町田雄太2

 プールの入口の鍵を開け、飯田が先にプールサイドへと足を踏み入れた。


「これで満ぞ」


 飯田はそこまで言うと無言になり、少し足取りが重くなりながらも、あれがきちんと見える位置まで移動していく。


 もうあれがボールではないことは嫌でも分かる。


 髪の毛が確認できるため、人間かマネキンの頭部なのは間違いない。


 あれの真正面までやってきて、それをしっかりと見た俺はその場から動けなくなった。


「ヒッ! ヒィィ!」


 飯田は情けない声を上げて腰を抜かしてその場にへたれこんだ。


 俺も腰が抜けそうになったが何とか踏ん張っている。


 だけど足の震えが、いや、全身の震えが止まらない。


 それは、水面から目だけを出して、もう何も映さないだろう濁った目をありえないほどに見開いていた。


 恐怖なのか怒りなのか、それともそのどちらもなのか、苦悶というにはあまりにも恐ろしい目をしたそれが、マネキンであるはずがないことはもう分かってしまった。


 プールの真ん中辺りでそれは静かに、だけど異様なほどの存在感と恐怖を携えて佇んでいる。


 血の気が完全に引いた肌はプールの色も相まって、青白いというより薄緑色を含んだ不気味な白さを放っている。


 心臓が痛いほど鼓動を上げていて、今にも口から胃の内容物と共に飛び出してきそうだ。


 目を逸らしたいのに、あの目が「逸らすな」と命令でもしているかのように視線が固定されて動かせない。


「けけけけ、け、け、警察、警察に電話を」


 飯田が情けない声を上げながら這うようにして動き出すと、それまで動かなかった体が動いた。


 飯田に手を貸し、もつれそうになる足を懸命に運び、職員室へとたどり着いた。


 目に、脳に、記憶に、あの顔が刻み込まれたように焼き付いている。


 祖父母を亡くしているため、死体を見るのが初めてではない。


 棺桶の中で眠ったように横たわる祖父母の姿はあんな恐ろしく、鮮烈で、強烈なものではなかった。


 目を閉じ、死化粧を施され、穏やかに見える表情で眠るように、だけどもう目を開くことも声を発することもないのだと分かる死の影を伴い、ただ静かに横たわっていただけだった。


 だけどあれは違っていた。あれは……。


 忘れたくても消えていかないあの目に、今頃になって腰が抜け、再び全身に震えが起きる。


 教頭の飯田は校長室へと向かっていき、青い顔をした校長、中井 茅波ちなみが職員室の中へと消えていった。


「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」


 職員室から顔を出した養護教諭の成田 知子が俺の元へとやってきて、小柄な体で俺を支えてくれた。


 どこまで話していいものか分からず黙っていたのだが、職員室に入るなり飯田の声が響いていた。


「プールに死体があるんです!」


 警察に通報している声なのだが、興奮しているのかいつもより声量があり、職員室中に響いている。


「し、死体?!」


 俺を支えてくれている成田先生が体をビクッと震わせたのが伝わってきた。


「ほ、本当なんですか? 死体って……」


「……本当です、多分」


「そんな……」


 多分と言ったのは、まだ捨てきれない希望的観測だ。


 悪趣味ないたずらで、精巧に作られたマネキン人形であって欲しいと願う気持ちがあった。


 それなら腹が立ったとしても、後で笑い話として終われるのだから。


 それから、職員全員が職員室に集められた。


「本日欠席している生徒は何名いますか?」


 中井校長がその場を仕切りながら担任を受け持っている職員に尋ねる。


 本日学校に来ていない生徒は全員で十三名。


 一年生が五名、二年生が六名、三年生が二名。


 いつもより欠席者数は少ない。


「欠席した生徒の安否確認をお願いします。教頭先生と町田先生は、警察が到着次第そちらの対応をお願いします」


 警察が到着するまでの間に安否が確認できた生徒は十名。


 一年生と三年生は安否確認が取れたが、二年生の三名だけが連絡が取れなかった。


 今の二年生は、去年俺が受け持った生徒のいる学年で、受け持っていたクラスの生徒の顔と名前は当然分かっているが、そうではない生徒達の顔と名前もある程度把握している。


 嫌でもチラつくあの顔に見覚えはなかった。


 いや、あまりにも変わりすぎていて誰なのか判断がつかないという方が正しいのかもしれない。


 混乱を避けるため、生徒達を帰すことが決まり、中井校長は今後の対応を残った教諭達と相談を始めた。


 タイミング悪く、生徒達を家に帰している途中でパトカーがやってきて、警察の対応を任された俺と飯田だけでは生徒を抑えられそうにないと判断し、他の教諭達も加わりプールへと生徒を近づけないように奮闘した。


 その間にも応援のパトカーがやってきて、プールの周りには立ち入り禁止の黄色いテープが貼られ、プール内が見えないようにブルーシートまで貼られ、現場には物々しい空気が流れていた。


「ちょっとお話をよろしいですか?」


 生徒が全員学校を出たタイミングで、一人の警察官が声をかけてきた。


「あなたが遺体の第一発見者の町田先生でしょうか?」


「……そうです」


 正確にはあれを最初に発見したのは俺ではない。だけど、余計なことは言う必要はないだろう。


 警察にその時の状況などを詳しく聞かれ、「後日またお話を聞かせていただいてもよろしいですか?」と尋ねられ、大丈夫だと返事をした。


 ドラマで見る刑事のように最初から犯人のような扱いを受けるのかと思っていたが、話を聞いてきた警察官は聞き出し上手な人物なのか、優しい口調で問いかけてきたため、気負うことなく話すことができた。


 飯田も別の警察官に事情を聞かれており、プールで腰を抜かしていたのと同一人物だろうか? と思うほど意気揚々と話をしていた。


 その後、俺はあることがきっかけとなり、世間から容疑者として白い目を向けられることとなる。

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