第3話①:三々
タプから降りるのもこれで何度目だろうか。その灰白色がどこまでも続く世界を見渡しながら、九華は想汰の持っている写真に何回も視線を写す。
「あれ? 写真通りなら、ここに『眼』の社があるはずなんだけど……」
「『頭』の方角からブレずにここまで進んできたはずだ。確かに場所は合っていると思うが」
「タプ!」
「その通りだ」と言いたげな元気の良い返事が飛んでくる。だが腰のスイッチを押して視界を伸ばしても、彼は首を横に振るばかりだった。睡方含む四人は途方に暮れつつ、タプを囲むようにして集まってお互いの無い目を見た。
「ちゃんと……写真にはあるんだよな?」
「これ見てみなさい。というか、『眼』の社って、言ってみれば想汰の家な訳でしょ? あんた、何か知ってることないの」
想汰は顎に手を置いて、頭を捻らせる。風がひとしきり吹いて、塵が舞い上がり。
「……そういえば、うちに帰る時はいつも頑丈な鍵に悩まされていた記憶がある。カードキーを挿したり、指紋認証をしたり、挙げ句の果てには誰も気づかないであろう場所にある小さなボタンを押したり、と実に数十の段階を経て、やっと扉が開く」
「どんなセキュリティなのよ……」
「でもでも! ウチ、想っちの家玄関だけ見たことあるんだけど、本当そんな感じだった! なんていうかこう……! コントロールルーム的な?」
「ここは現実世界の影響を強く反映している。もしかしたら、ここでもそういうロックを見つけないと家は出現しないのかもしれない」
「え……、でも、それ、こっから探すの?」
睡方の言葉で、三人と一匹が周囲に目をやる。とっくに見飽きた殺風景な灰白色の荒野。地平線が延々と続くその先を見た九華は思わず苦笑いを浮かべる。そんな中、由依は大きく手を天に伸ばして。
「それじゃあさ!二手に分かれて探索しない?」
顔を下に向け、右に左に首を動かしながらゆっくりと歩を進める。灰白色で気泡混じりの地面が、じっと見続ける作業は流石に地味だし何より進展してる感覚が無い。隣でタプを腕で抱えながら同じ動きをしている由依を見て、思わず来た道を振り返る。地平線に向かうのは、ここまで歩いてきた足跡だけで。
「九華と想汰の姿はもう見えないな……。俺達はどこまで行けばいいんだ」
「想っちの家のスイッチを見つけるまでだよ! というかその言い草……もしかして、ウチといるの嫌……?」
「い……やいや! 時原さんに限ってそんなことないから! ほら、ちょっと前に時原さんの家入るみたいな話もあったからさ、ちょっと色々緊張っていうか……でも、マジでそれだけ!」
「そ、そっかぁ……。りょ、りょーかいっす」
彼女は肩の力を抜く。華奢な体躯が一歩、二歩と進み、また周囲を見回す。言ってしばらくしてから、睡方はもしかしたら彼女に失礼なことを言ってしまった気がした。でも、事実なのだ。
由依は元々中学校では、誰とでも分け隔てなく話す、まさに華の女子高校生というような感じ。そんなカースト上位の存在と関わる人生だなんて、彼は思ってもいなかったし、実際今もそこまで平静ではない。
「でも、見つからないね〜、ボタン。というか鍵?」
「た、確かにさっきから見てない。そもそもボタンを押せば社が出てくるのも分かんないし、はたまたただ場所を間違えてるだけかもしれないし」
「そだよね〜、タプちゃん何か分かる?」
「タプゥ〜……」
鼻で覆い尽くされた顔から、いかにも悲しそうな鳴き声が聞こえてくる。それがこだましてしまうほど、二人は静寂の中、作業に集中していた。
だが、一方で睡方の心の中はその何も語らない時間が長くなればなるほど、鼓動が速くなった。先ほども変な言葉の詰まり方をしていたし、彼女に悪い印象を与えていないか、そっちの方が段々気になってきて。
「睡っちさぁ」
その意識が本来の調査意欲の割合を越える寸前に、彼女に呼び止められた。思わず返事の最初の声が裏返ってしまうが、それを彼女は小さく笑った後、すぐに流し、隣を歩く彼に歩幅を合わせていた。
「継承者……だったわけじゃん。一応……」
「……うん」
「それでさ。お母さんが、預言者の妹さんだったりとかさ、あの場所で初めて色々知った訳でしょ。それも……ウチ含めてみんなに見られながら……」
「そう……だね」
「それなのに、なんでさ。睡っちは今、歩き続けられてるの?」
言われてから、じわじわと絵の具が滲むように頭に浮かぶ。そこまで時間が経っていないから当たり前だが、景色が鮮明に思い出せる。母親の泣き姿。父親の守り姿。風句二の厳格な姿。ショックの方が大きかったはずだ。やはり、手や体が平気なフリしてちょっと油断すればすぐに震え出す。
その時、鮮明に焼きついた記憶の感覚は、今だからではなく、これからも一生続くのだろうな、と無意識に理解出来た。意識は足へと移り、夢中で歩いていたそのマーブル調の二足を一旦止めてみた。遅れて彼女も止まって。
「……気づかないうちに歩いてたんだと思う。別に……、まだ全然平気とかじゃない」
彼の体の震えを見て、彼女は思わず小さく声を上げる。彼の顔色を窺うようにして。
「ご、ごめん! 思い出させちゃって。そう、だよね……。ウチ、ちょっと……、あの時の睡っち見て勘違いしてた。気持ち察せれなくて、ほんとごめん」
あの時の。指しているのは、恐らく九華に神聞紙の文字を書かせた時だと思った。確かに、あの時の睡方はやけにまっすぐを見ていた気がすると、自分でも思い返せる。
母の言葉が響いていたのだ、頭に。口にしまっておいた神聞紙を取り出し、それを広げて見る。並べられている文字の羅列。これは、睡方の言った言葉だ。勢いに任せて言ったんじゃない、だからはっきりと覚えている。
「ちょっと、嘘ついた」
「……え?」
睡方は天を仰いでから、由依に視線を向けた。立ち尽くした彼女が、次の言葉を待って。
「最初は、そりゃ、へこんでた。あの爺さんの天使に『神様になれ』って言われた時と同じ。何も出来ない俺にそんな役務まるはずないって思って、どうしたらいいか分からなくって、ただ打ちひしがれるしか出来なかった」
「……」
「だけど、昔母さんが言ってくれたんだ。どんな困難が起きても、絶対に自分のことを嫌いになるなって。それを思い出した時、俺、不思議と誇らしくなったんだ。継承者に、選ばれたこと」
「誇らしく……?」
「母さんと父さんは望んでなかっただろうし、だから俺に言わなかったんだと思う。だけど、俺は知れてよかったと思ってる。両親の、強い思いが伝わってきたから」
風が吹き、塵が舞う。広大な土地ゆえに近くで向き合うと、二人だけの空間のように思える。彼が言葉を伝えるのは、確かに彼女で。
「俺は、母さんの思いを受け継ぐ。継承者にでも神様にでもなって、これまでやってきたやつらとは違うように、俺のやり方で世界を良くしていきたい」
「睡っち……、あんた……」
彼女は微笑したように、肩を震わせる。言い切った睡方の肩は全く動かず、堂々たる立ち姿だった。胸に手を当て、鼓動を感じてみるが、それも酷く落ち着いている。
由依は、軽く首を傾げて体を前に出すと。
「ちょっと、休憩しない?」
「あ、ああ」
座り込もうと膝を曲げた瞬間。突然彼女の腕の中に抱かれていた、タプが足をジタバタさせる。腕から飛び出そうとする強い力に引っ張られて、彼女は思わずその場を走り回った。
「タプ!!! タプタプゥ!!!」
「ちょいちょいちょい、タプちゃん急にどうしたの!?」
鼻をぶるぶると震わせ、全身を激しく横に揺らしている。彼女が必死に押さえ込もうと腕に力を入れるが、逆にそれがタプを射出させる形となり、その桃色の体は宙を舞った。
「タプゥ!」
「お、おわああああああ!!!」
「時原さん!」
飛び出した馬力に引っ張られて、彼女は地面にうつ伏せになるような形で倒れる。睡方が彼女の元に駆け寄るが、一方のタプは自分達が歩いてきた道を戻っていくように全速力で駆けていった。
その姿はすぐに点となり、粒となり、果てには見えなくなった。あまりの速さに、自分達の足跡を上塗りした四足の印を見て、彼はやっと事の顛末を理解して。
「いたたたたた……」
「大丈夫! 時原さん!? って、え……!?」
「った〜……。って、ええええええ!?」
痛がっていた由依ですら、睡方の驚嘆の声に遅れて追いつく。二人の視線は揃って、彼女の右腕へと向いていた。そう、マーブル色のあれではなく、正真正銘の右腕に。
倒れた衝撃だろうか。クッション性のある、あのもはや慣れ親しんでいた触手のような腕の残骸が地面に転がっており、その部分には人間時代の白っぽい肌の腕が見えていたのだ。
もはや異形の姿に慣れてしまい、一部が人間だったときのものに戻ると、その継ぎ接ぎ加減が皮肉にも異形らしさを増幅させているやつに感じられた。風で睡方の足元まで転がってきたその白黒マーブルの腕だったものを、彼は軽々と持ち上げる。
もの自体の重量はそこまでない、なんなら軽いくらいだ。その理由は、中に空洞が空いているから。つまり、今まで肌だと思っていた部分は、いわゆる着ぐるみみたいなものだったのだ。
離れた側の腕の根本には凸のジョイントがついており、それに対応するように彼女の胴と腕の繋ぎ目の部分には凹の受け手があった。
「これ……、取り外せた……んだ」
「……ってことは! もしかしたら僕達の体も、まだここに」
彼は胸に手を当て、温かみを感じる。とっくに遠くに行ったと思った現実世界の大きな断片が、一つ手元に戻った気がした。そんな思いに耽ろうとする矢先、彼は視界の中で倒れている由依を見て、思考を戻す。
腕の抜け殻を置く。患部とでも言えばいいのか、彼女の曝け出された本来の白く滑らかな腕を両手で持ち上げて。
「というか時原さんは、大丈夫なの!? い、一応腕が取れちゃってるわけだし、本当に怪我とか」
手のひら側の腕の様子を見ようとして、ひっくり返す。それを見て、驚いた。前腕の手首近くから肘までに傷が広がっていたからだ。
血は出ていない。だが、打撲ややけどなんかではなく、何か刃物で斬られたような跡。転んだ衝撃で、このゴツゴツとした地面で切ってしまったのだろうか。
彼が言葉をかけようとした瞬間。彼女は腕を勢いよく引き、その傷の部分を胸に押し当てるようにする。崩した足で体はこちらを向いているが、目線は逸らされていて。
「……。……え、えと。……見た?」
「え?」
「……。……その、ここ」
彼女は片方の手で腕を指す。睡方は質問の意味をやっと理解して、それからは思考することなく言葉を漏らした。
「え、いや傷だろ? その、転んだ時についた……」
「転んだ時……? え? あ、あぁ、そっか……。あぁ……」
「なあ、やっぱり痛いよな?」
心配で思わず立ち上がり、彼女の元へ歩を進めようとする。だが、彼女はその傷のついた腕を胸につけたまま、片手の手のひらをこちらに向けた。
「あ、ちょいちょいちょい待って! ちょっとこっちに近づかないで!」
「え……あ、ごめん」
これまでに聞いたことないほどの彼女の芯の通った声の迫力に負け、押し返されるように彼の腰は地面に引き戻された。
声を発した当人も自分の咄嗟の言い草に驚いているようで、最終的にはどちらかというと彼女の方が狼狽え気味だった。目線を下に落とし、体重を地面に預けるような座り姿勢。それでも患部の腕だけは、胸にぴたりとくっつけたままで。
「ごめん睡っち、ちょっと後ろ向いててほしい」
「え、あ、うん」
言われた通りに彼は一八〇度向き直り、再びその凹凸ばかりの地面にあぐらをかいて座り込んだ。視界に広がるのは、虚無でしかない灰白色の世界。どこまでも続く、果てしない無。まだ手の届く位置にある眼下の地面を見ていた方が、よっぽど楽しかった。
自分は、由依に嫌われてしまっただろうか。彼は先ほどまでの自分の行動に思索をふけらせていた。視界に映るものが何もないからか、思考が巡ってしまうのはあまりにも自然だった。
先ほどの荒々しい語気と言い、今背中を向けている状態から考えて、彼女が睡方を拒絶してるのはいくら世間知らずな彼でも容易に分かった。頭を手で何回も掻き、その度にため息を漏らす。
一つ挙げるなら、怪我の対応の仕方か? そうだ、そうかもしれない。常に大人っぽい雰囲気を醸し出しているから忘れていたが、由依も自分と歳の変わらない中学生なのだ。
家に入れるのも恥ずかしいって言っていた彼女だ。それなのに怪我をした場所を執拗に見ようとしたらそりゃ嫌になるのは明白じゃないか、自分でもそんなことをされたらきっとムカつく。
母親の見ていたドラマの中では、よく紳士な男性が何も言わずに女性を助けるみたいなシーンがあったことをなんとなく覚えている。そういうシーンが来ると、決まって母親が騒ぎ出しうんざりしていたからだ。だが、今となってはそんなシーンの真似さえ出来なかった自分に嫌気がさす。由依が怪我をした時にさっと、腕のカバーをつけてあげるぐらいのことは出来たであろうに。
ああ、なんでこんなことに気がつかなかったんだろう。過去の自分への後悔と怒りが、変に込み上げてくる。その柔らかな手で、地面の残骸である小石を潰しては粉にしていく。
「……! ……!」
背中側から微かに聞こえてきたのは、啜り泣く声だった。彼は余計に手に力が入った。
今すぐ立ち上がってどうにかならないかと、彼女の方に駆け寄ってやるべきだと即座に思った。でも同時に、だから自分に後ろを向かせたのかもしれないと、不思議と酷く達観している自分もいた。
自分が、今やるべきこととはなんなのだろうか。そう思った時、石を潰していた手が真っ先に目に入った。右腕を地面につけて支え、左の拳でその丸々としたマーブル柄の肌を殴ってみる。軽くやったからか、拳が少し肌に沈むだけ。後ろから啜り泣く声が聞こえてくる。
今度はさっきよりも強く殴ってみる。殴ったところから、右腕全体にじんとした痛みが広がっていく。もちろん、痛覚が無いわけではない。それでもこの自分の体を覆うカバーが外れると信じて、殴るのを繰り返した。回数毎に強さを上げていき、限界が来た時には叩き方を変えてみた。
何も無い世界。無さすぎる世界。そんな環境だからこそ、睡方は彼女に何かを与えたかった。欲を言えば絆創膏だったりとか、そういうのが念じて出てくれば良かったのだけれど別にそんな能力は無いし、あったとしても滅多に使わないから無くてよかったと思う。
最終的に肩から始まる腕の付け根を軽くチョップした瞬間、それは空気の出る音と共にいとも簡単に分離した。カバーは地面に落ちて、自分の人間時代の腕が露わになる。
改めてじっと見ると、それはまさしく自分の腕にそっくりだった。ほくろの位置とか、女子と比べても小さいと馬鹿にされた手の大きさとか。片手でそれを揉んでみた時、人間時代の滑らかな腕と今のマーブル柄の腕の感触が混じり合って、なんだか不思議な気持ちになった。
地面に落ちたカバーを両手で持ち上げて、聞こえてくるか細い声に耳を傾ける。彼はその方向を向かないまま、彼女に当たらないようにほんのりと祈りながら手でマーブル柄の抜け殻を投げた。ティッシュが床に触ったぐらいの優しい音が聞こえてきて、それも弱々しい泣き声にかき消されていった。
「……これ。……気持ち、っていうか。……うん」
彼女から見たら、背中が喋っているような感じだったと思う。もしくは、急に飛んできたその抜け殻が新しい生き物に見えていたり。それぐらい唐突なことだったし、一方的すぎる気もした。
声を出してみたはいいものの、彼自身、返答を待っているわけでは無かった。なんなら独り言ぐらいの感覚。そのまま、また灰白色の世界に目をやってあぐらの姿勢を貫く。初めてこの世界に晒し出された自分の本当の腕は、まるで上着を脱いだかのように涼しかった。こんなにもここには風が吹いていたのかと、改めて気づかせられるほどに。
それから、本当にしばらくが経った。再び彼女の声が聞こえたのも、また唐突だった。
「これ……渡されても。どうしたらいいか、わかんないし」
少し余裕のある、またはそう見せている震えの少ない声だった。彼は冷たくも感じられるその口ぶりに、肩を落とす。
「そう、だよね……。ごめん」
「……。でも、ありがと」
彼女の足音が聞こえてくる。思わず振り向こうとするが、「だめ」と言われて全身を強張らせる。待っていると、やがてその足音は彼の背中のすぐ後ろで止まった。そして彼女が地面に腰をつけたであろう風圧で、視界の中で塵がほんの少し舞い上がっていた。
後ろから彼女の右手だけが見えて、そこには睡方の腕のカバーが握られていた。彼女の腕はもうカバーがつけられており、あの細くて華奢な腕の面影はどこにも無かった。受け取って自分もそれを腕に付け直す。これまたいとも簡単に元通りになったが、腕の一部分が少し湿っているのを感じて、どこか心の奥が締め付けられるようだった。
「ねえ、睡っち」
彼女の頭が自分の背中にくっついているのが分かった。滑らかな肌同士が密着する感覚。こんな状況でも、睡方は距離の近さに思わず鼓動が速くなってしまっていた。
再び、啜り泣く声が聞こえてきた。彼女は頭を押し付けるように、背中に擦り付けている。その感覚が伝わってくる。それゆえ、先ほどまでの鼓動の速さが段々と落ち着いてきて、冷静にゆっくりと天を仰ぐ。
「……うん」
「ウチ、どうしたらいいかな……」
言葉の節々から震えが伝わってきていた。背中から直に伝わってくる彼女の思いが、自分の体全体にまで広がっていって同じような感情を疑似体験する。それでも計り知れない彼女の奥底の何かが、渦巻いているのが分かった時。正直、睡方には背負いきれない重みだとすぐに感じられた。
紳士的に振る舞おうなんて描いていた妄想は、すぐさま頭の中で散らばっていく。彼は、自分の中で最大限の言葉を探して、彼女にぶつけるしかなかった。
「ありのままの自分で……いいんだよ」
「……。ウチのこんな姿見て、誰が得するの? ただ、みんなを悲しくさせるだけ。こんなんなるくらいなら、みんなが笑ってるところが見れるなら、ウチは自分を隠したって良い」
「……」
「それでも、本当にありのままの自分で良いって言える? ねえ、どうしたら自分を嫌いにならずにいられるの……?」
背中にかかる体重が、重く、重く。また更に重くなって。彼女の拙い手は睡方の肩甲骨辺りを掴んでいる。彼は全てを飲み込むように、大きく一度の頷きをした。
「俺は、楽しそうにしてる時原さんも、今の深く考える時原さんも、どっちもありのままの姿だと思う」
「……!」
息が詰まるような、一瞬の空気の緊張を背中から感じる。
「少なくとも、俺は時原さんのこと、好きだよ」
頭を掻きながら、あまり考えずに言葉を漏らす。かといって、嘘をついたわけではない。必死で慰めようとしたわけでもない。出ていたのだ、口から。もうどうにでもなれっていう感情も少しあったかもしれない。背中で啜り泣く彼女の声は激しさを増していたが、聞こえてきた声は不思議といつものトーンに戻っている気がした。
「……ふっ、何それ。……そっか。……そっ、か」
少し笑いが聞こえた後、彼女は彼の背中に思い切り顔を押し付けた。クッション性の高い、柔らかな肌質のキノコのかさのような形がよく分かるほどの感覚だった。一旦座り込んでからろくに動いていないため、足を少し動かすだけでじわっとそこが温かくなる。
「ねえ、睡っち!」
「……何」
今度は、いつもの良く言えば楽観的な、悪く言えば腑抜けた、どこまでも飛んでいきそうな声だった。
「絶対今のウチの顔見ないって約束、出来る?」
「一応……さっきからしてるけど」
「さっきとか関係なくて、今だよ、今の話」
「で、できるよ」
「じゃあ、そのままそこ座ってて」
先ほどと比べて元気になったとはいえ、以前見ていたような突き抜けた明るさの振る舞いではもう無かった。それでも余りのギャップにまだ慣れず、彼女が動き回るだけで少し肩の力が抜ける。言われた通り、あぐらの体勢を維持したまま万が一でも顔を見ることが無いように正面を見て待っていると、彼女は隣に座ってきて。
「……えいっ!」
「う、うわぁ!」
左頬に滑らかな感触が密着する。同時に、左腕に巻き付くように由依は右腕を絡めてきて。勢いよくくっついてきた彼女に、思わず倒されそうになって睡方は情けない声を上げてしまう。それを防ぐように彼女も相応の力で引っ張って、二人は横並びで座る体勢を安定させた。驚きで思わず左を向こうとしてしまい。
「ちょちょちょ、こっち向いちゃダメ!」
「ご、ごめん……! でも、急になんか距離、近いし……!」
「え〜? いいじゃん、これくらい」
視認が出来ないため確定ではないが、彼の左頬にぴったりとくっついているのは恐らく彼女の右頬だった。それは背中で感じていたよりもずっと温かく、言うなれば生命の鼓動を感じるという感じで形容するのが一番最適と思えるぐらいだった。
それに自分の心臓の鼓動も先ほどと比べ物にならないくらい、間隔が狭まっている。それがもしかしたら、体の発熱に拍車をかけているのかもしれない。
彼女の頬もやけに熱い。体が無意識に逃げようとするが、どうしても彼女が離さないのでいよいよ断念して睡方は大人しく地面に腰を沈めた。二人で同じ視界を見る。何も無い世界。でも、すぐ隣には確かにあった。存在が、感じられた。
強張っていた体も時間が経てば、それはもう過去のものとなった。それどころか、彼女の熱が得も言われぬ充足感を彼に与え、この異世界で初めて安心感を覚えた。
「このことは、二人だけの秘密ね」
優しくて、繊細で、どこか穴の開いたような声。彼はそこを埋めるように、静かに、そして重く頷いた。
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