいスーパーの名前が書かれていた。
そのレシートの日付はいつだったのだろう。
「花火……」
僕のつぶやきに気を良くしたように日向くんは頷く。
「そう、田嶋先輩だ。昼の休憩時間は一時間あった。スーパーまで行って帰って間に合うかどうか。でも、田嶋先輩は僕らが散歩に出る時には外に出る素振りはなかったし、僕らが三十分コースを走って戻ってきた時も、先にいた。田嶋先輩には花火を買う時間はない」
「レシートの日付、覚えてる?」
日向くんは首を縦に振った。
「うん。今日ではなかった。ゴールデンウィークの初日の日付だった」
日付を見たならそれだけで証拠として十分じゃないか、と思ったが何も言わなかった。その代わりにこう問いかける。
「じゃあ田嶋先輩はどこであの花火を手に入れたの? 地元のスーパーのものだし、買ってきたわけはないんだろうけどさ」
「ここにあったんじゃないか。他の部活が残したもの、とか」
「それなら、なんでそう言わなかったんだろう。余り物があったからやろう、と言えばそれで済んだ話なのに」
花火をどこで手に入れたかなんて、大した問題に思えない。
「そうなんだ。人が何を考えてるのかを考えようとしても埒があかない。ここからは、その花火は誰が買ってきたものだったのかを考えよう」
花火が買われたのはゴールデンウィーク初日の日付。ということは、初日にここを訪れていた人達である。
僕は頭の中でホワイトボードに書かれていた名前を思い出した。
「……陸上部?」
日向くんは頷いた。
陸上部が花火をする。合宿ならそういうこともあるだろう。花火を買いすぎて余らせることもあるだろう。余ったものの日常生活ではやれる場所がないから、あえて残して他の部活に使ってもらおうとすることもあるだろう。
その余り物を使うことは、全く不自然ではないはずだ。
「田嶋先輩は、陸上部の花火であることを知らせたくなかったのかな」
「それになんの意味がある?」
日向くんは問う。その視線に射抜かれた僕は、思い当たることがないから考える。
うちの学校の陸上部には特に悪い噂はない。関わることが不名誉な不良集団とかではないのだ。そうなると、田嶋先輩の個人的な事情なのかもしれない。
そんな、田嶋先輩の事情なんて分かるはずがない。だって僕らはほとんどプライベートの話をしたことがないのだ!
押し黙っていると、カチ、コチとキッチンに掛けられている時計の針の音が感じられた。日向くんの息づかいも、確かに聴こえる。
僕は深く息を吸い込んで、目を閉じる。なにか、田嶋先輩について知っていることはないかと思い返す。
考えてみれば、僕は全然先輩のことを、他人のことを知ろうと思ったことがない。今までもそうだ。ただ小説が読めればいいと思うだけで、人に深入りするなんて考えもなかった。
〝田嶋ちゃんが陸上部を紹介したやつ〟
〝やめてよ。恥ずかしい……〟
〝今回は田嶋ちゃんのおかげでスムーズに行って良かったよね。毎回取材に苦労するから〟
「陸上部といえば、田嶋先輩が部活紹介をしていたんだっけ」
「そういうバイトだって言ってたな」
田嶋先輩のおかげでうまくいった今回の取材。
田嶋先輩と陸上部にはきっと円満な関係があるのだろう。それを隠したり、うまくいった記事を恥ずかしがったりする理由は、どこにある?
「……新聞部の新聞は、確か高校のホームページにも掲載されていたはずだ」
日向くんはスマホを操作し、やがてため息をついた。
「そうか、そういうことだったのか」
彼は僕にスマホを突き出した。そこには汗をきらめかせて走っているウェアを着た女子生徒の写真と、陸上部の紹介文が書かれている。
そして、その女子生徒は。
「田嶋先輩……」
「田嶋先輩は、陸上部と兼部してたのか」
そして、そのことを隠したがっていた。
「なんでなんだろう」
「……分からない。ただ一つ言えるのは、缶詰を持ち去ったのも田嶋先輩だろう、ということだ」
そういえば、出発点はそこだった。
もしかすると、僕が見た乱雑に積まれた缶詰は、僕らのものではなく、前に泊まった部活が入れて回収し忘れたものだったのかもしれない。それを、また泊まる機会があった田嶋先輩が回収し、僕は缶詰が消えたと思い込んだ。あるべきものがあるべき場所に帰っただけの話だったのか。
「花火は普段出来ないが、大量の缶詰は需要があるだろうからな」
日向くんは、目をこすってあくびをした。
「眠い。僕はもう寝る」
「小説はどうするの?」
「何も考えられない。どうせやったってできない。諦める」
そう言って彼はそそくさとベッドに潜り込んでしまった。
僕もパソコンを閉じかけたが、途中でやめた。アイデアにも満たない種が、浮かんだ気がした。
「佐倉くん、これすごくいいよ!」
物見先輩は目をキラキラ輝かせて立ち上がった。
「朝の顔と夜の顔がある殺人鬼! 殺される善とも悪とも言えない被害者たち! あるのは正義じゃなくて信念だけって、本当においしい!」
物見先輩はぐるぐると机の周りを歩き、高らかに言いあげた。
「そもそも、書きあげたというのがすごいことだよ。よくやったね」
三浦先輩は感心したように目を細め、田嶋先輩もうんうんと頷いた。
翌朝の合評会で、小説を提出したのは僕と三浦先輩、そして書きたい部分のみ書いた物見先輩だった。田嶋先輩は元々小説を書かない主義らしく、日向くんは寝たので書けなかったと正直に言っていた。
ほぼ寝ずに書いたから目の奥がじんわりと熱いが、ランナーズハイのように気持ちはよかった。こんなに人に褒められたのも小学生の時以来で、なんだか気はずかしい。
「三浦先輩のも面白いですよ。でも舞台が謎の洋館じゃないですか。この施設がテーマって話だったのに」
「いやあ、ごめんごめん。どうしても洋館の方が雰囲気でるなって」
僕の作品についての講評が終わり、三浦先輩の話に移ってからも、僕は目の奥の熱と胸に刺さった罪悪感から離れられないでいた。
あの話が書けたのは、田嶋先輩の謎について考えていたからだ。今まで知ろうともしなかった先輩の一面を知って、それを題材に二面性のある登場人物を生み出してしまった。
僕は知ってよかったのか? そして、それを創作のネタにしてよかったのか?
田嶋先輩は、いつもの真顔のまま、ちょこちょこ創作の話に口を出している。彼女はまだ、僕達が知っていることを知らないのだ。
後片付けをして施設を後にした僕達は、帰りの電車に揺られていた。二人がけの座席が縦に連なるタイプの車両で、隣は日向くんだ。早々に寝るつもりだったが、彼に名前を呼ばれたので目を開けた。
「小説、あの時間でよく書けたな」
「僕もびっくりしてる」
「才能があるんじゃない。佐倉」
……。僕は驚いて何も言えなかった。そしてすぐに、お世辞に対して本気になってしまった自分が恥ずかしくなってあわてて首を横に振った。
「少なくとも僕には書ける気がしない。小説に書けるような豊かな経験なんてないし、自分にあるものを膨らませられるとも思えない。僕はつまらない人間だから」
日向くんはそう一気に言って、僕から目を逸らした。心の底からそう思っている、自嘲の声だった。何が彼をそう思わせているのか、僕は知らない。僕だって経験も想像力は欠けているし、面白い話なんてできないのに。
「嫌だと思った感情とか、もやもやとかを膨らませるといいとも聞くよ」
「……そんなものも、あまりないな」
「日向くん、聖人君子みたいだ」
日向くんはぎょっとした顔をして、「そんなわけないだろ!」と叫んだ。
どうしたどうした、と前後から先輩の声が聞こえ、日向くんはすぐに「なんでもないです。すみません」と言っていたが、その顔は真っ青だった。
「俺は、……僕は、中途半端なんだ」
彼がうつむくと、黒髪がさらりと垂れて目元を隠した。
日向くんにも僕の知らない一面がある。いや、僕が知ってるのは一面にしか過ぎない。
それでも、彼も何か抱えていることがあると気づくには十分だった。
そして、それを聞き出し寄り添おうとする力は、僕にはまだなかった。
「次の休みもまた行けるといいね、合宿!」
そんな先輩の声にも、曖昧に頷くことしかできなかった。
数日後、僕が廊下を歩いていると、陸上部のウェアとウィンドブレーカーを羽織った集団とすれ違った。
賑々しい人達がいるといつもはすぐ目を逸らしてしまうが、なんとなく今日はその顔を横目で見てしまった。
「ゆかっち先輩目当ての入部者いるって聞きましたけど、本当ですか?」
「本当だもんね、デートに誘われてたもん。ね、ゆかっち?」
話の中心になっていた、すらりとした手足を持つポニーテールの女性は楽しそうに笑い声をあげる。
それは、田嶋由香先輩だった。
笑っていた先輩の目が、僕を見る。見てしまう。
視線があった。
するり、とそれはすぐ離れて、集団はどんどん遠ざかっていった。
リレー小説二番目 佐倉御影
「うわあ!」
俺は声を上げて飛び起きた。クラスの奴らの視線を感じ、赤面する。徹夜して文化祭準備をしていて、仮眠を取ろうと机に突っ伏していたのだった。
毎回、この時になぜか戻る。
高校二年生の、出店する側としては最後の文化祭。この日のために準備を重ね、当日を迎え、楽しい一日を期待していたのに。
さっきの回は、そこそこ上手くいったほうだった。目覚めたタイミングから急いで休んでいる親友の家に向かい、風邪気味の彼を連れ出すことで彼が強盗に殺される運命を変えることができたはずだった。祭りが大盛り上がりの昼時に委員長に校舎裏に連行され、今度は委員長が植木鉢が落ちたことにより死んでしまった!
人が死ぬたびに、俺はこの日の朝に戻る。小さなタイムリープだった。
少なくとも、今から走らなければクラスメイトの救出はできないので、俺は「朝飯買ってくる!」といって教室を出た。
クラスメイトを救い、委員長の誘いは申し訳ないけれど後日にしてもらった。これで昼時までは何事もなく過ごせた。
射的スペースで接客をしたり、ヨーヨーを膨らませたり、綿あめを作ったり。
文化祭らしい時間を満喫していると、
「きゃー!」
と入口で悲鳴が聞こえた。見ると、ナイフを持った男が客引きをしていた女子を羽交い締めにしている。
男は焦点の定まらない目で教室をぐるりと見回し、へへ、と笑って女子の首にナイフを突き立てた。
ぐるりと視界がねじ曲がる。
なんでこんなことになってしまうんだろう。無茶を言ってクラスメイトを連れ出したり、悲しそうな委員長を置き去りにしたり、そこまでしているのに、なんでまた……!
俺はこのまま頑張り続けないといけないんだろうか?
どうしたらこの悪夢は終わるのだろうか?
何もわからなかった。
3
綺麗なビニール袋ひとつを持って校内を歩くと、妙に落ち着かない気持ちになる。
本来なら登下校のためにスクールバッグを持っているか、もしくは休み時間で手ぶら、それか移動授業で教科書を持って歩くはずだ。それなのに、どこかの洋菓子屋か雑貨屋の綺麗な袋だけを持ち歩くのは、やってはいけないことをしている気分だ。
袋は洋菓子や雑貨の軽さではなく、ずっしりとした重さを主張しているから、それが唯一の現実味を出している。中身はもちろん本だ。
こないだの部活で、日向くんが興味を示した日常ミステリ系に近いシリーズが三冊入っている。高校に幽霊が現れたり怪文書が貼られたりする話だ。
人が死なないミステリは、人死にという派手な事件がない分、犯行動機が苦々しい人間味あふれるものになることも多い。そういう話をしたところ、人の気持ちを推理できるという点に興味を持ってくれたらしい。
というわけで、僕はこの本を日向くんに貸すため、彼の教室に向かったというわけだ。
他の人の教室を訪ねるなんて随分久しぶりだが、扉から頭を出して相手の名前を呼ぶか、外のロッカーにいる人に声をかけて呼び出してもらえばいいだけの簡単なものである。
そう頭の中では分かっているのに、僕の心臓は脈拍が速くなっていた。情けない。人が少なくなる時間の方が、違うクラスのやつが来たと怪しまれずにいいと思っていたが、そういうものでもないらしい。人に紛れることができないと思うと、余計緊張する。
教室の扉が閉まっていたらどうしようかと思ったが、放課後ということもあり二つとも開いていた。僕は黒板側の扉から室内を覗き込む。
中にはまばらに人がいて、各々おしゃべりを楽しんでいるようだった。そして、日向くんは窓際で三人の友人と会話をしている。三人とも知らない人だ。一人はバスケ部っぽいユニフォームを着ていて、一人は制服のシャツの上にパーカーを羽織り、もう一人は髪を茶色に染めている。何を話しているのかは分からないが、時折笑い声がする。日向くんは聞き専というわけではないようで、彼が喋ったあとに笑いが起こることもあった。
今まであまり気にしないようにしてきたが、日向くんは僕とは同じ世界の住人じゃないだろう。漫画は元々好きで、本に興味があって部活に入ったと聞いているが、それは根暗であることを内包してはいない。
彼はコミュ強だ。目立たないように振る舞っており、普段の格好も地味で髪を染めたり制服を大胆に着崩したりはしないが、彼自身の性格は物静かでおどおどしているわけではない。部活が一緒でなければ、僕と話すこともなかっただろう。
「佐倉?」
怪訝な顔をした日向くんがこちらを見ていた。自分がじっと日向くん達を見ていたことに気づき、不審者すぎたと青ざめる。
なんとか無言で本の入ったビニール袋をかざすと、納得顔で近づいてきた。
「声かけてくれればよかったのに。わざわざありがとう」
にこやかに話しかけてくる様は、先程と変わらなかった。残りの二人はこちらを気にせず会話を続けている。
「話してたからタイミングを見失って」
「タイミングなんていくらでもあるだろ。会話が途切れた時とかさ」
僕が心底困った顔をしていたからだろう。日向くんは呆れ顔で笑った。金縁の丸メガネが輝くようだ。
「そもそも、どうやったらそんなに楽しそうに人と話せるのかを聞きたいよ」
やけっぱちでそう言うと、また笑われるかと思いきや、彼はスっと真面目な表情になった。
「そりゃ、楽しく話せるように計算してるんだから当然だよ。相手がテンションの高い話題は盛り上げたり、前にしたそういう話について今はどうなったのか尋ねたり、反応を見ながらいくらでもやりようはある」
計算。その返しが予想外とまでは言わないが、彼自身の楽しさは度外視にしているような説明だと感じてひやりとした。
「日向くんが楽しい話題を話す、というわけじゃないんだ」
「まあ、そうだね。あいつらとは昨日のサッカーの話をしてたけど、別にスポーツに興味があるわけじゃないし」
ロッカーにもたれかかり、こともなげに言ってのける彼は平然としている。
「……僕にはできそうにもない」
やっとの思いでそう言った。さっきから廊下を横切る生徒の視線を感じる。なんでこんな地味な奴が彼と話しているんだ? という無邪気な疑念が刺さる。考えすぎだろうか?
「できなくてもいいんだよ。こんなもん」
謙遜だと思い余計居心地が悪くなったが、彼の瞳を見るに、どうやら本音のようだった。
「人付き合いにどこまでリソースを割いてリターンを求めるか、という話だから。佐倉は自分の軸があるんだろ」
ドライな考え方だと思った。
その考え方を通すことができるのは、鋭い観察力と情報記憶力があるからだろう。その反面、その時々の人の感情に寄り添う意味はないと切り捨てているのかもしれない。
この人にはこの話題。あの人にはあの話題。会話を繰り返し、その都度反応を見て話題を修正する。それはとてもシステマティックだ。
「それにしても、僕と話す時は遠慮がないよね。僕の反応を見て会話を変えるというより、率直に君が話したいことを話しているように見える」
思ったことを口に出すと、日向くんは何故かそこで、ギクリという反応をした。
間違ったことを言っただろうか? 先輩に自身の意見を話すように頼んだり、ザクザクと自論を突き刺したり、彼は僕に対しては率直な振る舞いが多い気がする。
彼が動揺して困るのはなかなか見る機会がない。頭をかきメガネを拭いてかけ直す仕草を面白く見守った。
教室では、日向くん以外の三人が再び楽しそうに盛り上がっている。廊下には吹奏楽部の練習する音が響く。僕らのやりとりに注目している人などいないのだ、と気づき、呼吸がしやすくなった。
「佐倉が、話しやすいからかもな」
「僕が?」
そんなこと言われたのは初めてだ。詳しく聞こうと口を開いたが、何をどう聞けばいいのか分からない。
きっと社交辞令なのだろうと気づいたのは数秒沈黙してからだった。
「じゃ、僕は戻るから。本ありがとう」
日向くんは返事を待たず、そそくさと教室に戻ってしまった。
社交辞令だとしても、そう言ってもらえるのは嬉しいものだ。僕は足取り軽く自分の教室に戻った。
数日後、久しぶりに部活の招集がかかった。来たい時に来ればいいというゆるやかな部活だから、招集があるのは重要な事務連絡がある時のみだ。
六月の行事は特にないはずで、心当たりのないまま部室に向かった。
「佐倉くん、バイトしない?」
部室のドアを開けるなり、入口すぐの椅子に座っていた物見先輩に呼びかけられて「えっ」と間抜けなリアクションをしてしまった。
横にいた田嶋先輩は呆れたように肩をすくめ、「全員揃ったら説明する」と言い、なんとも消化不良のまま僕も席についた。
この間から、田嶋先輩と目を合わせにくい。彼女が言おうとしなかったことを暴いて知ってしまった罪悪感と、彼女が僕をいないものとして扱ったことへの気まずさが、僕の中から消えないのだ。田嶋先輩と物見先輩が話しているのをいいことに、僕は読みかけの本を広げた。
その後、日向くんがやってきた時も物見先輩は同じやり取りを繰り返し、時間ぴったりに三浦先輩が現れてようやくきちんとした説明を聞くことができた。
「合宿の時にちらっと話した、新聞部のバイトの依頼が来たって話だよね?」
田嶋先輩は、三浦先輩の問いかけを受けて話し始めた。
「今回は、うちの水泳部の取材をお願いされました。そろそろ大会シーズンに近く練習にも熱が入る時期であることから、意気込みや学業との両立について話を聞いてほしいようです。毎回ギャラは三千円で、今回は学内だから交通費はなし。ついでに言うと、文字数は千五百前後です」
田嶋先輩はそこで言葉を切り、僕と日向くんを見てこう続けた。
「あまり気負わなくていいよ」
「え、僕達がやるので決定なんですか」
日向くんが思わずといった様子で聞き返すと、物見先輩がけらけらと笑った。
「できればそうしてくれると助かるな。私もサポートするし、取材は同行するから」
他の先輩の反応は、と順々に顔を見る。
田嶋先輩は、
「ごめん。私は他に請け負ったインタビューが溜まってて」
三浦先輩は、
「俺はインタビューはやる気ないから」
やる気ない、とか言うような人だっけ? という疑問が顔に出ていたのか、三浦先輩は人の良さそうなふにゃふにゃした笑みを浮かべたままこう言った。
「まあだって、たかが学生を特別扱いして話を聞くなんて、面白くないじゃない」
「…………」
たかが学生。面白くない。
冗談で言うには、強い言葉だ。
三浦先輩の口調は柔らかなままなのに。
「そういうことだから、俺はパス」
「……僕も、あまりやりたくないんですが」
便乗するように、日向くんも困った顔をして申し出た。
「まあまあ、一回やってみて合わなければ次からは無しでいいからさ。小説を書くよりは簡単だよ。それに、毎回私と田嶋ちゃんで回してたから、戦力が増えた方が助かるし。先輩に恩を売ると思ってさ!」
日向くんは嫌そうな顔で僕を見た。見られても困る。とはいえ、部活の仕事なら誰かがやった方がいいのは間違いない。でも、こういう時は、待ってれば誰かが「やる」と言ってくれるものじゃないか?
でも一年生は僕ら二人で、日向くんは嫌そうだ。
じゃあ、僕しかやると言える人がいないということか。こういう時は、どうしたらいいんだっけ。
「あ、えっと、そもそもインタビューってどうやるんですか?」
淡々と田嶋先輩が解説してくれた。新聞部がインタビューの日程調整をしてくれて、当日文芸部がインタビュー対象のいる場所まで行く。インタビューの内容は、新聞部の依頼に沿っていればなんでもいい。写真も何枚か撮っておく必要がある。原稿を書いて、写真と一緒に新聞部に送れば、後は校閲から紙面に合わせての調節まで全ておまかせ。こういう流れらしい。
「例えば今回なら、意気込みと学業と部活の両立の仕方を聞けという指示があるから、その通りにインタビューすればいい。原稿を書く時は、最初に部活の基本情報を書き、メインはインタビュー内容、最後に部活の今後の予定と応援の文章を入れればいっちょあがりってわけ」
決まったフォーマットがあるなら、依頼相手や取材相手に迷惑をかけることも少ないだろう。それなら、やってみてもいいかもしれない。というか、僕がやらなければ、困らせてしまうだろう。
「僕は、やってもいいです」
物見先輩と田嶋先輩はわっと歓喜の声をあげ、話はとんとん拍子で進んだ。新入生も一回は経験をしておけ、ということで、僕と日向くんと物見先輩がインタビューに行くことになり、日程は後日通達ということでお開きになった。それにしても、なんでそんなに日向くんは嫌がっているのだろう。要領の良い彼なら、このくらいどうってことなさそうなのに。
帰りにそれを聞こうと思っていたが、日向くんは話し合いが終わるとすぐに「用事がある」と言って帰ってしまった。
インタビューは、次の週の金曜の放課後に決まった。予習のために水泳部の歴史やここ数年の活躍について学校のホームページを見て学んだが、やはり当日は不安だった。
いつも通り制服だから、身なりに気を使うといっても寝癖を直すくらいしかできず、ワックスでも付けようかと思ったがそういう柄ではないと思いやめた。目元まである前髪は少しうざったいが、切ったら切ったで寒いだろう。制服のネクタイは真夏以外きちんと締めているから、これ以上どうしようもない。
物見先輩と日向くんと合流して校内のプールに向かう。二人ともいつも通り若干着崩した制服のままで、あたふたした自分が恥ずかしい。歩きながら軽く役割分担をして、物見先輩が部長へのメインインタビューをし、僕は書記と他の部員への簡単なインタビュー、日向くんはカメラ係となった。
プールは校舎からは離れた敷地の隅にあり、近づくにつれて塩素の匂いを感じた。温室のように白色のビニールが壁や天井となっている部分と、下駄箱がある建物部分が連結した細長い形の施設だ。
「インタビュー内容、考えた?」
「一応……」
僕が手帳を出すと、「感心感心」と先輩は呟いた。日向くんは肩をすくめて、何もしていないことをアピールした。やっぱり、張り切りすぎたか。
「インタビューの方ですか?」
そんなやりとりをしていると、下駄箱の簀子の上に立った人が、こちらに声をなげかけた。
ぞろぞろとそちらに向かうと、上下ジャージの男子高校生がぺこりと頭を下げた。
「部長の烏丸です。今日はよろしくお願いします」
こちらも自己紹介を返すと、スリッパ代わりのクロックスを勧められた。
どのように始まるのだろう、と不安でドキドキしていたが、下駄箱を上がってすぐ、プールや更衣室に繋がる空間の隅に置かれたパイプ椅子を示された。こんな軽い感じなんだ、と拍子抜けしつつ、流れるようにインタビューは始まった。
物見先輩と水泳部部長がにこやかに質疑応答を繰り返し、僕はそれをパソコンに打ち込む。
「部活と勉強、どうやって両立されてるんですか?」
「はは、両立なんてできてないですよ。俺は水泳一筋なんで」
笑い飛ばすその姿には、嫌味がなかった。
何かを一生懸命やっており、自分に自信を持っている人はこんな風なのか、と他人事のように感動した。
台詞だけ見れば、青臭いと笑ったり馬鹿にしたりできるのに、自分がこうもあっさり感動できることに驚いた。
二人はどんな表情をしているのだろうと思い、顔を上げる。物見先輩は表情一つ変えていなかった。社交辞令のような「すごいですね!」に、部長は気づいていない。一方の日向くんは。
「…………」
唇を噛み締め、床を見つめていた。
「では、部の皆さんに一言どうぞ!」
パソコンに目を戻し、文字を打ち込む。表情から何を考えているのか読み取るなんて、とても片手間ではできないことだった。
ウォーミングアップ中の部員に自由にインタビューをすることになり、僕達はプールの方に足を進めた。
紺色のスポーツ水着を着た男女が、泳いだりストレッチをしたりしている。水が跳ねる音と、反響する声で賑やかだ。物見先輩はずんずんと先に進む。日向くんは物珍しそうに水着姿の生徒を見ていた。僕はその後ろをついていく。湿気がすごいからか、呼吸がしにくく感じる。
「ほら、佐倉くん。頑張って」
プールサイドで物見先輩に背中を押され、誰に話しかけようかキョロキョロする。泳ぎ終わってプールから上がった人は、疲れたように顔を拭って僕の前を通り過ぎていく。座ってストレッチをしている二人はずっと会話をしている。
どうしよう。誰に話しかければいいんだ。邪魔だと思われないだろうか。
「すみません、新聞部のインタビューです! 今度の大会の意気込みを聞かせてくれませんか?」
自分が言おうと思っていたことが、勝手に口からこぼれ落ちたのかと思ったが、その声は背後にいる日向くんのものだった。
声をかけられた女子二人は、「どうぞー!」と明るく返事をして立ち上がる。日向くんは僕の前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「新聞部の代理で来ている日向と申します。お名前と学年を伺ってもいいですか?」
丁寧な口調。親しみやすい笑顔。女子二人も楽しそうに応じている。
「佐倉くん、手帳でいいから内容をメモして」
物見先輩の指示でようやくやるべきことを思い出し、僕はインタビュー項目を書いたページの隣にペンを走らせた。
できなかった。僕に与えられた仕事だったのに。また、他の人にやってもらってしまった。そもそも、日向くんのほうが適任だったのだ。誰とでも仲良く話せて愛想も良い彼の方が。僕が張り切る必要なんて、なかった。どうせできないんだから。
そういえば、いつもこうだった。何かをやろうとしても、他の人が上手くやってしまう。それなら初めから何もやろうとしなければいいと学習し、余計引っ込み思案が加速した。僕がやっても、上手くいくビジョンが見えないから。
気がついたらインタビューは終わっていて、ファミレスの席にいた。文字起こしされた内容の確認と、今後のスケジュールを話すために入ったらしかった。
「じゃあ、佐倉くんは来週までに記事の形にこれを直してみて。日向くんの仕事はこれで終わりでいいよ。インタビュー頑張ってくれたしね」
僕はウーロン茶をすするのを止めて、「はい」と答えた。日向くんはメロンソーダを飲みながら首だけで頷いた。
「にしても、日向くんって文芸部は大人しくしてるけど、本当は陽キャでしょ?」
物見先輩は事務連絡と同じ口調で、とんでもないことを言ってのけた。
それ、本人に聞いちゃう?
あまりの驚きに僕の鬱々は一瞬吹っ飛んでしまった。
「そんなんでもありませんって。クラスでも大人しくしてますよ」
日向くんは可も不可もない絵に描いたような笑顔を浮かべた。物見先輩は、ホットコーヒーが入ったマグを揺らして楽しそうに追撃をする。
「まあ、どっちでもいいんだけどね。君には色んな人と愛想よく話せるスキルがあって、なんなら下世話な話でも盛り上がれるノリの良さがあるわけだ。なんでそれを普段から使わないのかな、と思ってね」
日向くんの笑顔はまだ崩れない。
「だって、疲れるじゃないですか。必要な時だけでいいんですよ。こういうのは」
「へえ、佐倉くんと話す時は更にずけずけした物言いになるのは、それが楽だから?」
気づいていたのか。日向くんは、周りに人がいない時にだけ僕に対して率直な物言いをしていた。まさか、聞かれていたなんて。
「……降参です。ここまで根掘り葉掘り聞かれて逃げ続けるのも面倒なので、認めますよ。僕は中学時代はもっと派手派手しい生活を送ってました」
片目を細め、大きなため息をつき、日向くんは頬杖をついて物見先輩を睨め上げた。
「それを聞いてどうしたいんです?」
「特に何も。気になってるものは全部知りたくなるタチでね。不快にさせたらごめん」
別に、と日向くんは唇の端を持ち上げた。
「で、なんで高校では大人しくしてるわけ? 逆高校デビュー?」
「なんでもいいでしょう。ぎゃあぎゃあ騒いでも生産性がないと思っただけですよ」
物見先輩は、ふーんと返事をして、満足したように別の話題を始めた。その後は日向くんの口調はぞんざいになり、僕と話すような口調で物見先輩にも話し始めた。
まあ、そりゃそうだ。僕だけが特別なんてことはないんだし。
僕は、日向くんの特別な友人になりたかったのだろうか。そもそも、釣り合う気がしない。頭が切れて愛想の良い彼と、根暗な僕なんだから。そもそも、誰かの特別になろうとするのが、なれると思うのが間違いなんだ。なれると思うから苦しくなる。
自分の代わりなんて、いくらでもいるのだから。
インタビュー原稿を仕上げて翌週の例会に顔を出すと、物見先輩と三浦先輩が立ったまま話していた。物見先輩の口調はいつもより語気が強く、三浦先輩はカバンを下ろそうとしないのが不自然だ。我関せずと本を読む日向くんを見習い、僕は原稿を物見先輩の席に置き、こっそりと定位置に座って会話を見守る。
「いったい、いつになったら提出してくれるんです? もうすぐ七月じゃないですか。先週も一週間後に出すって言ってましたよね」
「だからごめんって。受験勉強で忙しくてなかなか時間が取れないんだよ。来週こそは出すからさ」
リレー小説の話のようだ。そういえば三浦先輩の番で数週間止まったままだった。僕が書き上げたのは五月の半ばで、今は六月末。一ヶ月以上は経っている。
「受験勉強せずに書けとは言いませんよ。そうじゃなくて、できないならできないと言ってくれればいいんです」
物見先輩は物分りの悪い生徒を相手にしたように、丁寧な口調で呆れたトーンを滲ませて言いつのる。
「嫌だな。書くつもりはあるんだって。書かなきゃ意味がないんだから」
三浦先輩に動揺した様子はない。のらりくらりと交わしていた。
リレー小説自体は部にとってはお遊びみたいなものだから、進行が多少遅れても問題はないだろう。とはいっても、リレー小説に必ずしも三浦先輩が加わる必要はないはずだ。ずっと提出をしないことで全体に迷惑をかけ続けてしまうなら、尚更。田嶋先輩はそもそも不参加を選んでいるんだから、参加しないと疎外感があるわけでもない。まあ、僕には「書くのを諦めたらどうでしょう」と言う度胸はないのだが。
「どうしたの?」
部室にやってきた田嶋先輩が、二人を見て目をぱちくりさせて問うた。
「田嶋ちゃんも三浦先輩に言ってやってよ。小説より受験を大事にしろって」
「ああ、そういうこと……」
田嶋先輩はやりとりの内容を理解したようで、仕方ないなと言いたげに肩をすくめた。
「それより、次回の合評会のテーマの発表をしてもいい?」
二人の会話は無視して、田嶋先輩はホワイトボードの前に進んだ。
「今回は私がテーマを考える番でした。締切は二週間後で、テーマはこれです」
キュッ、キュッ、と書かれた文字は「一方通行の愛」だった。
「これはまた攻めたお題だね」
今までのお題を知らないから、攻めているのかは判断できないが、どうやっても暗い話になりそうだと思った。田嶋先輩は、こういう本が好みだっただろうか。
「へえ、ドロドロしてるんだ。物見さんはこういうの書くの上手そうだよね」
「ドロドロした人間関係は好きですけど、愛を大きな目的に据えた物語作りは難しいですね。説得力があって感情的じゃないと読めるものにならないし、その上で展開も面白くしなくちゃいけないし」
そういうわりに、物見先輩は顎に手を当ててニヤニヤとしながら考えを巡らしているようだ。
「そう言う三浦先輩の書く愛情も見たいですけどね。先輩、人への情とか無さそうだし」
「いいや、好きな人は好きだよ。嫌いな人は嫌いってだけでさ」
毒のある言葉は、先程と同じように余裕綽々といった様子でかわされた。
「何か質問はある? 佐倉くんと日向くんは、初めてだけどできそう?」
田嶋先輩から名前を呼ばれ、「え、あ、いえ」と挙動不審になってしまった。日向くんから怪訝そうな顔で見られ、「いや、なんでも」と小声で言い訳をする。何事もなかったように田嶋先輩の顔に視線を戻そうとするも、首から上には進めなかった。
こないだ無視されてしまったことを、別の顔を見てしまったことを、どうしても意識してしまう。良くないことだと分かってはいるのだが……。田嶋先輩にも気づかれてしまっているだろうことが、何よりも申し訳ない。
そこからは、ただ頷くだけのマシーンと化し、気がつけば部室には座ったままの僕と日向くんだけになっていた。物見先輩に提出しようと席に置いておいたインタビュー原稿はなくなっていて、無事に受け取られていたようで安堵する。
「何かあったのか?」
「分かっちゃうよね……」
表情に変わりはないが、心配して残ってくれたのだろう。色々な人に迷惑をかけてしまったことに、心臓が痛くなる。
僕は、こないだ「陸上部の田嶋先輩」を見てしまったことを話した。日向くんは納得したように一回頷き、
「そんなに気にしなくていいと思う」
と言った。
「たとえば佐倉だって、アイドルの写真集を手にレジに行こうとした時に僕に会ったら、知らんぷりしたくなるだろ?」
アイドルの写真集なんて買ったことないが。
でも、確かに見られたくないところを見られたら、フリーズしたり無視したりしてしまうかもしれない。
「何事もなかったように話せばいいんだ。田嶋先輩だって気まずいだろうし」
「何事があったような振る舞いをしてしまった……もう戻れないかもしれない……」
「え、そんなに落ち込むことか?」
頭を抱えた僕に、日向くんは呆れた様子だ。
「いつもこうなんだよ。小学校の時に好きな女の子がいることがバレて冷やかされて、それきりその子と一回も話せなくなったり。中学校の時に一人だけ遊びに誘われなくて、それきり誘われても遠慮するようになったり」
「……それは重症だな」
脚を組み直し、日向くんは「うーん」と声を漏らした。どういう言い方をすれば伝わるか、吟味をしている間だった。
「きついことを言うようだけど、それってどれも取り返しがついたんじゃないか? 小学生なんて話題にすぐ飽きるんだから、ほとぼりが冷めたらまた話しかければ良かったと思うし、中学生の誘う相手なんてその場にいたかどうかくらいで変わるだろ。また誘われた時に楽しめば良かったじゃないか」
「たしかに、そうだったのかも」
その通りだ。その通りなのだけれど、その時の僕はそうは考えられなかった。誰かを好きになったら相手に迷惑をかけてしまう。友達ができても、自分は大勢のうちの一人に過ぎない。そう思ったらもう身動きが取れなくなっていた。
下校時間を告げるチャイムが流れ、上の階が片付けでドタバタと騒がしくなった。張り詰めていた空気が緩むのを感じた。
「…………」
日向くんは、それでも動かなかった。僕の反応を見守る責任があるとでもいうように、こちらを向いていた。
「僕は、もう駄目だって諦めるのが早かったのかな」
「まあ、そういうことかもな」
日向くんの声には露骨に安心が滲んでいた。もしかすると、僕が気を悪くしないか心配だったのかもしれない。いつもはずけずけ物を言うのに、こういう時は優しいのか。
「もう一度、先輩と話してみるよ」
「それがいい」
僕らは立ち上がって、ぽつぽつと会話をしながら昇降口に向かい、いつも通り自転車置き場で別れた。
一人になり、校門を抜けたところで、見慣れた人影が道の端にいることに気がついた。
「田嶋先輩……」
目が合った。知らんぷりはできなかった。
先輩は気まずそうに、唇の端を持ち上げた。
「佐倉くん。一緒に帰ろうか」
「僕を待ってたんですか」
「待ち伏せみたいでごめんね。君には色々言っておかないといけない、と思ってさ」
僕らは並んで歩き出した。部室よりも表情が柔らかく口数の多い先輩は、「陸上部の田嶋由香」と「文芸部の田嶋由香」のちょうど真ん中のようだった。
「私が陸上部と兼部してるってこと、気がついたんだね」
「……はい」
「そんな申し訳なさそうにしなくていいよ。本気で隠してたわけじゃないし。いや、これは嘘か」
君のこと無視しちゃったもんね、と先輩は独りごちる。
「校内ですれ違うなんて、いつかは起こり得ることだけど、動揺しちゃった。ごめんね」
「いえ。僕もびっくりしちゃって。……挙動不審になって、すみません」
田嶋先輩は、ふふと笑う。そんなに僕の反応はおかしかっただろうか。いつも冷静沈着で表情ひとつ変えない先輩が笑っていると、調子が狂う。
「ううん、気にしないで。佐倉くんは純粋で可愛いね」
「可愛くはないと思いますけど」
「そういうところ。全部真に受けちゃうところ。擦れてないよね」
駅までの一本道は、まだ続く。田嶋先輩は自分から話し続けた。
「物見ちゃんは私が兼部してることを知ってる。三浦先輩は……知らないんじゃないかな。興味無さそうだし」
すっきりとした表情で、先輩は「何か質問は?」と首を傾げた。
「えっと……」
一番気がかりだったことを、口に出していいのか迷う。これを聞かなければ、きっとまたぎくしゃくしてしまう。でも、どんな答えが返ってくるかは分からない。
「文芸部は、楽しいですか? ……その、陸上部の人達といる時の方が、楽しそうに見えたので」
虚をつかれたように、田嶋先輩は目をぱちくりさせた。人間味のある反応に、やっぱりこの人は人形ではなく人間なんだと思う。
「文芸部で静かにしてたのは、わざとだよ」
風に吹かれた前髪を直す手つき。リュックを背負い直す音の重み。
先輩の輪郭が濃くなっていくのを感じる。
僕なんかが触れていいのか分からない個人の事情に、足を踏み入れたのが分かる。
「わざと?」
「本が好きなんだ。だから文芸部に入った。でもさ、周りの人は私よりたくさんの本を読んでいて、たくさんの知識があった。そこで浅い発言をして笑顔で誤魔化すなんて、恥ずかしいじゃない」
口元は柔らかく微笑んでいる。
目元はいたずらっぽく細められている。
たまらず下を向くと、普通の女子高生みたいに短いスカートが目に付いた。いつもは座っていて見えなかった部分。先輩は、普通の女子高生なのだ。物静かで、表情を変えずに小説を読んでいるだけの機械では、ない。
「だからね、下手な発言をしないように黙ることにしたんだ。他の部活でちゃらちゃらしたことやってるのを知られるのも気まずいから、陸上部の話はあまりしないようにした。そうしたら、余計何を話せばいいのか分からなくなっちゃって。陸上部の自分と文芸部の自分が、どんどん離れていっちゃった」
二重人格みたいだね、と先輩は茶化した。
「佐倉くん、何その表情。ちょっと笑ってる?」
僕はあわてて口元を押さえた。笑ったつもりはなかったけれど、口角は上がっていた。
「すみません。なんで笑ってるんだろう……」
面白おかしいとは思わなかった。一人の人間が、自分の「好き」を他者と比べて萎縮したという話だ。面白がることができるわけない。
好きな本への感想の持ち方なんて人それぞれじゃないか。
人によって好きなジャンルは違うんだから、自分の好きなものを胸を張って言えばいいはずだ。
他の部活に精を出していることを、すごいとは思うが馬鹿にするわけないじゃないか。
そう思うのに、口からは出せない。急に知った僕が言っていいことなのか? そもそも、僕が知っていいことだったのか?
でも。
「……言ってもらえて、嬉しかったんだと、思います」
「ああ、そういうことか」
田嶋先輩は目を細めた。
「佐倉くんは、もし私が小説を書いたらどんな物語になると思う?」
駅のホームが少しずつ大きくなっていく。踏切の音や、駅の周りに点々と散らばるお店の活気が聞こえてくる。
答えなければ。
物語にはその人そのものが現れる。僕にとって田嶋先輩はどう見えるだろうか。
先輩は、ファンタジーが好きだ。そして、陸上部では明るく活躍し、文芸部では静かに的確な指示を出す。それができるのは、きっと空気を読むのが上手いからだろう。それは、ファンタジーが好きであることと通ずる気がする。知らない世界での当たり前を文章から味わうのは、ファンタジーの楽しみだから。
「情景描写がとても上手いんじゃないかなと思います。心情を直接説明しなくとも、風景ひとつで伝わるような、そんな繊細な物語が書けるんじゃないかなって」
そっか、と呟いた田嶋先輩は、いつもの文芸部の先輩だった。
「やっぱり、小説を書いた方がいいのかな」
文芸部で小説を書かないと公言しているのは田嶋先輩だけだ。書く書かないは人それぞれで、そこに優劣はない。でも、そう言ったところで建前っぽくなりそうだ。
「先輩が書いたものは読んでみたいですよ。例えば、今のリレー小説は人物の描写があまりできていないですけど、もし先輩が加わったらそこを補強してくれるんじゃないかな、と思います」
曖昧な受け答えになってしまったが、田嶋先輩は笑ってくれた。
田嶋先輩と僕は駅のホームで別れ、それぞれの電車に乗った。ひとりになって、ようやく自分がやったことを振り返ることができる。
先輩のお膳立てがあってのことだが、きちんと謝って疑問を解消することができた。これでもうビクビクする必要も、もやもやすることもない。
僕はやりとげたのだ。
思えば、僕はいつだって、少しやって難しいと思ったら適当なところでやめていた。人間関係については、日向くんに言った通り。習い事も、部活も、胸を張って言える成果はなかった。
だって、無理に僕がやる必要はないと思っていたから。
自分より優れた誰かがもっと良い成果を出すと思っていたから。自分ではない人と一緒にいたほうが、良いだろうと思ったから。
そんなもの、全部傷つかないための言い訳だったのだけれど。
そんな僕が初めてやりとげたのは、合宿で最後まで書きあげた短編小説だった。
次の合評会は、二週間後。
テーマは、一方通行の愛。
書いてみよう。そう思えた。
「へえ、ピアノコンクールで落選した少女と、そのコンクールを聞いていて少女の演奏に感銘を受けた少年の恋愛か。少女の演奏を純粋に愛していた少年が次第に少女自身のことを好きになるけれど、少女はどこまでも少年を自己愛を叶える相手としてしか見れない構図がいいね」
「音楽が主題なのにピアノの描写が少ないのは勿体ないけど、お互い相手に歪な期待を持っているのが素敵だと思う。これ、続きはどうなるの?」
「すみません。書き終わらなくて、未完結なんです……」
あれから二週間。合評会で、僕は自分なりの一方通行の愛に関する小説を提出した。二週間では全然書き終わらず、中途半端なところで尻切れトンボのままだ。打ち切りみたいに取ってつけた結末をつけるよりはいいだろうと思った。
思いのほか、先輩二人からは高評価で嬉しい。日向くんは口は開かなかったが、うんうんと頷いていて、なんだか安心した。
「結末までは、うまく考えられなくて」
「じゃあ今一緒に考えてみようか」
物見先輩は印刷した原稿をボールペンでトントンと叩いた。
「大きく分けて結末は二つある。二人のすれ違いが解消されるか、されないか」
「今の状態を見るに、話し合って心を通わせるのは難しいんじゃないでしょうか。少女にとって少年は都合の良い相手にすぎないので、二人の感情の大きさに差がある気がします」
日向くんが真面目な顔で言うと、物見先輩は思わぬ人から反応があったと嬉しそうに頷く。
「そうだね。だから、心を通わせるならそれに足るイベントが必要だ」
それに、と横から声が割って入る。
「それに、この主人公にはまだ気づいていない歪みがある」
田嶋先輩は、原稿から顔をあげずにぽつりと呟いた。
「歪み……ですか?」
それはなんだろう。僕は、少年を純朴に、少女を強情に書いたつもりだった。二人とも筋の通った人物だと思うし、内面を余すことなく書いたはずなのだが。
「主人公の彼は、もともと彼女の音楽が好きだったはずなのに、最終的には彼女自身のことが好きになった。それって、音楽への冒涜だと思わない?」
「いや、それは、始めは少女の音楽だけに興味を持っていたのが、少女の全てを好きになったという話で……」
「じゃあ、なぜ音楽の話は中盤から少なくなっていくの? 私には、音楽の興味が異性への興味に上書きされたように見えたな」
それが、音楽への冒涜。
「…………」
反論できなかった。書いている僕は、途中から付け焼き刃の音楽の話よりも、想像しやすい恋愛の話に意識が流れてしまっていた。それが、登場人物の人格の一貫性を消した。
黙ってしまった僕に、田嶋先輩は落ち着いた声音でこう言った。
「でも、それが活かせる」
「活かせるんですか……?」
顔をあげて、先輩を真正面から見つめる。
「歪みは人間を魅力的にするから。その歪みを物語の展開に活かせばいいの」
「極端な例をあげると、変な動機を持つ大量殺人鬼、トラウマを抱えたヒーローとかね」
いまいちピンときていない僕に、物見先輩が解説を入れてくれてようやく理解した。
「私が好きな本も、自身の女の子らしさを自覚している主人公が、とても残酷に自分の可愛さを使うんだ。彼女は歪んでいて、だからこそ泥臭くなんでもやる主人公として好ましい」
田嶋先輩の好きな本の話を聞くのは、初めてだったかもしれない。
「音楽が好きだったはずの主人公の変化が物語に影響を及ぼすような展開、ということですね」
田嶋先輩は首肯した。
「あとは佐倉くんが決めることだけど、個人的には彼には自身の音楽への愛に疑問を感じてほしいかな。彼自身が気づかなければ誰も気がつかないと思うから」
よく僕の物語を読んだ上での提案だということが、身に染みて理解できた。主人公の彼は、何かを追うばかりで、誰かの愛情を受け取ることはない。誰かの注目を集める存在ではないのだ。
「歪みを理解したら、その先は離別か諦めでしょうか。どっちみち、ハッピーエンドにはならなさそうだ」
日向くんは、いつも部活で見せる控えめな笑みよりもシニカルなものを浮かべて、こちらを見た。
「なんだか、先が見えてきた気がします。合評会のためのちょっとした物語のはずだったのに、こんなに膨らむなんて思わなかったです」
このわくわくした時間がずっと続けばいいのに。そう思いながらも、議論が終わる気配を感じてこう述べると。
「じゃあ、最後まで書けばいいんじゃない」
田嶋先輩は、いつもの無表情でさらりと言った。
「それがいいよ。書き上げたら部誌に載せてもいいし、賞に応募してもいいんだし」
「……やってみます」
うん、と簡素な言葉が返ってくる。
僕は、やりとげられるのだろうか。書き上げられるだろうか。分からない。
それでも、これが最後の機会なのではないかという予感がした。
人と繋がる機会。そして、自分が何事かをやり通す機会として。
物見先輩の小説の合評を終え、話は事務連絡に移った。この間取材した水泳部が数年ぶりに関東大会に出場することが決まり、その取材も新聞部からお願いされたとのことだった。
「今度は、日向くんと佐倉くんの二人でお願いできないかな。さすがに一人だと不安だし、私も物見さんもその日は予定があってダメなんだ」
提示されたのは二週間後の土曜日。土日に予定なんて入らないから、空いている。
日向くんは、と振り返ると
「…………」
何とも形容しがたい表情をしていた。唇を噛み、少し眉を下げて何かを堪えるような顔。でも、それは一瞬にして消えた。
「しょうがないですね。大丈夫です」
さらりと答えるのを見て、何故か僕が不安になった。今の反応は、なんだったんだろう。
「佐倉は?」
目が合い、あわてて頷いた。
「はい!」
「じゃあ、決まりだね。頑張って」
取材の説明を受け、部活はお開きになった。
まだ残るらしい先輩を残して部屋を出ると、先に廊下を歩いていた日向くんがくるりと振り返った。
「小説、面白かった。読書経験が浅いやつから言われて嬉しいかは分からないけど」
丸いメガネのレンズごしに、目と目が合った。嘘じゃないことが分かり、心が温かくなる。
「ありがとう」
横並びになって、駐輪場までの道を歩く。
「佐倉は、どういう気持ちであの小説を書いた?」
気持ち。それは答えるのが難しい。楽しいとかそういうことではないのだろう。僕が困ったのを察して、日向くんは言葉を連ねる。
「書くためには、その材料が必要だろ。それが佐倉のどこから来たのか気になった。経験なのか、他の物語なのか、元から持つ思想なのか」
「難しいな。こんな恋愛はしたことないし、ドロドロした話も好き好んで読まない。でも、恋愛に一家言あるわけでもないし……」
日向くんは、不思議そうに首をひねる。
下駄箱に雑に上履きを放り込んで、ローファーを音を立てて床に落とす音からも、もどかしい気持ちが伝わるようだ。
「じゃあ、君のどこからあの物語はできたんだ?」
日向くんが僕の小説を理解しようとしてくれている。それが嬉しく、思わず頬がゆるんだ。
「なに、にやにやしてんだよ」
不機嫌に睨まれ、あわてて謝った。
「ごめんって。どうやって小説を書いていったか話はできるけど、日向くんは自転車で帰るんでしょ?」
彼とはいつも駐輪場でお別れだ。昇降口から駐輪場はあっという間で、説明には時間が足りない。
「じゃあちょっと待って」
日向くんは走って駐輪場まで行き、すぐに白いマウンテンバイクを引いて戻ってきた。
「これでいいだろ。フードコートにでも寄ろう」
「えっ、いいの」
「いいのって、帰りにフードコート行くぐらい普通にやるって」
そうではなく、僕と二人でいいのかと聞きたかった。今まで誰かと二人で放課後にどこかに寄るなんてやったことがない!
とはいえ、それを話すと微妙な反応をされそうだから、僕は頷いて歩き始めた。
フードコートで僕はドーナツ、日向くんはフライドチキンを買って席に座った。周りには同じ制服を着た学生や、子供連れの家族がちらほらいた。穏やかな時間が流れている。
長めの黒髪と丸メガネをかけた落ち着いた風貌の日向くんがチキンをかじるのは、普通の高校生っぽくてなんだか面白い。彼は元々こういう中学生だったのだろう。
僕はひと口水を飲んで、喋り始めた。
「今回は、テーマが一方通行の愛だったじゃない。だからまず、愛情が伴う関係性ってどういうものかを考えたんだ」
自分の感性の話になるから正直恥ずかしいのだが、そうも言ってられないので続ける。
「愛情があれば、それを感じる相手は特別なんだろう」
誰にだって愛を配り歩くなんて僕にはできない。
「特別ってことは唯一無二の存在で、愛を含む他の人には抱かない感情を持っている必要がある」
代替可能な人間は愛を得ることはできない。いてもいなくても変わらない人間にその価値はない。
「じゃあ、そういう二人はどのように生まれるんだろうと思ったんだ」
僕のような人間はそんな愛とは縁がないけれど、それを得ることがある人たちとはどんなものかの思ったのだ。
チキンを咀嚼しながら、日向くんはうんうんと頷く。もう全部食べ終えている。早い。
「親子みたいな血の繋がりがあれば、理由なくそういう感情を持つこともある。でもそういう必然的な状況ではつまらない」
親は愛をくれた。それを当たり前と言うのは良くないことだけれど。
「赤の他人の二人が特別で強い感情を持つにはどうするべきか」
どうやったら他人から愛されるのか。誰かから特別だと思ってもらえるのか。視線を集められるのか。
「それって、片方の人生が転換する瞬間にもう片方がそばにいることじゃないかって思ったんだ」
相手にとって無視できない存在になること。人生に自分を組み込ませること。
「あれか、人を殺してしまって一緒に死体を埋めるような話か」
「的確な具体例だね。人を殺すという転機に訪れたもう片方によって思いがけない選択肢が生まれる。そして、転機を乗り越えた二人はその経験を持つものしか得られない絆を得る」
そんなこと現実では起きないのだけれど。
水を飲む。まだ一口も食べていないドーナツをかじりとると、甘さが口いっぱいに広がり瞬く間に水分が吸われる。
「……?」
日向くんは僕をまじまじと見つめていた。「何を言っているんだ?」という怪訝な顔ではない。観察して、理解しようとしている顔。
それを、彼が僕に向けている。
チキンの脂でしっとりとした唇が動く。
「君は、いつもそういうことを考えている?」
「……いや、言語化しようと思ったのはこれが初めてだよ」
「佐倉は、誠実な人間なんだな」
誠実。そんな言葉をかけられたことがなかった。馬鹿にされているのかと思ったが、そういう人間の態度ではなさそうだ。よく分からない。
「別にそんなことはないと思うけれど」
「いや、少なくとも僕よりは誠実だ。君はすごいな」
分からない。
「え、どこが……」
僕なんかのどこがすごいんだ。
真面目くさった顔で言われると、反応に困る。こんな、子供と学生しかいないフードコートで、真摯な目で見られるなんて。
「日向くんのほうがすごいだろ。誰とでも話せて、鋭い意見も言える。猫をかぶるのもうまい」
にやっと笑いが返ってくるも、その顔は何故かすぐに苦しそうに陰った。口元は笑みを浮かべたままで、乾いた声がこぼれ落ちる。
「はは」
ブレザーのポケットからいつものラムネ菓子を出し、からからと手の平にだす。そしてこう呟いた。
「こんなの食べ続けても意味無いのにな」
「え?」
聞き返すと、
「僕は、駄目な人間なんだよ。佐倉」
日向くんは言い聞かすように呟く。僕は何も言えない。
「あまり僕を持ち上げるな。すごいと思うな」
その口調の必死さに、切実さに、僕は黙って頷いた。彼の前髪で、目元は隠れてしまった。真っ黒な髪は少しパサついているのだと初めて気がついた。
「日向くんも、小説を書いてみたいの?」
話題を逸らしつつ、聞きたかったことを尋ねてみる。あんなに小説の書き方と着想に興味を持ったのは、自分でやってみたいと思ったからなのか。
「いや、積極的に書きたいわけじゃない。ただ、リレー小説はいつか書かなければいけないし、その時にお粗末な内容になっては申し訳ないから勉強をしておこうという気持ちはあった。あとは、佐倉の内面への興味があった」
いつも通りの様子に戻って、日向くんは答えてくれた。
「内面? なにそれ?」
「あんな真っ直ぐな話がどのように生まれたのか知りたかったんだ。満足したよ。ありがとう」
「手出せ」と言われたので従う。ラムネ菓子が僕の手のひらに転がった。口に含むと、しゅわりと爽やかな酸味と甘みが溶けた。水を含んでいないはずなのに、じわりと満たされた気がした。
すごいと思っていた人に認めてくれた喜びの味なんだろうと思った。
反響するアナウンス。わんわんと響く応援の声。僕は音の圧迫感にクラクラとしながらカメラを構える。
運動部の大会というものを見るのは初めてだった。ましてや、屋内プールで行われるものは全くイメージがつかなかったが、とにかく音の反響がえげつない。そして湿気で息苦しい。早々に僕はプールからガラス一枚離れた観客席に退避してしまった。
「意気込みは聞けたし、出番も分かっているからあとはここでいいだろ。終わり次第もう一回感想を聞きに行こう」
「そうだね」
日向くんとそんな話をして、観客席に横並びで座った。出場する水泳部の学生は水着にジャージを羽織ってプールの方にいるから、こちらは保護者席みたいになっていた。それでも、何人かは僕達みたいな制服姿の学生がいるので心細くはない。
泳いで競っている選手たちは皆均整の取れたスタイルをしていて、泳ぎも素人目には美しく見える。ゴールもほとんど同じタイミングであるから、審判が大変そうだと思った。
「いや、長く見てれば上手い下手は分かるよ。最初に水に入った時の動きだったり、ターンのスムーズさだったりを注目すればいい」
「よく知ってるね。勉強してきたの?」
「まさか、たまたま知ってただけ」
そういう小ネタを聞くと見るのが少し楽しくなる。とはいえ、水泳が好きなわけではないので、ずっと見ていると飽きは来る。順番に僕達は休憩を取って、どちらかは必ずレースを見ているようにした。
僕がトイレから戻ってくると、日向くんの隣……僕が座っていたところに知らない人がいた。うちの学校のものではないジャージを着た男子だ。知り合いだろうか?
戻るのも気まずく、僕は少し離れたところに座って、見知らぬ男子が去るのを待った。二人は会話をしているらしい。
「まだあれを引きずってるのか?」
男子は日向くんにそう問いかけた。日向くんは乱暴に首を横に振った。迷惑そうな仕草だった。
「違う。お前が気にすることじゃないだろ。戻れよ」
「……お前はそう言うよな。でも、日向は悪くないよ」
「俺は!」
その後に言葉は続かなかった。勢いよく立ち上がり、今いる場所を認識して言葉を飲み込む。周りを見回す彼の目が、僕を見つけた。
「じゃあ、俺はもう行くから」
男子はそそくさと離れていった。後には、静けさと関わりたく無さそうに無関心を装う親達だけが残った。
僕は日向くんの隣に戻った。今の人は誰? 何を言われたの? 気になるけれど、横の彼の様子がそれを聞くことを許さない。前髪を鷲掴み、何かを堪える日向くんにかける言葉が見つからなかった。彼の目は見えない。何も見ていない。
その代わり、僕はなすすべもなく試合を見つめる。
一度トイレに行って戻ってきた日向くんはいつもと変わらないように見えた。
「試合、どうなってる?」
「あ、ごめん。全然分からない」
視線はプールに向かっていたものの、日向くんのことを考えていたら何も頭に入ってこなかった。一体何をやっているんだ僕は。
「そろそろ終わりだな。下に降りよう」
日向くんはメガネの位置を正し、荷物を持って観客席から立ち去ろうとしているので、あわてて僕もその後を追った。
うちの水泳部は団体戦準優勝だったらしく、本戦への切符を手に入れたらしい。優勝校は僕でも知ってる名門校だが水泳部の強豪でもあるらしく、うちの水泳部員としては悔しさよりもここまで来れた嬉しさのほうが勝ったようだ。
興奮冷めやらぬ部員たちに日向くんがテキパキとインタビューをし、僕がそれを打ち込んですぐにお役御免となった。
まだ選手や関係者は残るなか、僕らは競技場を背にして歩き出した。少し小腹が空いたからハンバーガーでも食べるか、という日常っぽい話が心地よい。
「日向!」
女性の声がした。振り向くと、茶髪をポニーテールにした女子がいた。知らない高校のジャージで、ちゃんと履く暇がなかったように運動靴をつっかけている。
「……三國」
ミクニ、と日向くんは女子の名前を呼んだ。
「さっき海斗から聞いたんだ。本当にもう水泳やってないんだね。髪、真っ黒じゃん」
「……俺の勝手だ。もう辞めたんだ。詮索するな」
ぶっきらぼうに日向くんは告げる。俯いた視線は女子の足元にあった。一方、女子は精一杯の笑顔を浮かべて日向くんの顔色をうかがっている。
「日向は優しいね。そうやって私たちから離れて気を使わなくていいんだよ。もうあのことは忘れよう?」
「優しくなんか、ない」
「話を聞いてくれるんだから優しいよ。日向はそういう人だもん」
「行こう、佐倉」
日向くんは僕の腕を掴んで女子に背を向ける。僕はおろおろとされるがままになるも、女子を見る。
「佐倉くんっていうんだ。私は三國まどかっていうんだ。日向と同じ中学校で水泳部だったの」
三國さんは、僕にまで笑顔を向けてくれた。自分に自信のある女の子の微笑みだった。申し訳なさそうに見えて、自分が突き放されるとは思っていない表情。
「佐倉」
日向くんの手の力が強まる。引きずられて僕も歩き出す。
「連絡待ってるから!」
三國さんの声を背後に聞きながら、僕らはせかせかと歩き続けた。
競技場が見えなくなるほど離れた交差点は赤信号で、ようやく僕らは立ち止まった。
「日向くん、痛いって」
「あ……ごめん」
日向くんは我に返ったように詫びるも、手は離さなかった。
「日向くん……?」
さっきのやりとりは何? あの人と何があったの?
聞きたいことは山ほどあるが、口にはだせない。
「佐倉。僕はどう見える?」
「え?」
「お前にとって、僕はどういうやつだ?」
日向くんの顔は青ざめていた。視線は射抜くように僕を向いていて、蛇に睨まれた蛙とはこのことかと思う。答えるまで話さないという意思。嘘は許さないという圧力。
「日向くんは、誰とでも話せて、頭が切れて、でも人の気持ちには少し疎いところもあって」
人と距離を置いているみたい、と続けようとしたところで、日向くんは何かを呟いた。
「え、なに?」
「俺は何も変わってなかった」
パッと手が離れ、腕に血流が戻るのを感じる。それと同時に信号が青に変わった。
「日向くん!?」
走り去る日向くん。僕はそれを呆然と見送る。
いや、見送っている場合じゃない!
踏み込むべきかどうかとか、僕にその権利があるかとか、関係ない。僕の隣にいた人が苦しんでいるなら、それは追いかけなくちゃいけない。相手のことをよく知らないなんて言っている場合じゃない。
それなら、知ればいいのだ。
僕も遅れて走り出す。
でも、走るのなんて中学の持久走以来で。
あっという間に距離は離れて、彼の背中は小さくなっていった。
「ああ……」
持久走でも、運動でも、もう少し頑張っておけば……!
そう思っても、もう遅い。
あれから、日向くんとは会えなかった。部活には来なくなり、廊下ですれ違うこともなかった。もしかしたら避けられているのかもしれないと思ったが、その確証もなかった。
水泳部のインタビュー原稿は僕が持っていたから、記事の形に書き直して提出するのは全て僕がやった。せっかくなら新聞部に渡して来るところまでやってしまえ、と物見先輩に言われたので、僕は新聞部の部室を訪ねることになった。
「君が佐倉くんか。どうもありがとう。今後ともよろしく」
副部長を名乗る男子生徒はせかせかとした動きで原稿を受け取り、ぺこりと頭を下げた。
「日向くんという一年生も担当だと聞いたけど、彼は来てないのか」
銀縁フレームの奥の瞳は意外と人懐こそうで、普通の世間話を振ってくれた。とはいえ、世間話というにはこちらとしては少し気まずい。
「はい。彼は、その、最近忙しいみたいで」
「そうか。彼も中学では水泳部のエースだったらしいじゃないか。今回の記事にその視点が活かされないかと期待した部分もあったんだ。読むのが楽しみだよ」
水泳部のエース。そうだったのかという気持ちと、やっぱりという気持ちが頭を埋める。
「エース級だったのに、高校では水泳部に入らなかったんですもんね」
何か他に僕が知らないことはないだろうか。その一心で、会話を続ける。
「うん。僕は彼と同じ中学だったんだけど、大体部活に打ち込みたい人が行く高校って決まってるんだよ。うちの新聞部はそこそこ頑張ってるから僕はここに来たんだけど、彼はどうしてこの高校にしたんだろうな。中学から近くもないし、水泳部の強豪は他にもあるし、不思議だ」
ごめんごめん、野次馬根性が出てしまった、と先輩は照れ笑いする。
「日向くんによろしく言っといてくれ」
頷いて、僕は新聞部をあとにした。
確かに、さっきの先輩が言っていたことは不思議だ。進学する高校は、だいたい部活か学力か家からの近さで決まる。たとえば僕は、家からの近さ一択で決めた。
先輩に言わせれば、日向くんにとって部活や家の近さという点でうちの高校はあまり魅力的ではない。
学力という点で見れば、日向くんの成績の話を聞く限りではうちの高校よりもっと上を狙えたような気もする。
そうなると、この高校を選んだ理由は不思議と言ってもいいかもしれない。たかが受験、されど受験。第一志望に落ちて滑り止めがうちだったと言われたら納得してしまうことではあるのだが……。
ひとつ思い当たる可能性があって、僕は廊下でスマホをいじる。
こないだの大会で優勝した高校の、部活紹介のページを見る。そこには、あの三國と名乗った女子が着ていたものと同じジャージを着た学生が映っていた。名門校であり水泳部の強豪である高校。それがあるのは、以前日向くんが言っていた最寄り駅から数駅程度の場所だった。
全てにおいて好条件な高校があるのに、彼はここを選んだ。
そうやって私たちから離れて気を使わなくていいんだよ。もうあのことは忘れよう?
もしかすると、日向くんはその高校に進学するのを避けたのではないか。
日向は悪くないよ。
あの男子生徒と女子生徒は、日向くんとどんな関係があるのだろう。
悪くない。もう忘れよう。
そう言われるのはどのような時だろうか?
ここから、事態は急転する。
日向くんがいなくても、日々は過ぎていく。送ったメッセージには既読がついて放置されていた。彼の過去について詮索することが躊躇われ、未だに何も出来ずにいる。
七月になり、期末試験を乗り越えた先の夏休みが手の届く話題になった頃、三浦先輩から久しぶりに招集がかかった。
遅くなったけれどリレー小説を書きあげて部室に置いたから確認しておくように、というメッセージを見て、僕はほんの少しだけ安堵した。以前物見先輩とやり合っていた時から、もしかしてこの企画はポシャるのではないかと思っていたのだ。でも、最後の走者は日向くん。結局企画が止まってしまう可能性は目の前をチラついている。
気が重いまま、放課後になって僕は部室に向かった。
部室の前まで行くと明かりがついていたので、僕は合鍵を出しかけていた手をポケットに戻していつものようにがらりと扉を開けた。
「…………え」
眼前に広がる光景は、いつもの文芸部と程遠かった。木の板が張られて茶色いはずの床は、雪が積もったように真っ白になっている。そして、その上に立ってこちらに背を向けている人がいた。
まさか、夏に雪が降るわけがない。それも室内に降るなんておかしい。
何度か瞬きをして、床に積もった白いものは細かくちぎられた紙片なのだと理解した。
跪いてその欠片を拾う。そこには、印刷された文字が連なっていた。何枚もの紙を見比べて、多出する文字を見つけて、ようやくこれが小説の破片であると分かった。
「ねえ、何があったの?」
僕は紙片の雪の真ん中に立つ人に問う。
その人はゆっくりとこちらを振り向いた。
その手には封筒が握られている。
感情の見えない瞳が、僕の目を見た。
「何が起きたの? 日向くん!」
日向くんは、静かに首を横に振った。
すぐに物見先輩と田嶋先輩が到着し、二人も息を飲んだ。
「これ、三浦先輩の小説だよね」
田嶋先輩は呟き、日向くんが持つ封筒に目をやった。
「日向くん。これ、なに」
いつもより強い口調だ。日向くんを疑っているのだろう。僕が来た時の状況を説明してしまったから、そう思うのも無理は無いかもしれない。
日向くんはあっさりと封筒を差し出した。そこには、退部届けと書かれていた。
「どうして……」
絶句する僕と田嶋先輩。日向くんは肩をすくめた。
「人の小説を破ったから、責任を取ってやめるってこと?」
よく通る声が、僕ら全員の耳に入った。面白がるような響きをたたえた声で、物見先輩はそう言ってのけた。にやにやと笑っている物見先輩。蒼白な田嶋先輩。無表情な日向くん。そして僕。最悪な空気だった。
「物見さん、何を言ってるの!」
「違います」
きっぱりと日向くんは否定した。その顔をあらためて見て、日向くんは無表情なのではなくこの騒動を面倒くさがっているのだと、僕は直感的に理解した。
「この状況で信じられると思う?」
「違うものは違うので。僕は三浦先輩の小説に特に興味はないです」
淡々ときついことを言う日向くんに、先輩は笑みを深くした。
「でも、だめだよ」
その手から退部届を奪って、びりびりと破る。物見先輩の所業に、田嶋先輩は驚きを通り越して引いていた。
「部長として、犯人が分かるまで、君の退部は許さない」
宣言した物見先輩に、「犯人って!」と悲鳴のような声が上がった。
「破るっていうのはさ、こういうパフォーマンスのような要素が強いよね」
物見先輩は完全に周りの反応は無視して、破った紙片を床には落とさずに自分のブレザーのポケットにしまった。
「小説を盗むだけでもよかったのに、ゴミ箱に突っ込むだけでもよかったのに、こんなにバラバラにして犯人はどうしたかったんだろうね?」
ね、日向くん。
「さあ。この中の誰かが三浦先輩のことを、三浦先輩の文章をひどく恨んでいたんじゃないですか」
「犯人だとか、恨んでるだとか、探偵ごっこのつもり!? こんなことが起きてるのに何を遊んでるの!?」
田嶋先輩が感情的に叫んだ。いつもの人形のような振る舞いはなくなり、あの時話した田嶋由香の素が出ていた。
「でも、田嶋ちゃんも気になるでしょう?」
いつまでもへらへらとしている物見先輩に、ぐ、と田嶋先輩は言葉を飲み込む。
「ここにいる全員は、小説の価値を知っている。小説を破る重さを知っている。それなのに、それをやってのけた人がいる」
まさか、風が吹いたとか猫が入って破ったなんて言わないよね? という視線。
「でも、部外者がやったという可能性もあるんじゃないですか?」
やっとの思いで僕が尋ねると、物見先輩は出来の悪い教え子を見るように哀れみと優しさのこもった視線を向けた。
「三浦先輩もしくは文芸部自体に恨みを持つ人がやった可能性は、もちろんある。でもさ、この部屋って鍵がなければ入れないんだ。この合鍵を持っているのは部員だけで、マスターキーは職員室の奥にしまってあるんだよ。学生でも先生でも取ろうとしたら一発で気づかれる位置にね」
鍵が開けられなければ、そもそも入ることができない。ということは、やはり部員がやったことと考えるしかないのか。
「田嶋ちゃんは探偵ごっこって言ったね。もちろん、ここで犯人当てをしなくてもいい。無かったことにしてもいいんだよ。これは犯罪とまでは言えないだろうし」
誰も言い返さなくなったことを確認し、歌うように田嶋先輩は言う。
「でもさあ、みんな嫌じゃない? 自分の小説を破くかもしれない人がいる空間でこれからも仲良しこよしでいられる?」
私は嫌だよ。
笑顔のまま、物見先輩はここにいるかもしれない犯人を否定した。僕は咄嗟に他の人の顔色をうかがってしまう。この中に人の小説を破るような人がいるようには思えない。それは、僕がその人のことを深く理解できていないからだろうか。
「推理をしよう。誰が犯人なのか」
先輩はぐるりと僕達を見回した。笑い話では済まない誰かの悪意がここにある。それを持っているのは、今まで一緒に活動していた部員の誰かなのだ。
僕はゴクリと唾を飲み込む。
これは物語じゃない。小説の犯人当てではない。
僕らはもう、事件が起きる前の僕らには戻れないのだろうか。
「いいかげんにして! 小説の中のことじゃないんだよ」
田嶋先輩が怒鳴っても、物見先輩は笑みを深くするばかり。
「久しぶりにこんな田嶋ちゃん見たな。田嶋ちゃんは正義感が強いもんね」
「正義感なんて……。おかしいのは物見さんの方でしょ」
「おかしいのかなあ。今起きてることを楽しまないなんて損だと思うんだけどなあ」
田嶋先輩は無言でただ睨む。
「僕がここに立って破ったわけじゃないことは、これを見てもらえれば分かると思います」
一触即発の雰囲気に、日向くんが風穴を開けた。二人の視線が集まる。
「破れた紙の上に僕の上履きの足跡が付いているでしょう。僕がここで紙を破いていたなら僕の足の下に紙が入り込むことは有り得ないです」
確かに、日向くんは紙片を踏みつけている。さらに、紙片の上には日向くんの足跡がついていて、二重になっているなんてこともなくまっすぐと外から今いる紙片の真ん中まで続いていた。
「僕が来た時には、紙は散らばっていました。何があったんだろうと思い、紙を踏みつけて部屋の中まで入りましたが、特にそれ以外に部屋に異変は起きていませんでした。どうしたものかと困惑しているところに、佐倉が来ました」
「要するに、自分はやってないと言いたいわけね。でもそれだけじゃ不十分だよ。紙片を撒き散らしたあとにそれを踏みつけてたった今来た風を装った可能性は否定できないからね」
「まあ、そうですよね」
言ってみただけ、という風に日向くんは肩をすくめた。
「みんな名探偵じゃないんだからしょうがない。その代わり、私たちには時間と安全がある。ゆっくり考えてみようよ」
田嶋先輩は勢いよくドアを開けて部室を出ていった。足音が遠のいていく。
「あーあ、嫌われちゃったかな。やだなあ」
物見先輩は残念そうに眉を下げる。
そして、その目は僕を捉えた。
「佐倉くんは考えてくれる?」
真っ直ぐで澄んだ瞳。悪意ではなく、ただただ好奇心で動いていることが分かる。
正直、僕は犯人を探したいとは思わない。僕が関係していないことは分かりきっているのに首を突っ込むのは気が引ける。
しかし、この問題が誰かが介入したほうが上手くいくものだったとしたら。誰かが理解することが必要なのだったとしたら。
「……やるだけやってみます」
まずは、知ることから始めよう。そして、当人同士の問題なら何も知らなかったことにする。
僕にできることはあまりに少ないけれど、だからといって最初から何もしない理由にならない。それをもう僕は知っている。
「ありがとう!」
物見先輩はそう言って目を輝かせた。
「実は犯人は私だったってオチはないよ。証明はできないけど」
そう言って先輩は口笛を吹きながら部室を出ていった。
残されたのは僕と日向くんの二人。
「……どうする?」
「退部できないなら、やるしかないか」
日向くんは僕を見ずに言って、ため息をついた。
「そうだ。やめるってどうして?」
「関係ないだろ」
もう一度、ため息。僕は目を伏せた。
「やるべきことはやるさ」
日向くんはそう言って、床に跪いて紙片をかき集め始めた。僕の訝しむ視線を感じたのかこうつけ加える。
「書かれた内容から分かることがあるかもしれないだろ」
それもそうだった。僕は日向くんが集めた紙片を机の上に広げた。文字が読める向きにして、並べていく。途方もないジグソーパズルのようだ。しかし、紙片は一辺が二センチほどに揃っていて、三百ピースのパズルと同じくらいの数に見えるので、現実的であると思い直す。
僕らは黙々とピースを並べていく。おそらくA4のコピー用紙に印刷された文章だ。手がかりは上下の文章と四辺にあたるピースの位置くらいしかない。机を囲み、あらゆる位置から文章を完成させようと試みる。
それをしながら考えるのは、人が書いたものを破る気持ち。見せつけるように台無しにする行動には、悪意があるように思える。
でも、部員の中に三浦先輩に悪意を持つ人はいただろうか。本当に嫌いなら一緒に合宿には行かないだろうし、同じ部に居続けることもないように思える。
それでは、三浦先輩が書いた小説だから破いたのではなく、なんでもいいから破いたのか。疑心暗鬼にして文芸部の活動……直近ではリレー小説を止めようとした可能性はどうだろう。いや、リレー小説をやりたくないなら辞めればいい話だ。それに、田嶋先輩のように読む専もいるのだから、書かなければいいだろうし。
「結局、可愛さ余って憎さ百倍みたいな話なのかな」
口に出してから主語がなかったと後悔したが、日向くんは意図を汲み取ってくれたらしい。
「憎いなら離れれば済むのにな」
手を止めないままぼそりと呟かれた言葉は、いつもの日向くんのようでどこか安心した。
「少なくとも、僕や日向くんではないよな」
「なんでだよ。僕はめちゃくちゃ怪しまれてただろうが」
「だって、日向くんは他の人と親しくなろうとする気がないじゃん。仮面をかぶって、相手にとって当たり障りのない話をして」
「……大人しそうなのに、お前がいちばんきついこと言うよな」
あわよくば日向くんの心に巣食う何ものかを炙り出せれば、と思い過激なことを言ったが、日向くんは怒らなかった。
「仲良くなってもろくなことがないじゃないか。文芸部だって、和気あいあいと活動していたらこれだ。憧れも好意も、時間が経てば嫉妬と恨みになるんだから最初からそんな感情が絡まないようにしとくのがいいんだ」
人の感情について語る彼を見るのは初めてだった。いつも、人の気持ちは分からないと言って考察から外す彼はこんなことを考えていたのか。
「佐倉、こないだの水泳部インタビューの件が気になってるんだろう」
「……バレた?」
「バレたもなにも、あの日から何回もメッセージ送ったり僕のことを探したりしてるんだから、分からないほうが馬鹿だろ」
呆れたと言いたげな口調。
「お前に話す気なんてなかったけど、辺りを探られて退部の動機を推理なんてされたら、そっちの方が迷惑だ。話してやるよ」
必要な事務処理のように、淡々と日向くんは話し始めた。
4
「一位、瀬川。二位、日向」
おお、というどよめきが、水から出たばかりの重たい頭の中に響いた。気だるい体を引き上げてプールサイドに上がると、タオルを持ったジャージ姿のポニーテールの女子がこちらに近づいてくるのが見えた。
「おめでとう、海斗」
女子は俺の前を通り過ぎて、隣のレーンにいた男、俺の親友の瀬川にタオルを差し出した。
「はい、おつかれ。日向」
続いて、俺にもタオルを押し付ける。
「ありがとう。三國」
顔と上半身を拭い、プールサイドに脱ぎ捨てていたジャージを羽織っていると、ポンと肩を叩かれた。
「よお! 今日も俺の圧勝だったな」
瀬川海斗だった。今日もツンツンとした短い髪が帽子からチクチクとはみ出している。触ったら痛そうだ。
「圧勝は嘘だろ。タッチの差だったろうが」
「ま、そうとも言う。やっぱりターンはお前の方が上手いや。後半はヒヤヒヤした」
海斗はケラケラと笑う。
「県大会の選抜メンバーの座を守り通したことだし、今日は打ち上げにでも行こうぜ」
うん、と頷く。海斗はあっけらかんとした水泳馬鹿で、気の良い奴だ。入部当時から三年になるまで、俺の親友兼ライバルとして切磋琢磨してきた仲だ。
水泳はスポーツだから、順位や選抜という概念もある。なかなか結果が出ないからと退部する人間や、優れた奴に嫉妬する部員もいないことはない。
ただ、海斗の周りはそんな負の感情とは無縁のようだった。順位は順位だといって一位であることを誇ることはあれど、他を馬鹿にしようとはしない。なんなら、褒める時の方が多い。
邪気のない男、それが海斗だった。
俺も、そんな海斗と一緒だからここまでやって来れた。だから、最近は海斗に一勝もできなくとも、あいつを恨みはしないのだ。
「なんだ、三國もいたのか」
「いたのかって何よ、マネージャーだからいいでしょ」
打ち上げは海斗と二人かと思っていたら、三國まどかまで一緒にいた。ハンバーガー屋で大量のポテトとナゲットを並べてシェイクをすするだけの質素なものだが、俺らにとっては贅沢なのだ。
「それはそうだけど、お前ら付き合ってるのに一緒にいる俺が気まずいんだって」
「気にすんなよ、一年から仲良くやってきたのに今更気まずいとかないだろ!」
三國と海斗は、最近付き合い始めた。海斗の口からそれを聞いた俺は、意外とは思えど微笑ましく見守っていた。確かに、一年の頃は三人でずっとこの距離感でいられると思っていたが、まあ中学三年生だもんな。こういうこともあるだろう。
「日向も彼女作れば? バレンタインもすごかったんだろお前」
「俺はチョコじゃなくてこれで十分だからな」
ブレザーのポケットからラムネ菓子を取り出してカリッとかじる。やっぱ、運動後はブドウ糖だ。
「嘘、彼女作る気満々でしょ。茶髪にして先生に目付けられてるのにプールの塩素のせいですって誤魔化してさ。お洒落しちゃってー」
「いいだろ茶髪くらい。一度してみたかったんだ」
彼女が欲しくないわけではない。でも、今は県大会や受験が控えているのに彼女にうつつを抜かす場合じゃないと思ってるだけだ。
海斗は、まどかを彼女にしてからも成績優秀かつ水泳も順調だが。
俺はそんな器用じゃない。
「髪染めるなら卒業後にすればいいじゃん。私はそうするつもり」
「まどかは茶髪似合いそうだな」
「まどかは、って、俺は似合ってないって言いたいのか?」
「…………」
「黙るなよ!」
世間話をして、愚痴を言って、それだけで楽しい時間は過ぎる。海斗も三國も、俺がいる前で見苦しいことはしないから、居心地は悪くなかった。
「俺、そろそろ帰るな!」
「おー、頑張れよ」
でも、俺がいなくなると、あいつらの距離が近くなることは知っている。
決して自分が邪魔者だと思っているから早帰りするのではない。最近は共働きの両親の分まで夕食を作ったり走り込みをしたり、色々やることがあるのだ。自分で作れば栄養管理ができるし、スタミナもつけたいからこの時間の使い方は気に入っている。
……でも、何をやったって、海斗との差を埋められる気はしなかった。練習をこなしてストイックな生活をしているつもりなのに、彼女と楽しく過ごすあいつには届かない。メンタルも安定していて波がないあいつは、ぶれずに回転し続けるコマのようだ。
「いっそ、あいつから彼女を取ってしまえば」
そんな黒い考えを、俺は首を振って打ち消す。
ピコン。スマホにメッセージが届いた音がして、俺は単語帳を閉じてスマホをポケットから取り出した。
「最近、海斗が他の女子マネと話してる時間が多いんだけど! 日向どう思う!?」
三國からの愚痴メッセージだった。電車は勉強に使える貴重な隙間時間だからこんなメッセージに付き合うか、と思ったが気を取り直して既読をつけた。
「知らねー。じゃあ三國もほかの男子と話しとけばいいんじゃない」
魔が差した。俺は別に二人が破局してほしいと思っていたわけではなかった。ただ、全てが上手くいってるように見える二人にもやもやしていただけで。
「それ、いいかも! 日向も協力してね」
「はいはい。愚痴ならいつでも聞きますよ」
俺は自分の行動にルールを設けた。ひとつ、三國のお願いや愚痴はできるかぎり聞いてやる。ふたつ、別れることを後押しする直接的な行動はしない。
こういう行動を取ると相談相手に惚れてカップルが破局することがある、という話は知っていた。簡単なテストのつもりだった。俺がこんなことで憂さ晴らししても、二人はどうせ大丈夫だろうと思っていた。思っていた、はずだった。
「結果的にさ、三國は俺に告白してきた。俺は振った。でも二人は別れたよ」
「……二人がは、日向くんがどういう気持ちだったのか知ってたの?」
「知っている」
それでも彼らは「日向は悪くない」と言った。
「結局、清廉潔白だったのは海斗だけだった。まっすぐ輝いていられたのは瀬川海斗だけだったんだよ」
日向くんは自己嫌悪で苦しんでいる。第三者の僕の目から見ても、日向くんが悪いとは言えないと思う。でも、こう言ったところで特に彼が救われることはないだろう。
「県大会の敗退が決まった頃だった。俺は部活をやめたよ。水泳も、運動もやめた。人間にも自分にも失望して、もう続けられなかった」
その結末はどこかで聞いたことがあった気がした。手を止め、記憶を振り返る。
「……最初の部活で話した怪談話。それについて君が言った考察と同じだ」
「よく覚えてるな。そうだよ。現実の高校生に名探偵なんかいるもんか。それらしい推理なんてできないから、経験を言うしかないんだよ」
僕らは、お互い顔をあげないまま言葉を交わす。
「でも、日向くんは色んなことを覚えていて合宿で謎を解決したじゃないか」
「あれも、自分を偽るという共通点があったからだ。そうする人の気持ちは分からないよ」
「……僕は、そもそも人の気持ちを分かろうとしたことがなかった」
日向くんは、うん、と先を促してくれる。
「どこまで踏み込んでいいのか分からないって言い訳をして、途中で諦めてきた。自分が頑張る必要はないと思っていた。何だってそうだった。僕は、日向くんが最後まで努力し続けたことに憧れる」
「俺は、佐倉の未知の可能性が羨ましいよ。思うままにやればいい。人間は嫌なら嫌って言う生き物だ。どうせ考えても、相手の思うようにも自分のやりたいようにもいかないんだからさ」
バラバラだったピースは、いつの間にか収まるところに収まっていた。セロテープで貼り付けてできあがった二枚の紙は、僕に渡された。
日向くんの瞳と僕の瞳が合う。
「小説を読んだら、綺麗な世界が見れるかと思ってた。自分が知らない世界を見て、変われるんじゃないかと思ってた」
日向くんの髪は、地毛にしては不自然なほど黒いことに、僕はやっと気づいた。丸眼鏡の奥の瞳は、拡大も縮小もされず、等身大の大きさで僕を見据えている。
「なあ、佐倉。小説を書くのってどんな気分なんだ?」
「……難しいね。強いて言うなら、自分にしかできないことを成し遂げている気分かな」
「このまま部活をやっていれば、俺にもいつか小説を書ける日は来るとは思う。でもそれは、すごくうまくできるってことじゃない。自分なりに全力出してそこそこ良い成果も出せるけど、それだけ。どんなに頑張ってもそうなるって分かりきっている。今までもずっとそうだった。今まで色々やってきて、それに気づいてしまった」
十代というものは、可能性に満ち溢れているとそう思っていた。なのに、彼の言葉に何も反論することができない。頑張ったことがない僕の言葉は、彼には響かない。
「小説を書くのは楽しそうだよ。でも、また限界を感じるんだと思うとやっぱり怖い。だから俺は文芸部をやめるよ」
その口元は微かに笑っていた。無理に貼り付けた笑いでも、同世代と馬鹿笑いする無邪気な顔でもなかった。
諦念と安堵、そして親しみがこもった微笑みは、日向くんが初めて僕に向けるものだった。
リレー小説三番目 三浦律
思えば、文化祭準備は楽しかった。文化祭のテーマ決めは、なかなか進まなかった。皆、やりたいことが違ったからだ。俺は射的がやりたかった。割り箸と輪ゴムで作っただけの、おもちゃの銃。それが意外と強力で楽しいのだ。黒板が皆の案で真っ白になった末、全部の意見を寄せ集めた縁日をやることになった。他の人が考えた遊びも、やってみれば想像以上に面白かった。
「こんなにダンボールを持ってきてくれたの? ありがとう!」
委員長の鈴木さんがきらきらとした笑顔をくれた。文化祭におけるダンボールは貨幣のようなものだ。カッターを使う時の下敷きや、装飾のパーツなど使い道がたくさんある。
「あ、佐藤くん。先生からの差し入れをあげる。佐藤くんが戻るまで、取られないようにキープしておいたよ」
鈴木さんが缶ジュースを渡してくれた。オレンジ味の炭酸飲料。俺がいつも飲んでるやつだ。覚えてくれていたのが嬉しい。鈴木さんの手の熱でぬるい缶に、優しさを感じた。
準備も大詰めだ。少し外にいただけなのに、教室の中は縁日会場に染まっていた。紅白の垂れ幕と夜空を模した紺色の画用紙で、壁は埋まっている。教室は四つの区画に区切られて、それぞれの模擬店が準備されていた。射的、綿あめ、ヨーヨー釣り、そして受付。夏っぽい音楽も流れている。夏祭りをテーマにした有名なやつだ。
「遅かったな、佐藤。俺はもうジュース三本は飲んだぜ」
射的ブースで輪ゴム鉄砲を作っていた田中が手をあげた。一人だけ頭にはねじり鉢巻をし、もうクラスTシャツを着ている。射的ブースの他の人たちは、的を置くダンボールの台座の組み立てをしていた。手伝う余地はなさそうだ。俺も田中の横に座って、鉄砲作りを始めた。割った割り箸を輪ゴムでくくるだけの作業だ。割り箸は百均で買った安物で、ざらざらとしている。ささくれた部分が刺さりそうで嫌だと思った。
「文化祭が終われば、もう進路のこと考えなきゃいけないな。佐藤はどうするつもりなんだ?」
「何も考えてない。得意な科目もないし、やりたいこともない。こうして目の前のことをやってるのが一番楽しい」
「俺は、ここから遠い大学に行きたいな。北海道か沖縄」
「両極端だな」
田中は両親との折り合いが悪いと聞いている。きっと、ここから出たいんだ。
「卒業したら今よりももっと広い世界があるんだろうな。でも、それは今の世界を捨てる理由になるのかな」
「哲学的なこと言うなよ」
こっちは茶化すことしか出来ないんだから。俺が言えるのはこれだけ。
「ずっと文化祭が終わらなければいいのにな」
5
家に帰り、復元した小説を読んだ。あからさまなメッセージや縦読みは含まれていなかった。物語が大きく動くような内容ではなく、丁寧に過去を振り返って心情や登場人物を埋めていくようなパートだった。
着信音。
スマホを取る。電話をかけてくる相手なんて母親くらいしかいないが、母親は今風呂に入っているはずだ。
着信画面には、三浦先輩の名前が表示されていた。一瞬怯んだが、受話器を取るボタンを押した。
「やあ、佐倉くん。夜分にごめんよ。文芸部の二年がメッセージを返してくれなくてやむを得ず電話させてもらった」
朗らかな三浦先輩の声。用件を予想し、唾を飲む。
「俺の小説、どうなった? 誰からも受け取ったという返事が来なくてね。日向くんは続きを書けそうかい?」
三浦先輩は、まだ何も知らない。誰もあの事件を知らせていなかった……。
「? どうした? 電波が悪い?」
「あ、いえ。えっと……」
逡巡の末、僕は起きたことを話した。怒るか悲しむか分からないが、隠し続けるほうが不誠実だと思った。
三浦先輩の反応は、大人びたものだった。
「そうか。なんでそんなことを……」
声のトーンは変わらなかったが、絶句したように数秒空白が続いた。
「誰がやったのか、分かるかい?」
「いえ。文芸部のメンバー全員、困惑していました。三浦先輩は、今日何時頃小説を部室に置いたんですか?」
「昼休みだったかな。置いた時には、もちろん誰も部室にはいなかった」
三浦先輩も、犯人探しをすることを望むだろうか。僕は、物見先輩の意志を説明する。
「誰がやったか、俺はあまり気にしない。どうせここを去る身分だしね。薄々、もう潮時だと思ってたんだ。でも物見さんがやりたいなら止めないよ。俺から話せることはないけどね」
「そうですか……」
そりゃそうだ、と思う。自分の思いや気持ちを込めて書いた文章を破かれたらしんどいに違いない。それが人の気持ちだ。
「先輩の小説、バラバラになったのを直して読みました」
これが慰めになるかは分からないが、口にする。
「どうだった?」
「ラストに向けて過去を振り返って、世界や人の美しさを印象づけるような重要なパートだと思いました。次で終わってしまうのが勿体ないと思うほどに」
ふふ、と小さく笑う声が聞こえた。
「中でも、主人公の『こうして目の前のことをやってるのが一番楽しい』というセリフが良かったです。どんな気持ちで、先輩はあの小説を書いたんですか? 先輩も、いつか文芸部を辞める日が来ることに感傷的になってるんですか?」
「気持ち、か。俺は逆に、早くこの物語が終わればいいのにと思っていたよ。平凡であるばっかりに行き止まりで苦しんでいる彼が見ていられなくてさ」
意外な言葉に僕は息を飲む。
「佐倉くんは純粋だね。その擦れていない感性は、個性と言っていいくらいだと思う。挫折を味わったことがないから屈折していない。成功を味わったことがないから自信を持てない。そのアンバランスさは君にしかないものだ」
え、と声が漏れた。
「でもね、何事も終わりは来るよ」
そう言って、電話は切れた。
ここまでのことを整理しよう。時計は零時を回ったが、僕はペンを走らせる。
まず、犯行を行えたものは誰か。これは文芸部員なら誰でもありえ、文芸部員以外はありえない。合鍵を簡単に使えるのは僕らしかいない。
犯行を行うのに、必要な仕掛けのようなものはあるか。何もない。ただ破いてばら撒くだけなんだから。
気になるのは、なぜ破いたか。やはりそこに尽きる。破るという行為に伴う人の心情はどのようなものだったのか。
メッセージ性が伴うと言った物見先輩の意見は的を射ていると思う。恨み、復讐、その他の大きな感情。
しかし、恨みや復讐に突き動かされたようにはどうしても僕には思えないのだ。この破片はひとつひとつの大きさが綺麗に揃っている。まるでジグソーパズルのように。感情に任せてひきちぎったようには見えない。
それでも、破るという行為に場当たり的なものがあるのは否定できない。もし誰かが部室に入ってきたら? 破っているところを見られたら? 盗んでしまったり、マジックなんかで塗りつぶしたり、くしゃくしゃにしたりする方がリスクは少ないじゃないか。
じゃあ、始めから破ったものを持ってきたのだとしたら? 三浦先輩が、自分の小説を破いて部室にばらまいた。いや、何のためか分からない。逆に言えば、自分自身の小説を破る理由さえ分かれば、この説は悪くない。
……いや、僕はとんでもない思い違いをしているのではないか?
「急に呼び出してすみません」
物見先輩は、コーヒーの入ったグラスをからんと揺らして首を横に振った。
「ううん。まさか佐倉くんからデートのお誘いが来るなんて嬉しいよ」
相変わらずひょうひょうとした様子で冗談を言う。僕は苦笑いを返した。
「そんな顔しないでよ。じゃあ聞かせて。君が考えた真実ってやつをさ」
僕が自分が思い至った可能性を説明すると、物見先輩は嬉しくてたまらないというように何度も頷いた。
「うん。よくここまで辿り着いたね」
今日はおめでたい日だから解禁だ、と言って、物見先輩はミルクをグラスに注いだ。澄んだアイスコーヒーがマーブル模様になる。くるくるとストローでかき混ぜれば、ふわりと香ばしい匂いが届いた。
「その言い方は、まるで先輩は最初から全部知ってたみたいじゃないですか」
「事実として知ってた部分が君より多かっただけだよ」
意地が悪い、と言おうとしたが、物見先輩の赤いメガネの奥の瞳は凪いでいることに気がついた。妙ちきりんな言動をしても、この人はどこまでも冷静で周りを見ている。
「意地悪って言おうとしたね?」
「……はい」
隠しても仕方ないから肯定すると、物見先輩は目を細めた。
「現実のすれ違いを事件なんて言うのは、不謹慎なんだろうね。でも、これでも我慢してるんだよ」
物見先輩は子供のように胸を張ってみせた。
「現実ってつまらないと思わない? 物語の世界では様々な事件が起きて、謎が深まって、収束されていくのに、現実は分かりきったことか分からないことばっかり。飽き飽きする」
先輩の真顔を見たのは、初めてかもしれない。いつもふざけたように笑っている彼女の、これが本音なのだろうか。
「けど、私にも理性と倫理観があるんだ。自分で事件を起こすなんてできない。だからさ、起こったことは最大限有効活用したいと思うんだ。この気持ち、分からないかなあ?」
疑問形だったが、先輩の中で答えは決まっているようだった。自分は理解されないという諦め。自分が迷惑をかけていることの自覚。理性も感性も真っ当なのに好奇心だけがバグっている。
「もしかして、最初の部活でやった作者の気持ちを考える遊びも、その一環だったんですか?」
微笑は肯定の証だった。
「ちょっと制限をかけてやれば、推理ゲームとして使えそうな小説が見つかったから。遊びとして楽しいし、新入部員がどう考えるのかテストしたかったし。君も楽しそうな顔してたよ。現実で推理する機会なんてなかなかないんだから、当然だよねえ」
知らない他人の創作物や、仲間の不幸を事件として楽しんだ趣味の悪い人。そう思うのは簡単だ。物見先輩を庇うのもおかしい話なんだから。簡単なはずなのに。
「先輩の気持ちは分からない、です。けれど僕は、真実が明かされずにずっと抱え込ませるほうが残酷だと思います。だから、物見先輩は優しいですよ」
きょとんとした顔。笑みが出かけて消えて、困ったように眉を下げる。
「そんなんじゃないよ。面白いことを言うな、佐倉くんは」
茶色に濁ったグラスで隠された表情は、見えない。物見先輩の言動が良いものだったとは決して思わない。他人に圧をかけ、扇動することが正しいわけがない。けれど、ピエロじみた彼女の冷静な眼差しを思うと責め立てることはできないのだ。進んで汚れ役を引き受け、苦しみが長引かないことを選んだあの行動は、優しいと言ってもよかったんじゃないだろうか。
物見先輩からお墨付きをもらった僕は、あの人にこんなメッセージを送った。
「明日、部室で待ってます」
きっとこの言葉だけで伝わるはずだ。怒られるかもしれない。邪魔だと言われるかもしれない。それでも、僕が介入することで何かが変わるかもしれないと信じて、僕は目を閉じた。
「小説を破った犯人が分かったんだって?」
その人は、何も知らないとアピールするように首を傾げた。
「正確に言うと、それはまだなんです」
「……じゃあなんで」
「それよりも、貴方に聞きたいことがあります」
相手は、ゴクリと唾を飲む。腕を組む行動は、隠し事がある証というのは、本当なのかもしれない。
「先日破られた小説、あれを書いたのは貴方ですね。田嶋先輩」
田嶋先輩は、はあ、とため息をついた。無表情の仮面が剥がれ、いつか見た田嶋由香が顔を出す。
「なんで気づいちゃったの」
どこか清々とした様子で、彼女は問うた。
「田嶋先輩は、気づかせようとしていたじゃないですか」
「そっか。一応、答え合わせをしとく?」
立ち話もなんだし、座りましょう。そう言って僕らは机を挟んで向かい合って座った。
「そもそも違和感を持ったのは、田嶋先輩があの惨状を見た時に発したセリフでした。貴方は『これ、三浦先輩の小説だよね』と言いましたよね。バラバラになった紙の破片しか見ていないのに。問いかけるわけではなく、分かっているように」
先輩は顔色ひとつ変えなかった。
「だって、三浦先輩が部室に小説を置いておくと言っていたから。確かに破片に何を書いてあるのか読んだわけではないけど、てっきりそうかと思ったの」
逃げられるのは予想していた。次。
「内容も、三浦先輩が書いたにしてはおかしいと思いました。それは、この三番目の物語は過去の回想になっていたからです」
「どうして?」
「三浦先輩は、回想シーンは好きじゃないと言っていました。三浦先輩は好きじゃないものを書くような人じゃないはずです。合宿のテーマ小説でも、テーマにそぐわない洋館を出すほどですから」
〝回想シーンを入れて後から人物の設定を補強するのは俺は好きじゃないな〟
〝どうしても洋館の方が雰囲気でるなって〟
先輩は唇を噛む。
「佐倉くんは、自信を持って三浦先輩のことを知っていると言えるの?」
もちろん、そんな大きなことは言えない。でも、あと一押しだ。
「僕は田嶋先輩にこう言いました。先輩なら人物の描写を補強してくれる、と。第三話は、そうなっています。委員長の名前や、欠席した親友について語ってくれています。ここまで言っても及第点にはなりませんか」
ま、いいか。そう言って先輩はチャーミングな笑みを浮かべた。出来の悪い後輩の頑張りを認める顔だった。
「というわけで、あの小説は三浦先輩が書いたものではなく田嶋先輩が書いたものなんです」
「じゃあ、三浦先輩が書いた小説はどこにあるの?」
「それこそが貴方の動機です。三浦先輩の書いた小説、そんなものはなかった。貴方は、三浦先輩のゴーストライターをしていたんです」
証拠が弱いよ、佐倉くん。そう田嶋先輩は言ってのける。
「三浦先輩の書いたものを読んだ私が不満を持って、それを盗んで自分の作品を置いたのだとしたら? その可能性は、まだあるよね」
「いいえ。三浦先輩の言葉からそれは否定できます。僕は、先輩に今回の小説の感想を話しました。展開も、台詞も含めて話しました。それでも先輩は、自分の書いた物語と違う内容だとは言いませんでした」
同じ題材で小説を書かせてもその内容は十人十色になる。それは、テーマ小説で散々分かっていること。展開も台詞も同じになんてなるわけがない。
田嶋先輩は、ついに口をつぐんだ。静かになった部室に、他の部活の騒がしい音や声が染み込む。僕は、先輩の表情の意味を読み取ろうと、顔から目を離さなかった。安堵、後悔、苦渋。その眉の傾きや、潤んだ瞳からひとつの感情を抜きだすことはとても難しい。
「田嶋、もういい。庇わなくていいよ」
静かな空間を切り裂くように、扉が開いた。そこにいたのは、三浦先輩だった。
「君が言ったことは全て正解。書けなくなったんだ。小説」
スランプ、と一言で表せば簡単なんだけどね。そう前置きをして、先輩は語り始めた。
「最初に書けないと気づいたのは、合宿の時だった。今までは駄作であっても何かは生み出せたのに、一文字も出てこなかった。その時は、受験勉強で勘が鈍ったのかと軽く捉えていたけれど、書けないと言うのは嫌だったから、今までに見せていない小説のストックから、お題に合いそうなものを出した」
確かに、三浦先輩の小説はお題と少しズレていた。その時は、そういうものに縛られない人なのだと思っていたが、その時から彼の苦しみは始まっていたのか。
「リレー小説の番が回ってきた。前の人が書いたものに文を継ぎ足すだけでいいはずなのに、やっぱり書けなかった。物見さんに急かされて、はぐらかすことしかできなかった。その日、たまたま田嶋と帰った時に、ゴーストを持ちかけた。前から何か書いてみたいと言っていたから、彼女ならできるかもしれないと思ったんだ」
「違う、持ちかけたのは私からで」
「田嶋、いいから」
三浦先輩はゆっくりと首を横に振った。
「書けなくなった、と正直に言うのでは駄目だったんですか」
「小説って、書き続けなければいけないものなの?」
僕の問いを田嶋先輩の声がかき消した。根本的で真摯な質問に、三浦先輩は唇の端をゆがめた。
「書けなくちゃまずいじゃないか。それが俺のアイデンティティなんだから」
思えば、ずっと三浦先輩は小説を書くことに執着していた。平凡な人間を毛嫌いしていた。
〝俺は意地でも書くとも〟
〝変わってはないよ。ただやりにくいだけで〟
〝結局小説を書けなきゃ意味がないからね〟
〝たかが学生を特別扱いして話を聞くなんて、面白くないじゃない〟
〝平凡であるばっかりに行き止まりで苦しんでいる彼が見ていられなくてさ〟
「小説を書くことは、自分が唯一無二であることを示す行為なんだ。書けなくちゃ駄目なんだよ。書かなかったら、俺はどこにでもいる普通の人間になってしまう。スポーツのように誰かと競うもので一位になっても、上には上がいる。それじゃ駄目だ。唯一無二の創造性しか俺を救わない。絵は描けなかった。音楽は作れなかった。俺には、小説しか書けなかった!」
荒い息をし、三浦先輩は呼吸を整えようと努力していた。田嶋先輩はうつむき、何も見ようとしていなかった。
「三浦先輩は、自分が自分であることを証明し続けるために小説を書いていたんですか」
どっかりと椅子に腰を下ろした彼は、いつもの頼れる上級生の形をしていなかった。髪はボサボサで、疲れきったように背中は丸まっている。よく見ると、目の下にはクマが刻まれていた。
三浦先輩も苦しんでいた。決して、ゴーストライティングを嬉々として行い騙される僕らを想像していたわけではない。
「始めは、嫌だった記憶を昇華したかっただけなのにね。小説を書くことでしか自分を肯定できなくなったら、終わりだよ」
大人や、事情を知らない人からすれば、単なる十代の挫折と片付けられるかもしれない。大会で敗れて限界を感じたり、試験には努力だけでなく運が必要なのだと知ったり。そんな些細な出来事と同列なのだろう。
では、そんな挫折をまだ味わったことがなく、いつか控えている僕には何が言える?
そんな挫折を味わった時、僕ならどうなる?
分からない。
僕は目の前の問いの答えを探すことしかできない。
「書いたのは田嶋先輩だと分かりました。では、破ったのはどちらなんですか? 田嶋先輩が書いたものを三浦先輩に手渡し、三浦先輩が部室に置いたのか。それとも、田嶋先輩が部室に置いてから三浦先輩に知らせ、グループチャットへの連絡をさせたのか。どちらか分からなくて」
三浦先輩は背筋を伸ばした。ずっと僕が見ていた、クセのある部員をまとめていたしっかり者の先輩が、一瞬だけ蘇った。
「小説が好きなのに、人の小説を破くわけがないだろう」
諭すように、教えるように、先輩は優しい口調で言う。
「田嶋は、俺を止めようとしたんだろ。だから、自分の小説を破いたんだ。もうこんなことはするなって」
田嶋先輩は、声を出さずに首肯した。
「もう潮時だ。引退するよ。」
そう言って、三浦先輩は部室を出ていった。
こうして、事件は解決した。
部員は四人になった。
リレー小説三番目 三浦律田嶋由香
6
期末試験が始まり、部活の集まりは自然消滅した。元から試験期間の活動はなかったが、試験が終わってから活動が再開すると、無邪気に信じることはできなかった。
何もしないでいると雑念が生まれそうで、受験と同じくらい集中して勉強をした気がする。……たくさん勉強したというより、受験期にそんなに勉強しなかったというだけだ。
中間試験の時は、どの科目も赤点は取らずともよく分からないまま放置した部分があった。今回はそれを一から埋めていったから、時間はかかれど、それなりの成果が出たと思う。
最終日。教室を出る足取りは軽かったが、勉強というやるべきことが消えた今、空いた時間で何をするべきかよく分からなかった。
「佐倉くん」
下駄箱で靴を履き替えていると、聞き覚えのある声が僕を呼んだ。
「三浦先輩……」
先輩は、へらっと笑って手招きした。僕は警戒しながらも近づく。シャツのボタンを上まで閉め、ネクタイも緩みない姿は、相変わらず憧れの生徒会長のようなビジュアルだ。それでいて、汗ひとつかいていない。
「奇遇だね。一緒に帰ろうか」
いつもの、いや、今までの三浦先輩と変わらない態度だった。鬱屈も屈託も感じない。この間の出来事も、なかったよう。
田嶋先輩や日向くんと歩いた道を、三浦先輩とも歩くことになるとは。
「あれから部活はどう?」
「試験期間なのもあって、ずっと休みです。試験最終日の今日も、特に集合のお知らせはなかったですね」
「今まで俺がやってたからね。それもそうか」
先輩の声に、湿っぽい響きはなかった。
「受験勉強の調子はどうですか」
「ばっちぐーよ。悩みもなくなったからね」
制服をきっちり着ている先輩がこう言うと、どこにでもいる優等生みたいだ。
どこにでもいるのが嫌だったから、先輩は小説を書いていたのに。
「佐倉くんは優しいな。俺のこと心配してるんだ」
「いや、そんなことは……」
「じゃあ心配してないのか。残念だ」
「いや、そんなことは……」
くっくっく、と三浦先輩は笑う。
「佐倉くんは、引っ込み思案な普通の陰キャだよな」
間違っていないのだが、面と向かってそういうことを言われるのは久しぶりだ。いや、引っ込み思案や陰キャという言葉より、普通という言葉の方が先輩にとって重みのある言葉なんだろう。
「僕は凡人ですよ。優れた部分はないですし、三浦先輩が毛嫌いする側の人間でしょう」
「最初はそう思ってたんだけどさ、合宿で少し見直したんだ。一晩で自分なりの話を仕上げてきた。俺がスランプで何も書けなかった時に、君はきちんと書き上げたから、すごいなと思ったよ。それに、田嶋に真実を突きつけたのもよかったね。まるで名探偵じゃないか」
声に皮肉が混ざっているように聞こえ、顔を見る。心からの言葉なのか馬鹿にされているのか分からない。
「名探偵じゃないですよ。はじめから名探偵なんて、いなかったんです」
自分の経験を元に考えを述べた彼。
小説を書くという行為と善性を元に考えた僕。
無から有を生み出す推理は、誰もしなかった。
「きっと、物見さんにそそのかされたんだろ。あいつは変人に見えて、打算的な凡人だ。君からの言葉じゃないと俺らが変わらないと思って、こうさせたんだろうな。なんだかんだ思いやりのあるムードメーカーなんだ」
また、凡人と言った。小説を書いていれば唯一無二でいられると言っていたのに。物見先輩は小説を書いているのに。
「田嶋には可哀想なことをしたな。自我がないお人好しだから俺に振り回された。あいつがゴーストライターを引き受けた理由が分かるか?」
陸上部では真面目に結果を出し、文芸部では物静かに引け目を感じていた彼女。浅い発言をして笑顔で誤魔化すなんて恥ずかしい、と言って黙ることを選んだ彼女。
「居場所がほしかったからだって。元から、ここはあいつの居場所だったのに」
僕は、田嶋先輩の孤独を知っていた。それを聞いたのに、何もしなかった。明かしてくれて嬉しいと思っただけで、先輩の価値を示すことが出来なかった。
「…………」
「悪いのは俺だ。君がそんな顔をするのは筋違いだよ」
ありがとう、と言うのは違う気がした。傷つけたのも傷ついたのも三浦先輩なのだから。
「じゃあ、日向くんのことはどう思ってたんですか」
三浦先輩からのコメントがないのは、日向くんだけだった。
「思春期だな。挫折を引きずって殻にこもっている。後は殻を割るきっかけがあれば元通りだ」
「日向くんの挫折を知っているんですか」
「中学や高校なんて、学区が同じなら狭い世界なんだよ」
何ということもないように、先輩は言った。
「俺は、全部だ。小説を書いていても書いていなくても、一番普通なのが自分だ。色々言ったけど、書いても書かなくても変わらないことなんて、自分が一番分かっている。こんな自分に折り合いをつけて生きなきゃいけないんだよな」
三浦先輩は自分に言い聞かせているようだった。
「凡人は嫌いだ。でも、部活は楽しかった。好きなものを作って語るだけで、楽しかった」
ちらりと、視線が横を向く。そこにはフードコートがある商業施設がある。
「佐倉くん。俺はこっちに用があるんだ。来るか?」
買い物か。フードコートでゆっくり話そうという意味か。賑やかな声が聞こえる。制服を来た集団が吸い込まれる。
でも、これ以上何を話す?
僕は首を横に振った。
「そうか」
三浦先輩は、寂しそうに微笑んだ。
「佐倉くん、君はまだ文芸部を続けたいか?」
「……はい」
「あの生活を取り戻したいなら、書けばいい。本を読んで書けば、君たちは繋がれるんだから」
書くって、何を。
「いま一番小説を欲しているのは誰だか分かるか?」
分からない。好きということは、欲しているという意味じゃないのか。そこに一番や二番はあるのか。
「日向だ。あいつに小説を書かせろ」
三浦先輩は言っていた。小説を書くことで、嫌だった記憶を昇華したかった、と。
僕も日向くんにこう言った。小説は嫌な気持ちから生まれるものだと。
「リレー小説を、完成させてやれ。……初めて小説を書いた、田嶋のためにも」
人に電話をかける時はいつも緊張する。固定電話ではなく相手が出ることが確定している携帯電話であっても、それは同じだ。相手が出なかった時は、たまたま忙しかったのか無視されていたのか考え込んでしまう。相手が出ても、第一声で何を言うか分からなくなってしまう。
「佐倉。なに?」
だから、初めて日向くんに電話を掛けた今も、僕はガチガチになっていた。
「えっと、その、今日空いてる?」
「まあ、休みの日だし、特に用事はないけど」
「よければ、昼ごはんでも一緒にどうでしょう」
「え……」
なんで? が透けている「え……」だった。
「まあ、佐倉がわざわざ呼ぶってことは何かしらあるのか。いいよ。行くよ」
日向くんの優しさに救われた。こうして僕らは高校の最寄り駅の近くにあるファミレスに集った。
注文を終え、日向くんはメロンソーダを意味もなくストローでぐるぐるやりながら、「何?」と開口一番に問うた。夏らしくも爽やかに、白いTシャツの上に水色の半袖シャツを羽織っている。
「あ、前置きの世間話とかいらない感じ?」
「そういうの苦手なんじゃないのか?」
「うん」
ありがたく、僕は本題に入ることにする。何も言われなかったら、天気がいいね、と言おうと思っていた。
「日向くんの話をもっと聞きたいと思ったんだ。君は、インタビューの日に会った彼らに『悪くない』と言われたことで、文芸部の退部を決めるに至った。あの言葉は、僕からは許しの言葉に聞こえた。でも君は苦しんでる。それがどうしてなのか、聞きたかったんだ」
はあ、とため息が聞こえた。
「野次馬根性、ではないんだろうな。佐倉は」
気分を害したわけではなさそうで安心する。仕方ないな、と肩をすくめる。その顔にはいつものメガネがなかった。
「僕は卑怯だからさ、責めてほしかったんだ。罵られたり引っぱたかれたりすれば、罰を受けた気になれるだろ。それなのに、悪くないと言われて困った。僕の罪を裁いてくれる人はいなかった。永遠に僕の罪は消えないことに気づいた。それだけだよ」
加害者は謝罪して許しを待てばいい。被害者は傷ついた末に許すかどうかを判断する義務を背負わされる。その非対称性はどこかで読んだことがある。日向くんは加害者と言うには不十分で、被害者と言うには利己的だった。宙ぶらりんの狭間で、彼は永遠にふらふらと揺れている。
「俺が悪かったんだ。俺だけいなくなって、皆が今まで通りにいられるなら、それでよかった。でも二人が別れてしまった」
確かに、彼の行動はその結末を招いた。
「でも、君が何もしなくても、事は起きたんじゃないの」
「どういう意味だ」
日向くんの瞳がキュッと細くなる。意外とまつ毛が長く、メガネが無くなると瞳の存在が途端に感じられた。
「本当に好きあっている二人なら、君の小さな行動に左右されなかったんじゃないか」
他の女子に嫉妬し、自分が嫌なことを相手にしてやろうと思ってやった行為。相手が嫌がっていることに気づけず、フォローもしなかった結末。
「どっちみち、上手くいかない二人だったんじゃないかなって」
日向くんはぽかんと口を開けた。
「佐倉。たまにどストレートだよな」
呆気に取られた顔を見ていると、自分が言ったことは本来なら口に出さない方がいいことだったのだろうと気づかされた。
「不快にさせたらごめん」
「そういうんじゃない」
日向くんは背もたれにもたれ、小さく息を吐いた。
「自分は悪くないって思う時もある。それでも、僕がきっかけになったのは事実だ。もしもの話を考えて、水泳なんてやらなければよかった、友達にならなければよかった、なんて考える」
やっぱり、彼は自分を許すことはない。僕が何を熱弁したって、それは変わらない。
「勉強も運動も人間関係も、頑張ってもうまくいかないんだってことは分かった。だから、もう頑張らないことにしようと思った。人と一緒にいるのも無駄だと思った。一人で本を読もうと思った」
だから、彼は文芸部に入部した。
「でも、今の君は僕と一緒にいる。先輩とも素を見せて話すようになったじゃないか」
「……そうだよ。俺は何もしようとしなかったのに。気づいたら隣に君がいて、今度はうまくいくと思った。でも、あいつらに会って、やっぱり自分は他人の気持ちを考えずに上辺だけを取り繕った生き方をし続けていることに気がついた。俺は変わらなかった。そして、また部活は崩壊した」
疫病神なのかもしれない、と彼は呟いた。こんな弱音を吐く日向くんは初めてだった。
覚悟を決め、僕はカバンから取り出したクリアファイルをテーブルに置いた。
「これは、三浦先輩……いや、田嶋先輩の小説か」
電話で一通りの説明はしていたから、日向くんの理解は早かった。
「なんで僕に渡すんだ。破った犯人は分かったから、休み明けに物見先輩に退部届けを出すつもりなんだけど」
日向くんは退部するつもりだ。僕は、それを引き止めたいと思っている。三浦先輩に言われたからではなく、僕の本心でだ。
今ここで彼が辞めたら、彼はずっと後悔に囚われて生きていく。そんな気がする。
「日向くん、辞める前に続きを書いてほしい」
日向くんは、ゆっくりと瞬きをした。
「嫌だよ。書き方なんて分からないし、書いても何も変わらない」
「書き方は簡単だ。あのとき、君はどうしてほしかったんだ。それを書けばいいだけだ」
息を飲む音。
「水泳部とリレー小説は関係ないだろ」
戸惑ったようにゆるゆると首を振り、彼はうつむいた。
「そうだけど、違う。どんな感情も後悔も小説に昇華できる。リレー小説でも同じだ。今までの話は知っているよね。文化祭で死人が出る度にループする主人公が足掻いてる物語だ。この物語の結末は、日向くんの考え次第で、どんな風にでも変えられる」
「物語を書いたところで、現実の自分は変わらない」
「これ以上過去に囚われて何の意味がある? ケジメをつける機会が必要なんだ。嫌なことを書き出して、出し尽くして、それを区切りにする。小説ならそれができる!」
日向くんは腰を浮かした。とうとう愛想をつかされたか、と僕は他人事のように思う。
日向くんは、ソファ席に深く座り直した。さっきまでうつむいた視線は、まっすぐ僕を見返していた。
「だから、一度だけ試してみてくれないか」
「どうして君だけは俺のほしい言葉を言ってくれるんだろうな」
どうせだめなのに、という諦めの響きはあった。それでも確かに、日向くんはこくりと頷いた。
リレー小説四番目 日向八雲
俺がこんなことを思ったからいけないんだ。終わらなければいいと思ったから、現実でこんなことが起きたのかもしれない。タイムリープなんて馬鹿げてるが、人が死ぬ方がどうかしてる。じゃあいっそ、俺が文化祭を楽しまないことを選べばいいんじゃないか。そう思ったので、次のループでは自宅に帰ることにした。両親は会社にいるから、誰にも何も言われず家に戻ることができた。自分の部屋に戻ってベッドに潜り込んだところで、眠気が襲ってきて意識が途絶えた。
目が覚めた。また、教室の中。ループは続いている。俺は関わらなかったのに。何をやってもこの一日は終わらないとでも言うつもりなのか。俺はどうしたらいいんだ。もしかして、俺が死ねば全部うまくいくのかもしれない。でも、俺がいてもいなくても変わらないなら無駄死にになる。それは嫌だ。俺しかこのループに気づいていないんだから、死んだら永遠にこのループが続くのかもしれない。何がきっかけかはこの際は関係ない。俺が止めるしかないんだ。田中や鈴木さんが死ぬのを防ぐことはできた。それなら、あの不審者も撃退できるんじゃないか。何か、何か使えそうなものはないか。この窮地を一発逆転ができそうな何か。俺は、教室にあった使えそうなものを、ズボンのポケットにしまう。
ついにその時が来た。田中を助けて鈴木委員長を無視し、昼になってナイフ男がやってきた。入口の女子を羽交い締めにしてにやりと笑う。俺は、ポケットの輪ゴム鉄砲を構え、あいつの目に打ち込んだ。そこからは早かった。たじろいだナイフ男はナイフを落とし、ただの男になった。クラスの男子が男を制圧し、女子は解放された。その後、先生や警察がやってきて、文化祭は終了時間前に中止になってしまった。あんなに終わらないでほしいと思っていた文化祭だったが、俺は満足だった。俺のせいで始まったかもしれない奇妙な一日を、自分の手で終わらせられたことが嬉しかった。
「あーあ、あいつのせいで台無しだよ」
「本当だよな。まじで迷惑だ」
俺ではない男に向けられた言葉に、心の中で謝罪する。
その日は久しぶりによく眠れた。
7
「君も真面目だねえ。亀裂が入ったものをわざわざ戻そうとするなんて」
物見先輩は、にやにやと僕と日向くんを交互に見る。ここは先輩の教室の端で、他の二年生の目もあるから、非常に居心地が悪い。
「僕がやらなかったら、なんだかんだ先輩がやったんじゃないですか?」
「さあね、私は楽しくいられたらそれでいいの。仲違いを元に戻すのは仕事じゃないって」
茶化しているが、それは照れ隠しなんだろうと今の僕は気づくことができる。物見先輩だったら、僕がやらなくともやった。けれど、それは僕がやらなくても良かったということにはならない。日向くんの過去を聞かせてもらった僕だからこそ、リレー小説の完結まで漕ぎ着けることができた。これは僕がやるべきことだった。
「でも、完成させてくれてありがとうね」
赤いメガネを輝かせて、先輩は笑う。
「これ、今年の文化祭の部誌に載せようか。夏休みのどこかで校正会をしよう」
「あの、物見先輩」
日向くんが口を開いた。
「なあに?」
「僕、退部するのをやめます。今後ともよろしくお願いします」
「うん。よろしく」
先輩は多くを聞くことなく、ただ頷いた。そのあっさりしたところが、彼女なりの気づかいなんだと思った。僕は僕で、思わず日向くんの顔を見てしまった。小説を完成させたとはいえ、あれから彼が退部するかどうかは一度も聞けないでいたのだ。
「なんだ、意外か」
「まあね」
「ここにいれば、人の気持ちを考えることの大切さと、考える方法を学べる気がしたから」
本を読むことは、登場人物になることだ。感情や知識を共有し、訪れる出来事に共に立ち向かう。物語の中の彼らの行動は物語の構成に従ったものだが、彼らにも感情はある。現実よりも豊かに喜怒哀楽を表現する姿がそこにはある。
「日向くん、感謝はストレートに言わないと伝わらないよ」
「うるさいです。黙ってください」
よく分からないけれど、この二人は相性が良さそうだ。
田嶋先輩は、相当驚いたようで、紙束を手に情緒不安定になっていた。
「え、完成させてくれたの? ありがとう!」
文芸部の田嶋先輩しか知らない日向くんは、声には出さなかったが目をぱちくりさせていた。
「あ、あ……廊下だと気が緩んで、ごめん」
いつものクールなスイッチが入るのは、部室やイベントごとの時だけらしい。明るくてころころ表情が変わるのが、本当の田嶋由香先輩だ。
「なんというか、私のせいで迷惑をかけてごめん。紙を破るような間接的なやり方じゃなくて、直接自分の口で三浦先輩に言えばいいだけの話だったのにね」
僕なら言えないと思う。田嶋先輩のことは責められない。僕らは首を横に振った。
「三浦先輩と、あのあともう一度話したんだ。絶交とかにはなってないから心配しないで」
二人は何を話したんだろう。気になるが、先輩の顔色は悪くないから僕が聞く必要はないだろう。
「もちろん、物見さんにもお礼を言ったよ。あの子は、ずっと私の相談相手になってくれたから」
なんだかんだ、あの二人は仲がいいのだろう。合宿の夜に一緒にいたのも、きっとそういうことなのだ。
「日向くんは、初めて小説を書いてみてどうだった?」
「今までの皆さんの文章の積み重ねで、結末はひとつしか見えませんでした。あとはそれに向かって書き進めるだけで、意外と簡単なんだと思いました」
「そういう、感想文みたいな感想じゃないのを聞きたいんだけど」
日向くんは少し考えて、こほん、と咳払いをする。
「小説の中の人の感情は、論理に沿っていて扱いやすくもにくくもあるんだと思いました。現実の人間は、一瞬の気の迷いでとんでもないことをしでかすけれど、小説では感情の飛躍は許されない。何故こう思ったのか、何がこうさせたのかを積み重ねて考える作業は楽しかったです。少しは、人の気持ちが分かったかもしれません」
「……あなたにとって良い変化があったなら、それは唯一いいことだと思う。たしかに、私が初めて書き上げた小説といってもいいんだよね。思ったよりも楽しいね」
田嶋先輩は微笑み、日向くんも唇の端を持ち上げる。
「先輩の文章は、やっぱり描写が丁寧で綺麗なんですね」
「気づいてくれて、ありがとう」
田嶋先輩は歯を見せてきらめく笑顔をくれた。
「読まないよ。これは俺の物語じゃないから」
「先輩はつれませんね」
僕が軽くにらむと、三浦先輩は嫌な笑いを浮かべた。暑さが盛りに近づいた今日も、きちんとネクタイをつけて優等生然としている。
「俺は、俺の物語が欲しいんだ。手に入らなくても、追い続けたいんだよ」
日向くんは横にはいない。僕は、何故か憎めないこの先輩をひとりで相手取らなくてはいけない。
「特別になりたいなら、恋愛でもすればいいんじゃないですか」
投げやりな気持ちで言うと、「違う違う!」と突然大声を出された。
「やめてくださいよ。図書室の前なんですから」
「だって、佐倉があまりに短絡的なことを言うから……」
三浦先輩は腕を組む。少し動揺しているか、ムキになっているように見えた。珍しい。
「どんな凡人でも自分が特別だと錯覚できる手段が恋愛だ。一番を競って競い疲れた奴が、簡単に手に入る特別に呑まれるのさ。分かる?」
分からなくもなかったのが、悔しい。
「佐倉は気をつけるといい」
先輩はへらへらと笑う。
小説を書くことで自分は唯一無二だと信じようとしていた先輩。小説を書けなくなった先輩。これから、どうするつもりなんだろう。
「田嶋先輩と、和解したと聞きました」
少しでも前向きな話題を振ろうとしての発言だったが、三浦先輩はギクリと肩を震わせた。
「え、和解してないんですか……?」
「いや、違う。全然和解している。思ったより田嶋はずっと強かだった」
全然意味がわからない。
恋愛の話でも田嶋先輩の話でもうろたえるとは、思ったより傷ついているのかもしれない。
クエスチョンマークを浮かべて先輩を見つめると、「佐倉は純粋でいいな」としみじみ頷かれた。
「何はともあれ、平凡でも幸せに生きていけると気がついた! なんてことは言わないよ。とりあえず今は勉強に集中するさ」
ようやく平静を取り戻した先輩は、思いだしたように問う。
「日向くんは、小説を書くことで救われたのかな」
思いだしたのではなく、本当に聞きたかったのはこれだと悟った。しかし、この問いは僕が答えていいものではない。
「本人に聞いてください。これからも、部室にいるみたいですから」
「そうか」
その事実だけで安堵したのか、先輩を取り囲む空気が一瞬だけ緩んだ。凡人は嫌いと言いながら、日向くんに小説が必要であることを見抜いた先輩。この人はきっと、昔の自分を彼に投影していたのだろう。
そしてこの人は、いつか僕がなるかもしれない人でもある。小説が書けなくなったら。また自分の価値を見失ったら。そう思ってしまうからか、彼のことはやっぱり責める気にならなかった。
「勉強、頑張ってください。幸運を祈ります」
先輩に背を向け、ふと思いついたことがあって体を戻す。
「そういえば、三浦先輩ってどんな本が好きだったんですか?」
最初の挨拶で「なんでも読む」と聞いたきり、深く聞く機会がなかったことに、今更ながら気づいた。
「さあ、なんだったかな」
先輩は答えてくれなかった。人に教えることではないと思ったのかもしれない。本当は小説なんて好きではなかったのかもしれない。
僕は、紙束を抱えたまま教室に戻った。
「佐倉、もう三浦先輩には会いに行ったのか?」
僕の教室の前に立ち、ひらひらと手を振った日向くんは問いかけた。
「うん。いらないって」
「そうか」
顔色は変わらなかったが、残念そうな響きがあった。
「この物語は、佐倉の目から見て面白い結末になったか?」
「うん。少なくとも、僕には思いつかないと思う」
その返答に、日向くんは安堵したようだった。日向くんの書く文章は、所々固かったし描写が足りない部分もあったけれど、物語を終わらせるための解決策が単純明快でセンスがあった。人生経験が僕より豊かだから思いつくのかもしれない。
「一から物語を作れる気はしないけど、また次のリレー小説には参加したいな」
「気が早いね」
照れくさそうに、日向くんは頭をかいた。まだ全てを吹っ切ったわけではない。それでも、彼からは次の道を歩もうとする意志を感じられる。
さて、僕も自分のやるべきことをやらなければ。
日向くんと一緒に部室に向かうと、一番乗りだった。もう明日から夏休みだ。熱気がこもった部屋に文句を言いつつ、エアコンをつける。
彼は「人の死なないミステリ」の積読の山から一冊抜き取って座る。僕は、自分の定位置でパソコンを開く。
カタカタ、とキーを打って文章を紡ぐ。あの小説を完成させるために。ふわり、と柔らかな風を頬に感じる。
僕はまだ挫折したことがない。何かを必死に頑張った経験も浅い。この小説を投稿することが、初めての挫折になるかもしれない。でも、それでいい。
自分だけの感情を。自分だけの後悔を。自分だけの拘りを。自分だけの文章を。
僕は物語に映すのだ。
文芸部の隠し事 神浦七床 @7yuka
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