19.キャラロスト

 ――《VOIDLINE》三十四日目、午後。


 今日は静かな日だった。

 素材調達の依頼も、装備のメンテナンスもひと段落していて、久しぶりに自分の時間が取れていた。


 クラブハウスの一階ロビーに設置された小さなベンチ。

 そこで一人、スマホの画面を見つめながら、配信管理アプリのログを確認していた。


 今月の配信時間は、27時間05分。

 初めの月のノルマが終わり、また次の200時間のカウントが始まっている。


(……今月は順調、だな)


 まだ四日目だが、ひと月目と比べると順調そのもの。

 つまり、普段開かないアプリを開いたのは、自分の配信を確認するためではない。


「ついに、今日か――」


 ――今日が、ルオの“ログイン開始から三十日目”。


 あの日、一緒に森へ行った探索仲間。

 そして、あの声を聞いたとき、別の道を選んだプレイヤー。


 《VOIDLINE》のルールでは、月間配信が200時間に満たなければ、そのキャラクターは削除される。

 いわゆる“キャラロスト”だ。


 ルオがこの世界に来たのは、ちょうど三十日前。

 その後、一緒に採取に向かった日を最後に、彼のアイコンは一度も緑色になっていない。


(たぶん……今日が、最後のリミットだ)


 送ったメッセージは既読にならず、未読がずっと積もったままだ。

 けれど、なぜか“終わる”という実感が湧かなかった。


 いや――そう思いたくなかっただけなのかもしれない。


 その時だった。


 ピロン 


 スマホが、短く震えた。


 最初はギルド関連の通知かと思った。

 けれど、画面の上に浮かんだ名前に、息が詰まった。


「ルオ」


 一度も既読にならなかったはずの、その名前。


 そして、届いたメッセージは――たった一行。


 >《19時、ハニアサルン裏手の中庭。ひとりで来てほしい》


 短い文面。何の飾り気もない。

 ただ、そこにあるのは“意思”だった。


「……今さら……」


 思わずつぶやいた声が、ロビーの静けさに落ちた。


 返すべきか、無視すべきか。

 どちらも正解に思えたし、どちらも間違いに思えた。


 迷っていると――背後から声がかかった。


「ダイト?ここにいたんだ」


 振り返ると、階段を下りてきたユイナがいた。


「あ、はい。少し……考えごとしてて」

「顔、ちょっと暗かったよ。大丈夫?」

「……すみません、心配かけて。大丈夫です」


 気づかれないようにスマホを伏せたが、ユイナは俺の表情をじっと見ていた。


「なにか気になること、あるなら言ってね?私でよければ、話聞くからさ」

「ありがとうございます……でも、これは俺の問題なので」


 そう答えると、ユイナは少しだけ眉をひそめたが、すぐに笑って軽く肩をすくめた。


「そっか。じゃあ、“今は”聞かないことにするね。でも、戻ってきたらちゃんと顔見せてよ?」

「……はい」


 俺は、約束の時間が近付くと、クラブハウスを離れて、指定された場所へと歩を進める。


 街の裏手の中庭まで、あと少し。

 夕暮れが始まる頃、光と影の輪郭が曖昧になっていく時間。


 もし、あの時と同じように、彼が“選ぼう”としているなら――

 それを見届ける責任くらい、俺にもあるはずだ。


 街の中心を外れ、裏手のほうへと足を運ぶ。


 夕暮れが進み、影が少しずつ長くなっていた。

 店の灯りがぽつぽつと点き始める時刻――それでも、この中庭には人の気配がなかった。


 古びた噴水と、石畳に囲まれた静かな空間。

 時折、風が葉を揺らす音だけが響いていた。


 ――そして、その中央に立っていたのは、ルオだった。


 最初に思ったのは、彼の姿が“少しだけ縮んで見えた”ということ。

 やつれた顔つき、目の下のくま、姿勢のゆるさ。

 かつて森を共に歩いた時の、あの張り詰めた雰囲気とは、まるで別人のようだった。


「……来てくれたんだな」


 その声は、驚くほど小さく、弱々しかった。


「……メッセージ、ありがとう。返事、くれてよかった」


 俺がそう言うと、ルオはわずかに目を伏せ、噴水の縁に腰を下ろした。


「ほんとは、ずっと返すつもりなかった」

「……知ってます。未読のままだったから」


 笑ってみせようとしたが、うまくいかなかった。


 俺も、彼も、余計な言葉を探すだけの余裕はなかった。


「なんて言えばいいか……分からなくてさ。ずっと」


 ルオは空を見上げる。

 薄い雲の切れ間から、わずかに夕焼けが覗いていた。


「……この世界に来たとき、少しはやれるかもって思ったんだ。最初は楽しかった。探索も、素材集めも、全部が」


 言葉を切りながら、ルオはゆっくりと続けた。


「でも……気づいたら、周りの目ばっかり気にしてることに気付いた。何かをするたびに、“それがどう見えるか”ばかり考えてた」

「……」

「そうやって、自分を守ってたつもりだった。でも……森で、君が一人で走っていったとき、分かったんだ」


 ルオの視線が、こちらに向けられる。


「――本当は、ずっと羨ましかったんだ。俺には、できなかったから」


 その言葉に、何も返せなかった。


 あのとき、彼は“戻る”という選択をした。

 でも、心のどこかで、それを誇れるものとして持ち続けることができなかった。


「俺は、逃げた。君の判断を信じられなかったし、何より……自分の目で“選ぶ”勇気がなかった」


 ルオは拳を握り、静かに続ける。


「俺は、コメントをずっと気にしてた。“やめとけ”って、“お前には無理”って、そういうのばっか見てた。――見なきゃよかったのに」


 その呟きに、痛みが混ざっていた。


 《VOIDLINE》は、常に見られている世界だ。

 それはある意味でチャンスでもあるが、同時に、容赦のない“晒し”でもある。


「誰も、ほんとうには俺を見てなかったよ。ただ、何となく眺められてただけ。……俺自身のことなんか、誰も」

「……俺は」


 口を開きかけたが、言葉が出なかった。


 ルオは、そんな俺の反応に対して、怒ったりはしなかった。

 ただ、寂しそうに、笑った。


「わかってる。君は違う。君だけは、あのとき……ちゃんと俺を見てくれてた。だから、ここに呼んだんだ。最後に……お前の顔だけは、見ておきたくて」


 “最後に”――その言葉が、重くのしかかる。


「……ルオさん。掛け合えば、今からでももしかしたら――」

「……無理だよ。もう、疲れた」


 言い切るように、でもどこか穏やかに、ルオは立ち上がった。


 俺は立ち尽くす。何も、できない。


 彼は、歩き出す前に、ふとこちらを振り返った。


「お前は、お前を信じろよ。……少なくとも、それができるやつなんだから」


 そう言って、ルオは背を向ける。

 夕暮れの中、その姿はやがて闇に紛れるようにして消えていった。



――――――



 どれくらい経っただろうか。

 気づけば、空はすっかり夕闇に染まっていた。


 ルオの姿は、もうどこにもない。

 森の中で最後に見た背中――あのときと同じように、ただ静かに去っていった。


 おそらく、彼はもう……この世界にはいない。


 俺は噴水の縁に腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出す。

 ルオとのメッセージ欄には、俺が一方的に送りつけたメッセージと、そして最後のやり取り。


(……本当に、終わったんだな)


 思っていたよりも、感情は静かだった。

 けれどその静けさは、何かを飲み込んだ後の“深さ”のように感じられた。


 誰かにとっては、ただのプレイヤーの脱落かもしれない。

 けれど、俺にとっては――

 確かにここに存在していた、一人の仲間だった。


 彼が残した言葉が、何度も脳裏に響く。


 >「お前は、お前を信じろよ」


 自分を信じる。

 簡単なようでいて、最も難しいことだ。


 でも、彼は最後の最後に、それを俺に託してくれた。

 言い換えれば、それは彼自身が果たせなかった“願い”を、誰かに託したようなものだった。


(……俺にできるだろうか)


 その問いはまだ重い。

 それでも、前よりはほんの少しだけ、答えに近づけた気がした。


 遠くで鐘の音が鳴る。

 街に夜が訪れる合図だった。


 俺はゆっくりと立ち上がり、スマホの画面を閉じる。


 《VOIDLINE》という世界は、いつだって無言で問いかけてくる。

 「選べ」と、「歩め」と。


 答えは、きっとすぐには出ない。

 でも、選び続けることだけは――俺にもできるはずだ。


 帰り道、空を見上げる。


 暗くなった空の中、雲の切れ間から、ひとつだけ星が顔を出していた。


 その小さな光は、まるで彼の”願い“が空に残ったみたいに、かすかだけど、確かにそこにあった。


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VOIDLINE:断絶の幻想――死んだら終わりのVRMMOで、俺は薬師として生きる 諏維 @indigo-999

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