秋山千歌3

「解剖が終わりましたので」


 そう言われて連れてこられたのは中崎市立病院の地下にある遺体安置室だった。


 警察署に到着して二日目のことだった。


 病院特有の消毒液のような匂いがそこらからしていて、やけに静かで、私と恩田刑事、案内をしてくれている看護師の足音ばかりが響いている。


 廊下の奥にある扉の前には警察官が立っていて、恩田刑事を見ると頭を下げた。


「こちらです」


 扉が開かれて、白壁に囲まれた小さな部屋に通された。


 殺風景な部屋の中には白い布を掛けられているが眠るベッドと、その横に線香が炊かれている台が置かれているだけ。


「ご確認ください」


 恩田刑事が白い布を取ると、そこにはまりの顔があった。


「まり?」


 震える足を懸命に運びながらまりに近づく。


 せり上るように込み上げてくる様々な感情が視界を歪ませる。


「まり? まり?」


 口からは壊れたスピーカーのようにまりの名前しか出てこない。


 心が「嘘だ! 信じたくない! これは夢だ!」と訴えてくる。


 だけど現実は冷たく残酷に目の前に広がっていて、まりの顔からは血の気が失せ、澄んだように白い肌が悲しいほど「死」を漂わせている。


「まり?」


 震える手でまりの頬に触れる。


 ふにっと柔らかかった頬は柔軟さを消し去り、ただ苦しいほど冷たい感触だけを伝えてくる。


「まり?」


 それでもまだ捨てきれない希望に縋るようにまりの名前を呼ぶ。


「お母さん、おはよう。どうしたの?」


 そう言って目を開けてくれるんじゃないか。ただ眠っているだけで、私の声に気づけば起きてくるのではないか。


 そんな期待がどうしても捨てきれない。


「まり? お母さんきたよ? まだ眠ってるの? まり?」


 声は情けないほど震え、どうやって息をしているのかも分からない。


「まり? ねぇ、まり? 起きて……起きてよ、まり」


 生まれてきてからこれまでの様々な表情のまりが蘇っては消えていくのに、今目の前にいるまりにはどの表情もあてはまらない。


 嘘よ、嘘! こんなことはありえない。あってはならない。


「まり、帰ろう、起きてお母さんと帰ろう、ねぇ、まり」


 呼び掛けに答えないまりに何度も声をかける。


 その度に近づいてくる「死」を必死で振り払うように声をかける。


 目を開けて欲しい。再びあの可愛らしい笑顔で「お母さん」と呼んで欲しい。それ以外何も望まないから。何もいらないから。どうか、どうかお願い、お願いします。


 何度も何度もそう願ったのに、まりの目が開くことはなく、無慈悲すぎる現実に心から血が吹き出すのを感じていた。


 まりの冷たく固い体にしがみついて泣き叫び、許しを、助けを乞い願う。


 助けてくれるなら自分がどうなってもいい。お願いだからこの子を助けて。


 この子を一人にした私が悪かったんです。罰ならば私が受けます。この通りです。


 夢なら早く目覚めさせて欲しい。こんなに痛い夢なんて見たくない。


 お願い、誰か……。


 気づくと私は病室のベッドに寝かされていて、腕には点滴がされていた。


「目が覚めましたか?」


 ずっとついていてくれたのか、恩田刑事がそう声をかけてきた。


「こんな時に申し訳ありません」


 そう言いながら、必要なのだろうことをいくつか確認され、私はただ「はい」とだけ答えた。


 何を言われているのか理解しているのに、声は遠く、何もかもが遠くに感じる。


 誰もいなくなった部屋で、ただまりのことばかり考えていた。


 きっとあれは夢で、目を覚ました今ならばまりはきちんと正しく生きていて、この時間なら学校に行っているだろう。


 私が先触れもなく急に部屋に来ていたら、帰ってきたまりがビックリしながらも「ただいま」と言ってくれるかもしれない。


 そうだ、まりの好きな物をたくさん作って待っていよう。


 あの子は私が作るハンバーグとポテトサラダが大好きだった。


 少しずつ自炊を始めていたようだけど、どうしても私と同じ味にならないと嘆いていたっけ。


「やっぱりお母さんが作ったやつの方が美味しい」


 そう言って笑いながら嬉しそうにハンバーグを頬張ってくれるだろう。


 あの子が作ってくれたハンバーグは、少しだけ焼きすぎていてパサついていたけど、味は悪くなかった。


「火が強すぎなんじゃない?」


「火加減ってよく分からないんだよね」


「最初だけ強火にして、片面を少し焼いてひっくり返したら水を入れて蓋をする時に火を弱めればいいのよ」


「そうしてるんだけど、いつも少し焦げちゃうんだよね。やっぱりすごいね、お母さんは」


 一緒に料理をした時、まりは私が作るのを見ながらそんなことを言ってくれた。


 ただ経験を積んだだけで、決して料理が上手いわけではないのに、あの子はいつだって私のことを「すごい」と褒めてくれる。


 だから私はあの子の言葉に応えられるように、少しでも喜んでもらえるように、それだけを考える。


 腕に付いている点滴を抜き、力の入らない足を何とか動かして部屋を出た。


「ちょっと! 秋山さん?!」


 誰かに呼び止められ、肩を掴まれたが振り払い、よろけながらも歩を進める。


「誰か!」


 まずはスーパーで買い物をして、材料を揃えなければ。


「まり……待っててね。大好きなハンバーグ、作ってあげるからね」


「秋山さん! 駄目です!」


 私の目にはまりの笑顔だけが映し出されていた。


 


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