12.誰かのために

 ――《VOIDLINE》十六日目。朝。


 いつもと同じように目を覚まし、宿の自室の一角で軽く身体をほぐしてから、俺はスマホを手に取る。


 未読のままのメッセージ。

 送り先は、ルオ。


(……やっぱり、変わらないか)


 既読通知がつくことも、返事が返ってくることもない。

 あれ以来、彼の姿は見ておらず、見かけたという噂すら聞かなくなった。

 月200時間の配信ノルマは、もう達成不可能なはずだ。


(このままだと……キャラロスト、か)


 この世界の“ルオ”は消えてしまう。

 記憶の中だけに残る存在になる。

 そんなことを考えながら、俺はスマホの画面をそっと閉じた。


 そのとき、扉がノックされる音が響いた。


「おーい、ダイトくん。いるー?」


 くぐもった声に返事を返すと、ノックの主――ハヤトさんがドアを開けた。

 ハヤトさんと彼の妹のユイナは、ギルドで顔を合わせるたびに話をするようになった。

 今やお互いの拠点としている宿すら知る、顔見知り以上の存在だ。


「おはようございます、ハヤトさん」

「やっぱり早起きだなー。さすが《讃美歌》で見習いしてたクラフター!」


 快活な笑みとともに、彼は一枚の書類のようなものを取り出した。


「これ、前言ってたやつ。名前は……まだ仮だけど、《火群(ほむら)》っていうのを考えてる」

「……傭兵団、ですか」

「うん。まだ正式登録前だけど、集まりは結構いい感じでさ。で、もしよかったら……クラフターとして、専属でうちに来てくれないかなって」


 意外だった。

 けれど同時に、どこかで――こういう誘いが来る気がしていた。


「急ぎじゃないけど、考えてみてよ。ダイトくんなら歓迎するからさ」


 そう言って、ハヤトさんは軽く手を振って去っていった。

 残された書類には、ギルド設立予定者と、仮登録メンバーの名前。

 その末尾には、俺の名前が記入できる空欄があった。


(……新しい道、か)


 俺は書類をそっとテーブルに置き、深く息を吐いた。


 その後、体力回復薬の作成や素材の補充といった毎日のルーティンを済ませた後、俺は一週間以上ぶりに、《讃美歌》のクラブハウスを訪ねた。

 一つ大きく深呼吸してから、扉をゆっくりと押し開ける。


「……こんにちは。お邪魔します」


 中は相変わらず賑やかだった。

 作業場の奥からはノラさんの弾むような声が聞こえ、談話スペースでは誰かが冗談を飛ばしている。


 俺がいたのは、ほんの一週間前のはずなのに、まるで時間の流れが違う場所のような感覚に襲われる。


「お、来たか、ダイト!」


 声をかけてきたのは、エドさんだった。

 相変わらず腕まくり姿で、作業台の横に立っている。


「どうした、珍しいな。てっきりどっかの傭兵団所属すると思ってたけど、フリーでやってんだって?」

「はい。まだ、ちょっと迷ってて……今日は、少しだけ相談があって」


 俺の言葉に、エドさんは眉をひそめた。

 俺が真剣な顔をしていることに気づいたのだろう。


「……ちょっと、こっち来な。ムギも呼ぶか」


 エドさんは作業場の方に声をかけ、やがてムギさんも現れる。


「おひさ~、ダイトくん。野良クラフター生活はどう?そろそろ私たちが恋しくなった頃でしょ?」


 軽口を叩くムギさんに、思わず笑ってしまいそうになる。


「ちょっとだけ、そんな気がしてるかもしれません」


 ソファに腰を下ろし、俺は意を決して切り出した。


「ルオさんのこと、なんですけど……あれから、一度も来てなくて。このままだと、多分……」


 ムギさんが表情を曇らせ、エドさんは腕を組んだまま沈黙する。


「……この街でも噂になってるが、どうやらあいつが“見捨てた”って話になってるみたいだな。俺にもちょっとだけ、耳に入ったが……」


 静かな声でエドさんが言う。


「本人が何か悪いことをしたわけじゃない。でも、それが許されない空気ってのも、ある。特に“あの世界”じゃな」


 ムギさんが、苦笑混じりに付け加える。


「結局、選択の問題なんだよね。正しいか間違ってたかなんて、他人が決めることじゃない。でも“見られてる”ってことは、“判断される”ってことでもある」

「俺、メッセージを送ったんです。でも、未読のままで……」


 自分で言いながら、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 しばらくの沈黙が流れたあと、ムギさんがぽつりと呟く。


「でもさ、それでもメッセージを送れたって、すごいことだよ。ダイトくんは、ちゃんと向き合ったんだよ。彼と、そして自分と」

「……それが、何かを変えられるかどうかは別だけどな」


 エドさんの言葉に、俺はただ、小さく頷いた。


「……ところで、ティネのこと。覚えてるか?」


 唐突に話題を切り替えたのは、エドさんだった。


「この前、薬の配達に行ったついでに、ちょっとだけ話してな。母親の具合、あまり良くないみたいだ。お前、顔出してやればきっと喜ぶぞ」

「母親……そういえば、病気ってティネが……」

「今は寝たきりだが、意思疎通はできるみたいだ。母親から“お礼を言いたがってた”って伝言、預かってる」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……行ってきます」

「気をつけてな。場所、分かるか?」

「はい。ティネに聞いたんで、多分大丈夫です」


 軽く頭を下げて、俺は《讃美歌》のクラブハウスを後にした。



――――――



 小さな坂を下った先の路地。

 ひときわ古く、それでいて大きな木造の家。

 おそらくティネのであろう家の扉の前に立ち、俺はゆっくりと呼吸を整えた。


(緊張してる場合じゃない)


 ノックの音に応じて出てきたのは、あのときと同じ少年――ティネだった。

 俺の顔を見ると、ぱっと目を輝かせる。


「ダイトおにいちゃん!来てくれたんだ!」

「うん。急に来ちゃってごめんね」

「ううん、お母さんも会いたいって。中、どうぞ!」


 案内された部屋の中は、質素ながらも清潔に保たれていた。

 日差しが差し込む窓辺の寝台に、痩せた女性が横たわっている。

 年齢は三十代後半くらいだろうか。

 頬がややこけているが、穏やかな表情が印象的だった。


「……あなたが、ダイトさん、ね」


 弱々しいが、はっきりとした声だった。


「ティネが、あなたのことをたくさん話していたわ。……命の恩人です。本当に、ありがとうございます」

「い、いえ……俺は、たまたま通りかかっただけで……それに、助けられたのはこっちの方で……」


 気恥ずかしくて目を逸らしかけたとき、彼女がふと話題を変えた。


「ティネが持ち帰ってきた“導草”。ギルドが魔力回復薬に調合してくれて。とても良く効いたわ。……あなたも薬師、なの?」

「はい。登録されたばかりで……まだまだ未熟ですけど」


 言ってから、なんだか頼りない自己紹介だと思った。

 でも、それが今の”俺“だ。


 そんな俺に、彼女は微笑みながら言った。


「なら、これを預かっていただけるかしら?」


 そう言って、彼女がそっと手渡してきたのは、布に包まれた小さな木箱だった。


「これは……?」

「夫の形見、なんです。彼は、薬師ギルドに長く勤めていて。これが、最後に持ち帰ってきた“素材”。けれど……ギルドでも正体がわからず、結局、しまわれたままになっていました」


 開けてみると、中には――琥珀のように透き通った、赤紫色の結晶がひとつだけ収められていた。


 光を当てると、内部で微かに“魔力の揺らぎ”のようなものが脈打っている。


(……魔石? いや、でも……何かが違う)


 形状や色のせいじゃない。

 それは、もっと根源的な“違和感”だった。


「……そんな、大切なものを、俺に……?」


 思わず口に出していた。


 彼女の微笑みは崩れなかった。


「あなたに託したいのです。――ティネが、あなたに救われたことは、きっと偶然じゃないと思うから」


(偶然、じゃない……)


 その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まる。


 俺は――まだ何者でもない。

 戦いもできず、薬だって、せいぜい中等ランク程度しか作れないクラフターで、しかも渡り人で。


 そんな俺が、この結晶の謎を解ける日は来るのだろうか。


(……それでも)


「……解析できるかは、わかりません。でも、預からせてください。……責任を持って、大切にします」


 自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。


 彼女は、穏やかに頷いた。


「ええ。きっと、そうなると思ってた」



 その後、ティネと少し話をしてから、家を辞し、ゆるやかな坂道を登りながら、俺は先ほど手渡された小箱を何度も見つめていた。


 布越しに伝わってくる結晶の重みは、ただの物質の重さではなかった。


(……偶然じゃない、か)


 彼女の言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 俺は本当に、この世界で、誰かの役に立てているのだろうか。

 ……その問いに、少しだけ”肯定“してもいい気がしていた。


 《讃美歌》を卒業してからの約一週間。

 どこにも属さず、誰にも頼らず、ただ自分のペースで薬を作り、素材を集めていた。


 でも、それは本当に“独りでいること”を選んでいたのだろうか。


 胸ポケットから、今朝ハヤトさんに渡された書類を取り出す。

 仮登録の紙。末尾には、空白のままの名前欄――。


(……俺は、もう“見習い”じゃない)


 何かを守りたい、と思った。

 ティネのような誰かを、薬ひとつで救えるなら、そのためにもっと上手くなりたいと、心からそう思った。


 そのために――俺には、拠点が要る。

 共に動ける仲間と、腕を試せる環境と、支え合える場所が。


(なら……)


 書類の末尾に、俺は小さく自分の名前を記した。

 それは、ひとつの区切りであり、はじまりでもあった。



――――――



 その夕方、ハヤトさんのもとを訪ねると、彼はすぐに笑顔で迎えてくれた。


「よしっ!じゃあ、これで正式に《火群》の薬師、ひとり確保だな!」

「……あまり、戦力にはならないかもしれませんけど」

「いやいや、戦えるだけが傭兵じゃない。クラフターがいることで、どれだけ助かると思ってるか!」


 そう言って、彼は豪快に笑った。


 宿の食堂で書類を提出し終えると、不意に背後から声がした。


「うわ〜っ、ほんとに入ってくれたんだ!やったぁ!」


 振り向くと、ユイナが手をひらひらと振りながら近づいてくる。

 以前よりも声のボリュームは抑えめで、どこか落ち着いた雰囲気も混じっていた。


「クラフターさんが入ると、うちのバランスが一気に良くなるんだよね。あたし的には、すごく嬉しいニュースなんだよ?」


 いたずらっぽくウインクしながら、彼女は言葉を続ける。


「なんかさ、ダイトが作る薬って、やさしそうな感じがするんだよね〜。ピリピリしてる時でも、ホッとできそうな……うん、そういうの、すっごく大事だと思うの」


 前よりもずっと柔らかく、そして思いやりのある言い回しだった。


「……優しい、薬」


 その言葉に、胸の奥にふっとあたたかい火が灯るのを感じた。


「こっちこそ、よろしくね。困ったことがあったら、あたしにすぐ言ってね?」


 そう言って手を差し出してくるユイナに、俺も自然と笑って応えた。


「……はい。頼りにしてます」


 握手した手は、思ったよりも力強かった。


(これから、俺もこの場所で――)


 この世界で、自分にできること。

 自分にしかできないこと。


 少しずつ、その形が見えてきた気がした。


「明日から頼りにしてるからねっ。……優しい薬、期待してますっ」


 最後はおどけるように両手を挙げて笑うユイナに、俺は思わず吹き出しそうになった。


 ――こうして、《火群》のクラフター・ダイトとしての、新しい日々が始まった。

 だが、その足元には、まだ誰も知らない“揺らぎ”の兆しが確かに潜んでいた。



――――――



【Side:運営】


 多数のモニターが低く唸りを上げ、淡い光が部屋の空気を青白く染めていた。

 中央のガラス張りのデスクには、前回と同じふたりの男が腰掛けている。

 一人はシャツの襟元を緩め、画面を注視しながら、ぼそりと呟いた。


「……また、か」

「どれだ?」


 年長の男が言葉少なに尋ねると、若い男が数枚のウィンドウを呼び出す。


「クラフターの内部ログ。“YNG-0461-DT”――ヤナグレイヴ。第三期の新人です。クラフト時の魔力波形が一部異常。それだけなら誤差で済むんですが、今回は“素材”の反応値が明らかにおかしい。未登録、かつ変質記録あり」

「未登録……?」

「はい。ユーザー編集の痕跡はありません。完全な“タグなし”です」


 年長の男は、無言で腕を組んだ。

 静かに椅子の背に体を預ける。


「……現地素材か?」

「たぶん。それも、我々の想定外の。“地表スキャンの範囲外”かもしれません」


 つまり、それはこの世界の“バグ”ではなく、運営の“想定外の自然物”である可能性を示している。

 年長の男は低く、ほとんど囁くように呟いた。


「……また、“揺らぎ”か」


 モニターに映るのは、採取と調合を丁寧に繰り返す、ひとりの青年の映像。

 派手さはないが、妙に慎重で、どこか“癖”のある作業の流れだった。


「名前に覚えは?」

「ないです。配信も地味。平均同接、30人前後。ほとんど埋もれかけの部類です」

「……なら、逆に放ってはおけんな」


 小さな沈黙ののち、年長の男が短く指示を出す。


「監視フラグを――Level 1に。目立たないように」

「了解。……一応、経過観察ということで」


 ウィンドウ右上、ステータスバーの一角に、小さな警告が追加された。


《観測対象フラグ:L1(未解析素材関連)》


 再び室内を包む、サーバーの電子音。

 ログの海に消えかけた微細な“揺らぎ”は、確かに記録された。

 そしてそれは、運営が予期せぬ“物語の兆し”の一端かもしれなかった。


「……こういう静かな始まりが、一番やっかいなんだよな」


 そうぼやいた年長の男の声を、誰も聞く者はいなかった。



【あとがき】

 読んでいただき、ありがとうございます!

 本話が第1章最終話です!


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