秋山千歌1

 電話が鳴っている。


 だけど母がオムツを勝手に外してしまい、ベッドが母の糞尿で汚れており、母自身も異臭を放っている。


 優先順位を考えると母の方が先だと考え電話を無視した。


 だけどその後も何度も何度もしつこいほど鳴り続く電話。


 ベッドシーツを剥がし、汚れた物を全部風呂場へと持っていき、母の身を清め、ようやく電話に出たのは、最初の電話から四十分が経った頃だった。


「もしもし、秋山です」


「秋山さんですか? 私は中崎警察署刑事課の恩田と申します」


 中崎市には娘のまりがいる。


 心臓が不穏な音を鳴らし始めた。


「まりが何かしたのでしょうか?」


 努めて冷静に言葉を紡ぐ。


「秋山まりさんは娘さんで間違いありませんか?」


「はい、娘です。何なんですか、一体? まりがご迷惑をおかけしたのでしょうか?」


 いじめられることがあっても、まりは優しいいい子で、私のことを考えて一人暮らしを提案してくれた。


 中学に上がった時からまりは別の小学校からきたグループの女の子達のいじめの標的になり、母子家庭の上に両親の介護をしている私に迷惑をかけまいと限界まで明るく振る舞い、壊れる寸前までいってしまった。


 気づいた時には両腕にリストカットの跡が無数にあり、体中にいじめで受けた青あざが大量にできていた。


 学校側にいじめを訴えたが、対応は悪く、しまいには「いじめられる側にも問題がある」と言い出した。


「一方の主張だけでは分かりませんので、いじめているとされている生徒の話も聞いてから総合的に判断します」


 校長の言葉に絶句した。


 まりのあの体を見てもそんなことが言える者達が教鞭をとり、生徒を導くなどどの口が言えるのだろうか?


 全国的にいじめが問題視されているけど、結局は被害者生徒が死ななければ学校は動かないのかもしれない。


 そう考えたらまりを失う可能性が頭をよぎり、二人で別の県に移り住もうかと提案したところ、まりは「お母さんはおばあちゃん達の世話があるでしょ?」と言い、一人で暮らすと言い出した。


 何度も話し合い、高校では一緒にならないかもしれないから、中学を卒業するまでは学校に行かない選択をしようと決め、電車で一時間以上かかる高校を受けたのだが、いじめの主犯格だった女子生徒がきていたため、まりはその場でパニック発作を起こしてしまった。


 同じ県内にいては嫌でも顔を合わせる機会があるのだと悟り、まりの希望通り他県での一人暮らしを応援する道を選んだ。


 両親を施設に入れられれば一緒に行ったのだけど、そんなお金はなく、私の働いたお金と元夫からの養育費と両親の少ない年金だけではまりのアパートの家賃と水光熱代を捻出するのがやっと。


 ヘルパーさん一人雇う余裕すらなく、まりに申し訳ないと思いつつも、日々を忙しなく過ごしていた。


 年に数回は何とかまりに会いに行き、長期休暇になるとまりは帰宅してきて楽しそうに学校の様子を語ってくれた。


 心配していたリストカットもしなくなっており、無理をしてでも一人暮らしをさせ、他県の高校に通わせて正解だったと安堵していた。


「お母さん、落ち着いて聞いてください。まりさんがお亡くなりになりました」


 恩田という刑事の言葉が右から左へと流れて消えていく。


 何を言われているのか心が受け付けようとせず、だけど足先から血液が抜けていくような冷たい感覚が全身を犯していく。


「お母さん、聞いていらっしゃいますか?」


「……何かの間違いですよね?」


 やっと絞り出した声は分かりやすく震えていて、かすれている。


「残念ですが、間違いではありません」


 視界が反転し、気づいたら私は床に転がっていて、落ちた受話器から恩田刑事の声が微かに聞こえていた。


「事故の可能性は低く、我々は事件として捜査に当たります。まりさんのご遺体は解剖の……」


 事件?


 解剖?


 まりさんのご遺体?


 言われている言葉自体は分かるのに、その言葉がまりに繋がるとはどうしても思えず、頭がクラクラする。


「まりは……この前電話をくれたんです」


「そうですか……」


「まりは、学校が楽しいんだと話していたんです」


「はい……」


「まりが死んだなんて、何かの間違いです」


「心中お察しいたします」


 その後、恩田刑事と何を話したのかあまり覚えていない。


 ただ、まりに会いに行かなければという思いだけが膨らんでいた。


 悪質ないたずら電話で、会いに行けばいつものように「お母さん」と嬉しそうに笑って迎えてくれる、そんな気がしていた。


 少し遠方に住んでいる兄に電話をかける。


「兄さん? 私だけど。母さん達を少しの間見ててもらえないかな?」


「はぁ? 無理に決まってるだろ?」


 兄は私に両親の世話を押し付け、自分は一戸建てを買い、そこで奥さんと子供二人と平和に暮らしている。


 時々、取ってつけたかのように連絡をしてくるが、両親の心配など一切しておらず、私達の生活が苦しくても援助すらしてくれない。


 だけど兄にとっても両親であるのだから、一度くらい頼みを聞いてくれてもいいだろうと思った。


「まりがね、まりが……」


「まりちゃんが? 何かあったのか?」


 兄はまりのことだけは可愛がってくれていたため、まりの名を出すと態度が変わった。


「まりが死んだって言うのよ。そんなはずないでしょ? だからね、会いに行きたいの」


「は?! まりちゃんが死んだ?! 何の冗談だよ?! 誰がそんなこと言ったんだ!」


「中崎警察署の刑事課の恩田さんって人がね、さっき連絡してきたの。でも絶対何かの間違いだと思うのよ。だからね、兄さん、お願いよ。少しの間でいいから、母さん達を見ててくれない?」


 そう言うと兄は黙り込んだ。


「本当なのか?」


「何が?」


「刑事から電話がきたって本当なのか?」


「嘘だと思うなら確認してみればいいじゃない」


「確認してみる。確認したら折り返す」


 そう言うと兄は電話を切った。


 それから私は父のオムツを替え、母に水を飲ませ、お風呂場に置きっぱなしになっていた汚れ物を無心で洗った。


 どれだけの時間が経ったのだろうか?


 気づくと外は真っ暗で、私はぼんやりしながら洗濯機が回るのを眺めていた。


「千歌!」


 玄関が開く音がして、兄の声が聞こえた。


 折り返すと言っていたはずなのにこの家にやってきたなんてどうしてだろう?


「千歌!」


 私を探しているのか、兄の声は家のあちこちから聞こえてくる。


「千歌!」


 不意に風呂場の扉が開き、兄が洗濯スペースのある脱衣所へと飛び込んできた。


 ぼんやりしている私を見て、泣きそうな顔をしながら私のことを強く抱きしめた。


「どうしたの? うちにくるなんて珍しいわね」


「……すまん、本当に」


 涙声の兄の後ろには、年に一度会うか会わないかの兄の嫁である静香さんが立っていて、彼女の顔色は悪かった。


「まりに会いに行くんだろう? 母さん達のことは俺らがちゃんと見とくから、早く行ってこい」


 震える声で兄はそう言った

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