第10話 抵抗

「咲ちん、ナイス!」


湖が叫んだ。トマトは海苔の誘惑とレーザーポインターの魔法に抗えず、無防備にも身を委ねていた。その瞬間、咲川の腕が伸び、トマトの脇腹をそっと――しかし確実に――掴んだ。猫の体温が掌に伝わる。柔らかい毛の感触。次の瞬間、咲川は迷うことなく、もう一方の手に持っていた小さなゴム手袋をはめ、慎重にトマトの口を開かせた。


「観念しな、トマト。君のお腹の中に、世界を救う鍵があるんだ」


湖は固唾を飲んで見守る。トマトの瞳はまだ赤一点に釘付けだ。しかし、喉の奥には確かに、黒光りする小さな塊が見えた。咲川はピンセットを取り出すと、まるで精密機械を扱うかのように、慎重にそれを摘み出す。


「あった……!」


USBメモリが光を反射して、二人の顔を照らす。その時、トマトが突如として大きく身をよじった。


「にゃああああああああああああああああああ!」


という、どこか不満げな、しかし明らかに機嫌を損ねた鳴き声が響き渡る。咲川の手から、するりとUSBメモリが滑り落ち、そのまま床を転がって、冷蔵庫の下へと消えた。


「嘘だろ、トマトぉ!」


咲川の悲鳴がアパートに木霊した。世界の命運は、再び、冷蔵庫の隙間の暗闇へと吸い込まれていく。



「トマトォ!」



咲川の悲鳴は、精密に計算された音響効果のようにアパート中に響き渡った。それは絶望と、若干の滑稽さを帯びていた。


湖は、口を開けたまま固まっている。まるで彫刻家が「これで完成」と満足げにノミを置いたかのような、完璧なフリーズだった。


USBメモリは、まるで意思を持ったかのように、いや、実際、猫の不機嫌という確固たる意思によって、冷蔵庫の隙間へと吸い込まれていった。


そこは、世界中のなくし物が最後に辿り着くという都市伝説の終着点、あるいは宇宙の片隅にあるブラックホールのような場所だった。


「どうする、咲ちん!」


湖がようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。まるで何日も砂漠をさまよった旅人のようだった。

咲川は、床に膝をついたまま、呆然と冷蔵庫を見つめている。その視線は、そこに世界の、いや宇宙の真理が隠されているかのような真剣さだった。しかし、隠されているのは真理ではなく、たった一つのUSBメモリだ。そしてそれは、つい数秒前まで猫の消化器官の中にあったという、いささか不潔な代物でもあった。


「どうするって言われても……」


咲川は、深海に沈む宝を探すダイバーのように、冷蔵庫の下を覗き込んだ。そこには、埃と、おそらく過去に失われた爪楊枝数本と、そして暗闇が広がっているだけだった。文明の利器が、無情にもそこに拒絶の壁を築いている。


その時、トマトが「にゃ」と一声鳴いた。その声は、どこか得意げで、あるいは


「私をこんな目に遭わせた報いだ」


と言わんばかりの響きがあった。湖は、その猫を睨みつける。


「トマト、わざとやったね!」


しかし、トマトは涼しい顔で、再びレーザーポインターの赤い光を追いかけ始めた。世界の命運が暗闇に消えようと、猫にとってはレーザーポインターこそが世界の主たるものなのだ。


咲川は立ち上がり、大きくため息をついた。その顔には、疲労と、そして諦めともとれる表情が浮かんでいる。


「まぁ、仕方ない」


咲川は言った。


「もう一度、あの男に連絡するか」


「あの男?」湖が眉をひそめる。


「ああ」咲川は頷いた。


「冷蔵庫のスキマ専門の、ちょっとしたプロがいるんだ。腕は確かだが、報酬が高い。そして何より、彼が関わると、なぜかいつも余計なトラブルがついてくる」


世界を救う鍵は冷蔵庫の下にあり、それを回収するためには、さらなる厄介事が伴うらしい。湖は深いため息をついた。世界の平和とは、かくも面倒なものなのかと。


「その男の名前は?」


湖が尋ねた。


咲川は、天竺を眺めるかのような遠い目をして、ぼそりと呟く。


「…『なんでも屋』のミスター·オールマイティだ」


その言葉を聞いた瞬間、湖の顔が青ざめた。オールマイティという男が、いかに厄介な人物であるか、湖は過去の経験から嫌というほど知っていたからだ。しかし、選択肢はない。世界の命運は、今や「なんでも屋」オールマイティと、その彼が連れてくるであろう新たなトラブルに委ねられることになった。



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