第2話 高尾山の幻鈴


 ✅高尾山


 高尾山の登山道は、秋の陽光にきらめいていた。

色づき始めた紅葉、ハイカーの笑い声、木々の間を抜ける涼しい風。山上武人、35歳の週末登山家は、ザックを背負い、いつもの6号路を登り始めた。


低山の気軽さと、変化に富んだルートが彼のお気に入りだった。

「ふぅ、今日もいい汗かけるな。紅葉、そろそろピークかな?」


 鼻歌を口ずさみながら、武人は軽快に歩を進めた。だが、頂上近くの分岐で、奇妙な看板が目に飛び込んできた。


「ん? 『新ルート:奥ノ沢コース』? こんなコース、あったっけ?」 木製の看板は、まるで昨日立てられたように真新しかった。


文字は粗く彫られ、苔や汚れ一つない。武人は首を傾げた。


「高尾山に新ルートなんて、SNSでバズっててもおかしくないのに。…まあ、面白そうじゃん。行ってみるか!」


 好奇心が疼き、彼は未知の道に踏み出した。



 ✅熊鈴の響き


 新ルートは、最初こそ高尾山らしい雰囲気を漂わせていた。杉の木立がそびえ、苔むした岩が点在し、遠くに東京のビル群がちらりと見える。だが、進むにつれ、道の両側に笹竹が異様に繁り始めた。背丈を超える笹が、まるで壁のように道を閉ざす。陽光が遮られ、薄暗い緑のトンネルが続く。


「うわ、めっちゃ笹だな。なんか…閉塞感あるな、これ。」


 武人は笑ってごまかしたが、胸の奥で小さな不安が芽生えた。スマホを取り出し、愛用の山アプリ「Noboka」を開く。だが、画面はグルグルとロードを繰り返し、現在地が定まらない。


「チッ、電波悪いのか? まあ、一本道だし、低山だ。どこかに合流するだろ。」 道は下り始め、足元は湿った土に変わった。


鳥の声が消え、風も止まる。空気が重く、まるで水をかぶったような息苦しさ。武人は立ち止まり、辺りを見回した。


「…静かすぎる。なんか、変だな。いや、考えすぎか。高尾山だぞ、迷うわけない。」 その時、チリン、チリン。


 鋭い金属音が響いた。神社のお参りの鈴とは違う。ハイカーが熊よけにつける、あの無機質で乾いた熊鈴の音。武人の背筋が凍った。


「え、なんだ!? 熊鈴? こんなとこに熊なんていないだろ!」


 音の方向はわからない。笹の壁に反響し、頭の中でぐるぐる響く。武人は周囲を見渡したが、誰もいない。


「…誰かいるなら出てこいよ! イタズラなら笑えねえぞ!」 だが、返事はない。代わりに、突然ガスが湧き上がってきた。白い霧が足元から這い上がり、視界を飲み込む。笹の葉が霧に溶け、道の踏み跡がかすかに見えるだけ。


「マジか、霧まで!? 山の天気って変わりやすいけど…なんか、ヤバい雰囲気だな。」


 武人はフリースの襟を立て、歩みを進めた。霧の中、笹が擦れるカサカサという音が、まるで誰かが後をつけてくるように聞こえる。


「落ち着け、俺。低山だ。こんなとこで何も起きるわけない…だろ?」



 ✅山すそ


 ガスが薄れると、武人は突然、開けた場所に出た。広々とした山すそらしき平地。色とりどりの野花が咲き乱れ、そよ風が甘い香りを運ぶ。遠くには緩やかな丘が連なり、まるで別世界のような美しさ。だが、どこか不自然だった。花の色は鮮やかすぎ、空は曇っているのに光が強すぎる。


「うお、なんだこれ! 高尾山の山麓にこんなとこあったっけ? めっちゃキレイだけど…なんか、変だ。」


 武人はザックを下ろし、岩に腰掛けた。深呼吸すると、花の香りが鼻をくすぐるが、なぜか胸が締め付けられる。


「…なんか、夢みたいだな。ここ、ホントに高尾山か?」 ふと、視線を遠くにやると、10メートルほど離れた場所に人影がちらほら。だが、その姿は異様だった。一人は鎧をまとい、刀を腰に差した武士。もう一人は獣の皮をastie た。遠くて顔は見えないが、時代錯誤の存在感が漂う。


「え、なんだあの連中!? 武士? 縄文人? コスプレか? いや…高尾山でそんなイベントねえだろ!」


 武人は笑おうとしたが、笑えなかった。影たちは動かず、じっと佇んでいる。だが、目に見えない視線が突き刺さる。


「時の寄せ集めみたいだな…何だよ、この不気味な感じ!」 チリン、チリン。

 熊鈴の音が、背後から響いた。鋭く、冷たく、まるで頭蓋骨を叩くような音。武人は振り返ったが、誰もいない。霧が再び濃くなり、人影がかすむ。


「くそっ、またかよ! 誰だよ、ふざけてんのか!」


 だが、音は止まない。チリン、チリン。今度は頭上。見上げると、赤い緒がついた古びた熊鈴が、木の枝に揺れている。風もないのに、揺れている。


「…何!? あんなとこに鈴!? 誰が吊るしたんだよ!」 武人の心臓がバクバクと鳴った。影たちが、ゆっくり近づいてくる。武士の鎧がガチャガチャと音を立て、縄文人の獣皮が霧に擦れる。


「お前ら、なんだよ! 近づくな!」

 だが、影たちは答えない。ただ、じっと見つめながら、霧の中を漂うように迫ってくる。



 ✅時間の狭間


 武人は駆け出した。笹の道は消え、獣道のような細い小径が現れる。木々の枝が顔を引っかき、足元はぬかるむ。空は鉛色に変わり、冷たい風が吹きつける。

「はあ、はあ…どこだよ、ここ! 高尾山じゃねえだろ!」


 道端の木に、色あせたポスターが貼られている。武人の写真。にこやかな笑顔、赤いジャケット、青いキャップ。「行方不明:山上武人。3年前、奥ノ沢コースにて」。

「は!? 俺!? 3年前!? ふざけんな、今日登ったばっかだろ!」


 ポスターを剥がそうとしたが、紙は木に溶け込むように固まっている。

「何だよこれ! イタズラか!? 誰だよ!」 チリン、チリン。


 熊鈴の音が、すぐ背後で響いた。振り返ると、巨大な熊鈴が浮かんでいる。赤い緒が蛇のようにうねり、霧の中で揺れる。


「うわっ! なんだそれ! 浮いてんじゃねえよ!」


 鈴の周りに、影たちが現れた。武士、縄文人、弥生人…そして、現代の登山者らしき姿。だが、その顔はぼやけ、まるで人形のように無表情。


「お前ら、誰だ! 俺をどうする気だ!」

 影の一人が囁いた。声は、風のように耳に流れ込む。


「高尾山は、門だ。鈴が鳴る時、選ばれた者はここに来る。」

「門? 何!? 俺、ただ新ルート入っただけだろ!」

 もう一つの影が答える。


「新ルートは、時間の狭間。還ることはない。」 武人は後ずさった。だが、背後に鈴の音。振り返ると、熊鈴が目の前に。赤い緒が腕に絡みつき、冷たい金属が肌を刺す。


「離せ! やめろ! 俺は帰るんだ!」

 鈴の音が頭の中で爆発し、視界が暗転した。



 ✅幻影の果て


 目を開けると、武人は再び花咲く山すそにいた。だが、今度は誰もいない。花々は萎れ、風は冷たく、灰色の霧が漂う。


「またここ…? ループ!? ふざけんなよ!」


 スマホは真っ黒。電池切れ? いや、さっきまで動いてた。

「落ち着け、俺。低山だ。出口は…ある、はず…」 チリン、チリン。


 熊鈴の音が、頭上で炸裂した。見上げると、巨大な鈴が浮かんでいる。赤い緒が無数に伸び、まるで蜘蛛の巣のように空を覆う。


「なんだ…あれ…?」


 鈴の緒が武人の体に絡みつき、動けない。影たちが現れ、円を描くように囲む。武士の鎧が錆び、縄文人の獣皮が腐臭を放つ。登山者の顔は、武人自身の顔だった。

「俺!? お前、俺!? どういうことだよ!」


 影の武人が口を開く。声は、武人の声。


「お前は、俺だ。俺は、お前だ。鈴が鳴る時、俺たちはここに還る。」 武人は叫んだ。

「ふざけんな! 俺は生きてる! 帰るんだ!」


 だが、鈴の緒が締め付け、意識が薄れる。チリン、チリン。音が世界を飲み込んだ。



 ✅登山口の囁き


 高尾山の登山口。色あせたポスターが風に揺れる。「行方不明:山上武人。3年前、奥ノ沢コースにて」。

 登山者たちがポスターの前で立ち止まる。

「山上武人、3年前に行方不明になった奴だろ?」

「低山で消えるって、マジ? 高尾山だぜ?」

「でもさ、高尾山って登山者多いから、事故率は世界一って話だよな。」


「行方不明は初耳だけどな。…なあ、あのポスター、なんか変じゃね?」 ポスターの武人の笑顔が、まるで動いたように見えた。


 チリン、チリン。


 熊鈴の音が、風に乗って響いた。登山者たちは顔を見合わせる。

「なんだ、今の? 熊鈴? こんなとこに熊いないだろ?」

 ポスターの目が、じっと彼らを見つめていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る