【5】礎作り
ラハサァは羊皮紙を使い写本をするようになった。とりあえず妻のリリアと共に子供達に文字の読み書きや簡単な計算を教えているので教科書のような簡単な本が必要だった。
だが、羊皮紙は貴重なので何度も消しては書くことを繰り返しながら一人一人丁寧に教育を施している。
だが、このやり方は非効率的だ。簡単に紙が手に入る前世の世界なら容易いものなのだが文明が進んでいないというのはやはり不便に感じるのであった。
(もっと上質な紙が手に入ればいいのだが…)
この世界の文明基準だとそれは難しい。前に現代は物が溢れすぎているから人類は努力や創意工夫を怠るようになったのだと思ったが、実際には流石に便利な道具やモノというものはいくらあっても困らないのだ。
そうやって人々は自分の周りの環境を改善し、より便利に…豊かにしていくことで発展していたのだ。
ここの子供達の高い勤勉意欲も後にそうした文明発展の礎となる事は間違いないのだろう。
だが、現代日本のように文明が発達しモノがあふれる時代になったら彼等もまた怠惰に身を委ねてしまう可能性は高い。
ラハサァはそうならない為、人類が新たなステージに上がる精神的人類革命を成し遂げるためにも己の理想国家は実現させねばならないと野望を燃え上がらせていた。
生前の彼も嘗てはそうしたストイックさとモチベーションの高さに溢れていたもので、それが彼をただの人から『教祖』に押し上げる原動力ともなっていた。
しかし…それを彼が成し遂げられたかどうかは、『前世』における末路を辿れば明らかであろう。
人は間違えやすく、それを自発的に正すことは難しい生き物なのだ。
「先生、言われたものとは違いますが珍しいものを市場で買ってきました」
ジョウユが馬を飛ばして隣町から帰ってきてラハサァにあるものを手渡した
彼は生徒の中でとりわけ優秀な頭脳を持ち若いながらも哲学的な考えを備え、その志向はラハサァの都合の良い存在であった
彼をこのまま育てれば間違いなく将来は自分の右腕として役立ってくれるだろう
「おお、そうか。ご苦労だった」
そう言ってラハサァはジョウユの頭を撫でた。ある程度の値段であれば買っておいて欲しいとは言っていたが、まさか直ぐに手に入るとは思わなかった
彼が受け取ったのは白く薄いものが何枚も重なった束だった
それは実はこの世界ではまだ珍しい物なのだが、彼の元の世界では安価に何処でも手軽に手に入る物だった
「しかし、何に使うんですか?」
ラハサァが受け取ったもの…それは紙であった。
紙の歴史は思ったより古く昔は木版にそして動物の皮を使用した羊皮紙へと移り変わり、木材を細かく砕いて水にすかして薄く引き伸ばしたものが紙の原型となっている。
それらもまた人類が出来事や知識を蓄積するようになってから、壁画などに情報を残す手段が生まれた。しかし、それらは持ち運びに不便で、大量の情報を記録するには限界があった。やがて、文字が発明され、粘土板やパピルス、そして羊皮紙といった素材が使われるようになったが、どれも貴重で高価だった。知識はごく一部の特権階級の者しか手に入れられず、大衆には広まらなかった。
「しかしジョウユ、これは一体どこで手に入れたんだい?
いつもの場所なら仕入れない品物だろう」
ラハサァの問いに、ジョウユは誇らしげに答えた。
「いつもの市場は人が少なかったので、別の場所に集まっていると思い。来る前に東の方向から向かう旅団を山の上から見かけたので馬を飛ばしてもう一つ先の市場に立ち寄ったんです
東の大国から来た商人が、これを大量に積んでいました。
なんでも、向こうではもう紙は羊皮紙と比べて比較的安価で庶民でも手が出せるものだとか。それでも決して安くはありませんが、先生が使うと思ったので複数買うと交渉したら思ったより手軽な価格で売ってくれました」
その言葉にラハサァは息を呑んだ。自分のいた世界では当たり前だった紙はこの世界では貴重品だ。
それを大量に、しかも安価に生産できる大国の国力と技術力は彼の想像をはるかに超えていた。
羊皮紙を一枚一枚丁寧に剥がし、なめして作るこの世界の製法とは根本から異なるのだ。理想国家を十年以内に立ち上げたとしてその東の大国に対抗できるかどうか…
「…とんでもない国力だな」
ラハサァは紙の束を握りしめ、改めて自らの野望に火をつけた。
彼が目指す理想国家は単に精神的な豊かさを追求するだけでなく、物質的な生産力を高め、人々がより豊かな生活を送れるようにしなければならない。
紙一枚を安価に大量生産できる技術は、知識の普及に革命をもたらす。
これまでの写本のように一部の富裕層や聖職者だけが知識を独占するのではなく、すべての子供たちが読み書きを学び、多くの人々が知識を共有できるようになる。
それは、この世界の文明を飛躍的に発展させる起爆剤となるだろう。
ラハサァはジョウユという優秀な教え子と、この紙という強力なツールを手に入れたことで自らの理想実現への確信を強めた。
しかし、それは同時に彼が背負う責任の重さを自覚する瞬間でもあった。
彼はこの文明の力を使って、人々を幸福へと導くことができるのか。
それとも…かつての自分のように、その力を誤った方向に使ってしまうのか?
「先生?」
「あぁ、すまない。しかしよく手に入れてくれた、流石は私の優秀な生徒だよ」
ジョウユの頭を撫でてやると彼は嬉しそうに目を細めた。賢い子だが、こういうところはやはり子供らしいと思う。
ラハサァは、手にした紙の束をじっと見つめ、思索を巡らせた。彼の頭の中には、教え子たちに伝えたい知識が満ちている。この異世界では、紙がまだ珍しく、知識の伝達は口伝えが主流だった。ラハサァは、この紙を使って教科書を作ることで、未来の学びを変えることができるのではないかと考えた。
「ジョウユ、これを使って教科書を作ろう。君の知恵が必要だ。」
ジョウユは目を輝かせた。それをみてラハサァは内心ほく笑む。
「私がですか?」
ラハサァは頷き、紙の特性を説明し製本について話した。
「内容を整理し、わかりやすくまとめるんだ。君の持つ柔軟な視点が他の生徒にも大いに役立つだろう」
「はい先生!」
ジョウユは心を躍らせ、羽ペンを取り出した。
彼は自らの考えを紙に綴り始め、数学や自然…倫理、宗教観についての知識を記していった。
そのなかにラハサァは口を挟みながら添削をし、時に彼に任せながら自分の『経典』を制作していった。
二人の共同作業は、異世界に新たな知恵をもたらす第一歩となるのは間違いがなかった。優秀だとは感じていたがジョウユは想像以上に賢い子供だった。
ある日、ラハサァが森から村に戻る時だった。とある少年が道端に倒れていたのは。
「おい、君…大丈夫か?」
近づくと異臭が漂った。この文明では人々が毎日風呂に入る事がなく、身を清めると言ったら近くの川や湖で沐浴をする程度なのだがその事を差し引いても少年の体臭は刺激的な物だった。それに混じる血の匂いが異変を感じさせた。
「怪我をしているのか?」
返事をせず、少年はぐったりとしたまま動く様子を見せない。
身に着けた衣服はボロボロで露出した皮膚はあちこち痣だらけで暴行を受けた形跡があった。
特に顔は右半分が何かこん棒のような鈍器で殴られたのか血まみれになっており、歯が何本も抜け落ち右目は完全に潰れているようだった。
呼吸はしている。辛うじて生きている状態なのだろう…今は。
「しっかりしろ、すぐに手当てしてやるからな」
ラハサァは迷わず彼を背負い、足早に村へと戻っていったのだった。
少年を背負って走り、村の集落へたどり着くと、妻のリリアが駆け寄ってきた。
「あなた、その子は…!」
ラハサァは荒い息遣いで答えた。今は一刻を争う、無駄な時間を消費する事は出来なかった。
「森で倒れていたんだ。ひどい怪我をしている…すぐに手当てを」
リリアは驚きながらもすぐに家へとラハサァを促した。
家の中のベッドにそっと少年を寝かせると、リリアは手慣れた様子で薬草と清潔な布、そして熱湯を用意した。
ラハサァは少年の衣服を破って脱がせ、傷の状態を確認する。
顔の右半分は腫れ上がり、視界を塞ぐほどだった。
血と土がこびりつき見るに堪えない。顔の外にも肋骨が折れているのか、呼吸をするたびに苦しそうにうめき声を漏らした。
リリアは熱湯で布を絞り、ラハサァに手渡す。ラハサァは少年から少し距離をとり、指示を出す。
「リリア、まずは顔の血と汚れを丁寧に拭いてくれ。私はこの子の胸のあたりを確認する」
リリアは無言で頷くと、少年の顔の汚れを優しく拭き取った。
汚れた布が、みるみる赤く染まっていく。
ラハサァは少年の胸に耳を当て鼓動を確認し、折れた肋骨のあたりを慎重に触診した。
痛みに少年はびくりと体を震わせる。ラハサァは顔をしかめたが、リリアは彼を励ますように優しく語りかけながら、少年の頬をゆっくりと撫でた。
すると、少年の体からわずかに力が抜けるのがわかった。
夜通しの手当てが続いた。顔の傷には薬草をすり潰して塗り、包帯を巻いた。
全身の痣や切り傷にも、同様に薬を施していく。
リリアは献身的に看病を続けていき、時折水を飲ませ、少年の意識が遠のきそうになると優しく声をかけた。
ラハサァはその様子を少し離れたところから見つめていた。
直接傷痕を見た彼の表情には、この少年が生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている事を痛感させるものだった。
日が昇り始めた頃…少年の呼吸がようやく落ち着いた。
傷の出血も止まり一命を取り留めたようだ。リリアは安堵の息をつき、少年の額にかかった髪をそっと払った。
その瞬間。少年がわずかに瞼を開け、リリアの顔を見つめた。
残されたその左目には、かすかな光が宿っていた。
「タスけてくれて、ありがとう…」
か細い声だったが、少年は確かにそう言ったのだ。
命を救えたことにリリアは涙を浮かべ、ただ静かに頷いた。
ラハサァはそのやり取りを黙って見ていた。
少年の目を見てほんの一瞬、かつての自分と重なるような感覚に襲われたがすぐにその感情を打ち消した。
自分の前世も片目が見えず、そのおかげで大変な苦労をした記憶がある。
右目を失ったこの少年は今後その重荷を背負うことになるのだと。
この時のラハサァは野望の萌芽があったが、人助けに躊躇がない善人であった。
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