マヨイガの残響

ポチョムキン卿

第1話 鬼無山の幻影

 敬太は、木梨山きなしやまの登山道を一歩一歩踏みしめた。

 里山とはいえ登山道は狭く、両脇の草が膝をくすぐる。登山アプリの地図が頼りだが、電波が不安定で画面がチラつく。


「頼むよ、スマホ。こんな山奥で迷ったらシャレになんねえって」


 心の中で毒づき、ザックを背負い直す。


 思い出すのは二十数年前のあの夏だ。

 子供の頃、山の中で拾った小さな箸置き。たったそれだけで、家族がバラバラになった気がする。


 両親は離婚し、妹は母に引き取られて去った。

 父と二人の家は、黙り込む食卓が寒かった。


「……なんで俺、あの箸置き、捨てられなかったんだ」


 最後に妹が泣きながら言った言葉が、耳に残っている。


「お兄ちゃん、捨ててよ。怖いから」


 アプリの画面に、唐突に家のマークが現れる。

 こんな山奥に建物なんてなかったはずだ…


「おいおい、バグか?」


 そのとき、遠くから子供の笑い声が聞こえた。


「きゃあ!」

「あはは!」


 女の子と男の子が楽しげに騒ぐ声。

 こんな山奥で? キャンプか?


 首を振って、アプリが示す方向へ進む。

 道が開けた先に現れたのは、黒い門構えの家だった。


 和風なのにモダンで、アルミサッシの窓が陽光を弾いている。

 庭には池があり、ゆったり泳ぐ鯉。小川が灯篭の脇を蛇行し、水音がせせらぐ。

 電線が家に繋がり、窓には明かりが灯る。

 「ふ~ん、こんな山奥にも電気が来ているんだ。すごいな」


 そして、キッチンから漂う料理の香り。湯気が立ちのぼり、胃袋を刺激する。


「うわ、めっちゃ立派な家じゃん。寺の境内みたいに登山道が庭を通るパターンか?」


「失礼します! ハイカーです!」


 声をかけ、庭を横切る。

 キッチンの窓から見えるテーブルには、4、5人分の食事が並ぶ。パンに、スープに、ムニエル、サラダ。ほーっくとナイフとスプーンがぞれぞれ人数分並べてある。料理からは湯気がふわりと立って穏やかな昼餉が始まりそうな気配。


 「料理上手そうだな、めっちゃうまそうなんだけど。それにしても人はどこにいるんだ?」


 そのとき、白いワンピースの女の子が敬太の目の前をふわっと駆け抜けた。

 肩までの髪が揺れ、笑い声が風に溶ける。


 さっきの声の子だ。

 でも、大人はどこだ?


「あ、お邪魔させてもらっています」


 と、呼びかけるが、女の子は聞こえないのか振り返りもせず家の裏へ消える。

 「なんだ、愛想もないなあ」」首をかしげつつも、庭を抜け、登山道を再び登った。


 急坂を超えて山頂に着く。

 眼下に広がるのは木梨村……のはずだが、様子が違う。


「……こんなデカい村だったっけ?」


 コンビニの看板、アスファルトの駐車場。完全に町だ。

 持って来た玉子のサンドイッチを食べつつ、苔むした小さな祠を見つけた。

 中の石には「鬼無山」と彫られ、赤い染みが薄く残っている。


鬼無山きなしやま? 木梨山きなしじゃなくて? ……まあ、鬼がいないなら平和ってことか」


 独り言を呟いて下山を始める。


 来た道を戻るだけのはずなのに、景色が微妙に違う。

 草の茂り方、踏み跡の形がさっきよりスッキリしている。


「あの家、どこだっけ? 黒い門の……」


 庭の池も、鯉も、キッチンの湯気も。

 そこは雑木林で、ただの湿った土の匂いがする。


「……マジかよ。ピストンコース行と帰りが同じ道なのに、道間違えた? いや、ありえねえだろ!」


 アプリを開くと、あの家のマークは消えていた。

 背筋に冷たいものが走る。

 耳の奥で、妹の声に似た笑い声が響いた気がした。


「いやいや、考えすぎだ。疲れてるだけだろ、俺」


 夕暮れが迫る頃、ようやく麓へたどり着く。

 だが目の前の看板には、見慣れた「木梨村」ではなく「山形町」と書かれていた。


「……は? 山形町? 俺、どこ下りてきたんだよ」


 地図で見ると、木梨村から5キロ以上離れている。

 バスはもうない。仕方なく、山形町で唯一の旅館「山形荘」へ駆け込む。


 赤い提灯がゆれる古びた木造の建物。

 カウンターに立つ女将は六十代くらい。着物の袖は擦り切れているが、笑顔は温かい。


「いらっしゃい。お一人様?」


「はい、泊まれますか? 木梨山登ってたら……道、間違えたみたいで」


「木梨山? ほお、珍しいね。あの山、誰も登らんよ。登山道も荒れてるって聞くけど」


「いや、整備されてましたけど……それに、変な家を見たんです。黒い門で、庭に池があって」


 女将の手がピタリと止まる。

 目が一瞬だけ鋭く光る。


「……家? あの辺りに家なんてないよ。昔は鬼無山おになしやまって呼ばれてたけど、まあ妙な噂はあったね」


「あれはってよむのか、で、妙な噂とは?」


「迷い家ってやつさ。欲を満たすけど、大事なものを奪うって。……ま、昔話ね」


 女将は急に声を柔らかくした。

 敬太は笑ってごまかす。


「はは、怖いっすね。でも、もう疲れたんで、部屋お願いします」


「はいはい、二〇五号室よ。夕飯は七時ね。ゆっくり休んで」


 畳の匂いが懐かしい部屋に入る。

 ザックを下ろし、サイドポケットを探る指先につるりと細いものの感触が走った。


 取り出すと、それは赤い漆塗りの箸が一膳。


「……なんだ、これ。俺、こんなの持ってもねえし、まさかで。、拾ってもねえぞ」


 心臓が跳ねる。

 あの家のキッチンのテーブルには、スプーンとフォークしか並んでなかったけどな。

 それなのに、この赤い箸は……


 妹が泣きながら言った言葉が蘇る。


「お兄ちゃん、捨ててよ。怖いから」


 窓の外、遠くの山が夕闇に沈む。

 木梨山か、鬼無山か、もうわからない。


 敬太の手の中で、赤い箸がほのかに温かくなった。

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