この腕が燃え尽きても、君の父になりたい
トウガイ(灯亥)
第一章 捨てられた子供と生き残った子供
第1話 赤いマフラーと黄色の野花
昨夜から曇った空は、春を告げる三月だというのに街の上に雪を降らせていた。その雪は灰色よりも
普段なら街を
突然の降雪で数分の遅延が発生しているようだった。僕は深く息を吸って吐き出した。仕方がない、と思いながら雪に覆われた街を眺めた。
前方には高層ビルが
今年の春も例年と同じように、巨木から咲く数百万の花びらによって、都心から半径十キロ圏内には花粉飛散警報が出される予定だ。そう予想していた割に、なぜか三月に入ってもまだ積雪注意報が出されている。春を楽しみにしている人々には気の毒な話かもしれない。受験生である僕にとっては、残念ながら試験当日の朝に雪が降っている時点で邪魔に感じるだけだった。
「いらっしゃいませ——」
眠そうなアルバイト店員の声を背中に聞きながら、僕は早速おにぎりコーナーに向かった。最近、唯一の楽しみといっても過言ではないほど、朝と昼に『大きな鮭はらみおにぎり』を食べることに夢中になっている。
他のおにぎりと違って、大きな鮭はらみおにぎりは三日連続で食べても全く飽きなかった。魅力はその充実した味にあった。初めて一口かじった時、舌先に伝わる鮭はらみの脂ともっちりしたお米の食感に驚き、噛めば噛むほど濃くなる味にさらに驚かされる。ここに加えて、おにぎりでのどが詰まった時に牛乳をごくごくと飲み干すのが重要なポイントだ。少し塩味が中和された状態でもう一度おにぎりを口に入れることで、口の中からのどの奥まで滑らかに流れ込み、胃に到達した時の満足感が全身に広がる。
もちろん、今の話はあくまで個人的な好みに過ぎない。しかし、牛乳は米の味を水のように流してしまわず、炭酸飲料のように味を消してしまうこともなく、本来持つ甘みを引き出す力がある。
他のメニューでは味わえない食感を味わってしまった以上、僕の体は毎食この組み合わせしか受け付けなくなってしまった。さらに、普段は百九十二円だった大きな鮭はらみおにぎりが、今月に入ってから割引セールの影響で九十九円に値下げされている。これだけの理由があれば、大きな鮭はらみおにぎりと牛乳を選ぶ理由は十分だった。
人間とは奇妙なものだ。人生の重大な瞬間を前にして、僕はおにぎりのことばかり考えていた。まるで、これから起こる出来事から目を逸らすかのごとく。
「ポイントカードと袋はいりますか?」
「いえ、いりません。お会計はSuicaで」
僕はレジで会計中の客を通り過ぎ、正面に見えるおにぎりコーナーに目を向けた。コンビニに入った瞬間から、これから買うおにぎりを大きく一口かじる想像をして、口の端からよだれが垂れそうになった。早く食べたい気持ちで胸が
しかし、おにぎりコーナーは空っぽだった。大丈夫だ、とまだ整理されていない在庫の箱を眺めながら、僕は希望を抱いた。アルバイト店員に気づかれないよう青い箱に目を向けて中身を確認する。ちらっと見た限り、『大きな鮭はらみおにぎり』の品出しはまだのようだ。仕方がない、と失望しながら、残っていた卵入りサンドイッチを一つ手に取ってかごに入れた。
そして——人生の転換点は常に突如として訪れる——子供の声が聞こえた。
「パゥパあぁ——」
牛乳を買いに向かった先で、ある少女がドリンクコーナーのガラスに顔を押し付けて中を眺めていた。親らしい大人の姿は周りには見当たらなかった。
僕は少女の隣に行き、しばらく様子を見た。ボロボロになった服装で、靴も履いていない素足は赤紫色に腫れ上がっている。頬はあかぎれを起こし、爪は血の気を失って白く濁り、足は
まだ薄暗い夜明けの時間帯に、子供が一人でコンビニの中を自由に歩き回っている。上着を着ている僕でさえ、寒さが骨に染みる天気だ。さすがに女の子一人で、保護者もなくコンビニをさまようのはおかしな状況だ。
したがって、疑う余地もなく、この子は十中八九、親に見放された捨て子——つまり、ノバナだ。僕は声を殺して一人でつぶやいた。
まさにこの時、僕の心に二つの声が響いた。一つは冷静な理性の声——「関わるな。今日はガーデンズ学園の受験日だ。お前の未来がかかっている」。もう一つは、もっと深い場所から聞こえる声——「この子を見捨てるのか?」
人間の良心とは、時に最も不都合なタイミングで目覚めるものだ。
長く見つめていたせいか、僕の視線に気づいたその子と目が合った。青緑色で薄く輝く珍しい瞳を持っている。だめだ、と僕は自分に言い聞かせた。せっかく休みをもらって準備したガーデンズ学園の受験だ。余計な仕事を増やしては
女の子の瞳の中に、僕は何かを見た。それは希望でも絶望でもなく、ただ純粋な、人間としての存在の証だった。少女は僕に何も求めていない。ただ、そこにいるだけだ。しかし、その「ただ、そこにいる」ということが、僕の心を激しく揺さぶった。
「すみません、何か問題でもありますでしょうか?」
レジに立っていた若いアルバイト店員が、在庫のチェックリストを手に持ち、僕の方に近づいてきた。制服のネームプレートには『星野』と書かれている。
「ノバナが店内にいます。かなり前からいたようですが、何か対応した方がいいでしょうか?」
「あれ?ネコちゃんだ。ネコちゃん、また来たの?これ以上はうちも面倒見られないって言ったじゃない。まだ勤務時間中だから食べ物をすぐにはあげられないよ」
星野は慣れた様子で野良猫に話しかける口調でノバナに声をかけた。そこで僕の心に怒りが込み上げた。いや、怒りというよりも、もっと深い何か——人間が人間を見捨てることへの、根源的な憤りだった。
ただ同時に、僕は理解していた。星野もまた、この状況の犠牲者なのだということを。彼女は悪意からそう言ったのではない。ただ、どうすることもできない無力感が、彼女をそのような態度に追い込んだのだ。
僕はその反応を見て、腹の底から湧き上がる怒りを抑えて、用心深く子供の様子を観察した。
服装以外にもノバナの栄養不足が際立っていた。体はあばら骨が薄い布の上からでも見えるほど痩せている。寒さと乾燥で唇が割れて荒れていた。一日中、まともな食事をした様子もない。それだけではない。足元には適切な治療のタイミングを逃して自然に治った青あざがくっきりと残っている。他にも親から暴力を受けたと思われる傷跡もいくつか見受けられた。
素人でも一目でわかるくらい助けが必要な子だが、周りから簡単に手を差し伸べられなかった理由は、おそらく鼻をつく臭いが原因だと思われる。数日間洗っていない髪に汚れと雪が混じって、触れただけで汚れが移ってしまいそうだった。とはいえ、このまま放置するには痛ましい有様だ。
人間の尊厳とは何だろうか?この瞬間、僕はそれを深く考えた。この子は誰かの娘だったはずだ。かつては誰かに愛され、名前で呼ばれ、人間として扱われていたはずだ。しかし今、彼女は「ネコちゃん」と呼ばれ、野良猫のように扱われている。
そして、最も恐ろしいのは——僕自身もまた、少女を見捨てようとしていたことだった。
「お知り合いのノバナのようですね」
「ええ、まあ。三日前から私がシフトに入っている時間帯に寄ってくるノバナです。二日前は店長がいる間にも来て、店の中を走り回って大騒ぎでした。店長が
「バベルよりは、施設に通報すれば無料で引き取ってくれると思いますが」
「やりましたよ。初日からずっと
星野は心配そうな顔をしてノバナを見つめた。その目には、憐れみと無力感が混じっていた。
すでに半分は関わってしまっている状況だった。しかし、今手を差し伸べるとすれば、正式にこの問題に関わることになる。仕方がない、と口癖のように心の中でつぶやいた。
その「仕方がない」という言葉は、もはや諦めの言葉ではなかった。それは、運命を受け入れる決意の言葉だった。ここで、僕は人生で最も重要な選択をしたのだ——自分の利益よりも、他者の命を選ぶという選択を。
僕は連絡先から『小泉』を検索して通話ボタンを押した。
「もしもし、だれですか?」
「朝早くからすみません、小泉さん。東京支部のユニットⅡの三に所属している
「炭咲くん?あれ、今日は休みじゃなかったっけ?どうしたの、こんな時間に。何かあった?」
まだ寝ぼけている様子なので詳細な説明は後にして、現場の説明から始めた。「実はノバナを発見して電話しました。年齢は多く見ても十歳未満で、性別は女の子です。少なくとも一週間以上は放置されているノバナです」
「
「外見上は特に見当たりません。推測ですが、親からの愛情不足と栄養不足が原因で、まだ発現していない状態かと思われます。他の班が処分する前に、小泉さんの班で回収していただけませんか?」と僕は返答を待ちながら、店員に小声でここの住所を聞き、小泉さんに伝えた。
「ありがとう、教えてもらった住所で場所が特定できた。今から出発する前提で四十分ほどかかるかな」
少し沈黙が二人の間に流れた。その沈黙の中で、僕は自分の選択の重みを感じていた。
「よく考えてみれば、そうだ。今日はガーデンズ学園の共通テストがある日だよね?仕事して大丈夫?遅れてない?」
特に仕事をしたわけではないので小泉さんには問題ないとごまかしておいて、コンビニまで安全運転をお願いした。言われなくても気をつけるよ、と軽くたしなめられた。
「あの、すみません。まだ勤務時間中なので私はこれで大丈夫でしょうか?」
「電話が長くなってすみませんでした。もうすぐTGCの関係者がこちらに来る予定です。それまでこの子を預かっていただけますか?」
協力してくれたものの、業務に支障が出て困った顔をしている。気持ちはわかるが、せめて子供の前では見せてほしくない表情だった。星野は小泉さんの情報をメモした紙を受け取り、ノバナをスタッフ専用の休憩室に連れて行った。
星野がノバナを休憩室に連れて行く前に、僕は自分の赤いマフラーをノバナに巻いてあげた。すると少女の青緑色の瞳が僕を見つめた。そこには疑問も、感謝も、何もなかった。ただ、純粋な存在の重みがあった。
気がつけば自分一人になっていて、内心すっきりしないものを感じつつも、次の電車に遅れると受付時間に間に合わなくなってしまう。後は小泉さんの対応を信じて、急いで駅に向かって走った。
雪の中を走る僕の背中には、赤いマフラーの温もりが、まだかすかに残っていた。
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