【6】新たな駒

 イラームはラハサァの家で暮らし始めた。

献身的なリリアの看病のおかげで彼の体は徐々に回復していったが、顔の傷跡は深く右目の視力は戻らなかった。

彼の言葉も片言で発音は聞き取りづらかった。

ラハサァは、回復したイラームにも読み書きや計算を教えることにした。

他の子供たちと同じように教科書を使い、一つひとつ丁寧に教えていく。

しかし、イラームはジョウユのような他の生徒たちと比べて明らかに飲み込みが遅かった。

勉学で何度同じことを教えてもイラームはすぐに忘れてしまう。

文字を書いても線は歪み、数字を間違えてしまう。その癖にリリアが読み聞かせる童話の内容などはよく記憶しており成績の得意分野は著しく偏っていた。

自分の興味以外の分野に対して無関心になりがちで、動き回り注意力も散漫な傾向は現代で言うADHDのそれに近かった。

イラームの言葉は不明瞭で、早口であった為に時々何を言っているのか理解できなかった。

他の生徒たちが順調に知識を吸収していく中、イラームだけが立ち止まっているように見えた。

もっと勉強が楽しくなる工夫をすれば違った結果が得られたのかもしれないが、彼一人に注力しているわけにもいかず、この事にラハサァは次第に苛立ちを募らせていった。


「イラーム、なぜこんな簡単なことが覚えられないのだ?」


イラームはただ困ったように首をすくめるだけだった。

そのたびにラハサァはため息をつき、ジョウユの優秀さを引き合いに出してイラームを暗に責めるようになった。


「ジョウユは一度教えただけで学習していない先の理論まですぐに理解したぞ。なぜ君は自分の関心が向かない事以外はすぐに忘れるのだ?」


リリアはそんなラハサァの態度に心を痛め、イラームをかばうように言った。


「あなた、まだ体も本調子ではないのです。それに怪我の影響もあるのでしょう」


妻は庇うものの、ラハサァの苛立ちは募るばかりであった。

初めは同情から助けた少年だったが、いつしかその感情は冷え切りつつあり、イラームの存在そのものが重荷に感じられるようになっていた。

イラームはラハサァの冷たい視線を感じ、次第に授業から遠ざかるようになった。

彼はリリアの手伝いをしたり、娘のドゥラカと遊びカーリーのお守りをしたり、森で木の実を拾ったりして、彼なりに静かに日々を過ごすようになった。


ラハサァはそんなイラームの様子を見ても何も言わず、ただただ効率の悪い現実に辟易としていた。

それでも、イラームはリリアの献身的な愛情とほんの少しの希望を胸にラハサァの家で居場所を見つけようとしていた。


イラームの学習能力の低さにうんざりし、ラハサァは彼をただの足手まといだと考えるようになっていた。

いつか適当な理由をつけて村から追い出すか、せめて労働力として使うかそんなことを密かに考えていた。



だが、ある日の午後にラハサァは村の子供たちを連れて森で薬草を探していた。

すると、一匹のサルが村に迷い込み、子供たちの弁当を奪って木の上に逃げた。

ラハサァが「だれか、あれを取ってこい」と言った時、イラームがサッと身軽に木に登り始めた。

彼は猿のように素早く、枝から枝へと飛び移り、あっという間に高い木の上まで登っていった。

その俊敏さにラハサァは思わず息をのんだ。落ち着かない性格だと思っていたがあそこまで早い動きが出来るとは思わなかったのだ。

イラームは猿から弁当を取り返すと、何食わぬ顔でラハサァに手渡した。


「素晴らしいな…君の身のこなしは」


その時、ラハサァの中で何かが変わった。

これまでただの「役立たず」としか見ていなかったイラームが、彼の目に「利用価値のある存在」として映ったのだ。

この身軽さと素早さがあれば、人目に触れずに危険な任務をこなすことができる。


それからというものラハサァは態度を豹変させた。

イラームに対して、これまでの冷たさが嘘のように優しく接するようになった。

娘達の相手やお使いをこなすたびに他の子供たちには与えなかった特別なお菓子や、真新しい服を与え、イラームの得意な木登りを褒め称えた。

イラームは突然のラハサァからの寵愛に戸惑いながらも、次第に彼を心から慕うようになった。

ここまでラハサァが贔屓するのは優秀なジョウユ、美しく育ち仲間を取りまとめるケーマくらいのものであった。

そしてある日の夕食後に、ラハサァはイラームを自分の膝に座らせ、優しく髪を撫でながら言った。


「イラームよ、私は君を息子のように思っている

ドゥラカをはじめ娘達も君に懐いているようだし感謝している

自分の能力や容姿を気にしない方がいい。私は君の良さを十分に知っているつもりだ」


イラームは驚きながらも、その言葉に深い喜びを感じた。

何故なら彼は幼いうちに親を亡くして長い間、孤児として生きる為に仕方なく盗みを働きながら生きていたからだ。


「お父さんと呼びなさい」


「おトウさん…」


ラハサァはさらに生まれたばかりの三女アチャリをイラームに抱かせた。

イラームは小さな命をそっと抱きしめ、頬ずりした。年の離れた妹が出来たようだった。

新しい『お父さん』から与えられた生まれて初めて知る温かさに、彼の心は満たされていった。

暖かい感情が胸の中を満たし頭がパーンと弾けた様だった。ラハサァやリリア、ドゥラカやカーリー、そしてアチャリが自分達の新しい家族と感じるようになった。


「アリガトう…ありガトウ…」


涙を流すイラームのを見て、ラハサァは彼の髪を撫でながら優しい笑顔を浮かべていた。

しかし、その笑顔の裏で彼はイラームをある恐ろしいことに使う計画を密かに立てていた。

イラームの卓越した身体能力と、自分への純粋な信頼…

ラハサァはこの二つを利用して、いずれ東の大国へと密偵として送り込むか暗殺者として使うつもりだった。

イラームを訓練し、その身軽さを最大限に活かした暗殺や諜報活動をさせれば、自らの野望を達成するための強力な道具となるだろう。

そうでなければ、こんな片言で話す醜い顔の少年などに優しくする道理は無かった。


ラハサァは無邪気にリリアの膝の上で眠るイラームを見つめながら、勝利を確信した。

利用する側と利用される側…二人の間の信頼と愛情は、ラハサァにとって単なる手段に過ぎなかった。

イラームの父となることを許したその温かい言葉も、アチャリを抱かせたその温かい眼差しも…全ては目的のための偽りの光だった。

彼がイラームに注いだ愛情は、全てを失った少年を完璧な道具へと育てるための…巧妙な罠だったのである。

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