第9話 Escape


追跡は難航した。

ONGR――表向きは「穏やかな米研究機関」、その実態は国際的な裏社会の均衡を保つための機密情報を扱う組織――の命運を握るUSBメモリは、今や一匹の黒き猫の胃袋の中にあった。湖と咲川は、もはや静寂とは無縁になったアパートを、縦横無尽に駆け巡るトマトを追った。トマトはまるで、オリンピックの金メダリストがトラックを一周するかのごとく、卓越した身体能力で二人の追跡をかわしていく。


「あいつ、どこでそんな俊敏さを身につけたんや!」


咲川がソファを飛び越えながら吼えた。その声には焦燥と、僅かながら呆れが混じっていた。湖は、壁に飾られたエキゾチックなタペストリーが、まるでこの緊迫した状況を滑稽に映し出しているかのように揺れているのを見た。


「いつも寝てばかりなのに!まさかこれも···ONGRの極秘訓練なのかしら···?」


湖の言葉に、咲川は思わず「バカな!」と叫びそうになったが、口から出たのはただの唸り声だった。吐かせようにも、トマトは賢い。あるいは、ただの食いしん坊なだけかもしれないが。

キッチンでは、トマトがテーブルの下に潜り込み、その小さな体を巧みに利用して障害物をすり抜ける。湖が追いつめようとすると、まるで手品のように逆方向に飛び出す。リビングでは、カーテンによじ登り、上から二人を見下ろす余裕まで見せた。


「あの目……まるで、こちらが“ターゲット”だと言いたげだ!」


咲川が息を切らしながら言った。確かに、トマトのマスカット色の瞳は、いつになく鋭い光を放っているように見えた。もしかしたら、USBメモリから漏れ出たONGRのデータが、彼の脳に何らかの変化をもたらしたのかもしれない。猫がハッキング能力を身につける。そんな事態が、まさかこの穏やかな中東の湖畔で起きるとは。


「こうなったら、ファイナルウェポン、紀州のウメボシ!」


咲川は不意に立ち止まり、ポケットから何か種のようなものを取り出した。それは、ONGRの人間にはお馴染みの、あらゆる状況に対応可能な「万能ツール」だった。しかし、咲川が取り出したのは、工具でもなく、銃でもなく、ウメボシ型のレーザーポインターだった。


「咲さん、まさか……」


湖の予感は的中した。咲川はウメボシのスイッチを押し、紫蘇色の光点が壁を走り抜ける。途端に、それまで二人を翻弄していたトマトの目が、その赤い点に釘付けになった。彼の野生が、好奇心が、その一点に集中する。

トマトは赤い光を追いかけ、無我夢中で駆け出した。その動きはもはや、機密データを飲み込んだ猫のそれではなく、ただひたすらに遊びに夢中な普通の猫だった。レーザーポインターの光は、キッチンの隅へと誘導され、そこにはトマトのお気に入りの海苔が置かれている。


「よし、今や!」


咲川と湖は、赤い光に夢中になっているトマトに、同時に飛びかかった。この一瞬が、世界の命運を分けるかもしれない。そう思うと、二人の手には、じんわりと冷たい汗がにじんだ。

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