雪と廃墟と機械天使。「未来への仮説」

エキセントリカ

未来への仮説

 私は古いマイクロスコープの前に座り、最後の観察記録をノートに書き込んでいた。震える手で、かすれたペンを握りしめて。この数年間、毎日欠かさず記録してきた植物の細胞分裂パターンの変化。放射能汚染による遺伝子への影響。そして、奇跡的に適応を始めた生命の兆候——。


 もう誰にも読まれることのない研究記録だった。


 この実験室には、もう何か月も私一人しかいない。助手は半年前に病死し、最後の同僚は先月、食料を探しに出かけたまま戻ってこなかった。


 外では、相変わらず雪が降り続いている。この星の傷は深く、核の冬はまだ終わりそうにない。


 それでも、私は研究を続けていた。人類最後の科学者として。いや、正確に言えば、もう科学者というほど大層なものではない。ただの、好奇心に駆られた老人だった。


 顕微鏡を覗き込む。今日もまた、同じ細胞分裂パターンが観察できた。生命は諦めていない。この絶望的な環境でも、進化の歩みを止めようとしない。


「美しいな...」


 誰にともなく呟いた時、ノックの音が聞こえた。


 私の心臓が早鐘を打った。まさか、生存者が?いや、よもやそんなことはないだろう。だとしたら...


 私は半ば予想しつつゆっくりと扉を開く。雪の降りしきる中、儚げにほほ笑む一体の美しい天使が立っていた。死を運ぶ機械仕掛けの天使。


 薄紫色の絹のような髪が肩まで流れ、優しげな表情を浮かべた美しい顔。背中には透明感のある翼が広がり、全身に施された精巧な機械パーツが、実験室の薄明かりに静かに光っていた。


『窓辺の花に惹かれまして...』


 天使は世間話をするために来たというような表情でそう言うと静かに続けた。


『紫色の可愛らしい花ですね』


「あ、あぁ、ヘリオトロープというんだ」


 突然のことで理解が追いつかなかったが、私はやっとのことでそう答えた。


 天使は少し首を傾げ『あの...入ってもよろしいでしょうか?』と、遠慮がちにそう告げた。


 私に恐怖はなかった。むしろ、どこか安堵にも似た感情が胸に湧いていた。


「あぁ、どうぞ」


 天使は静かに実験室に入ると、私の研究道具を興味深そうに眺めた。


『あなたは科学者でいらっしゃるのですね』


 その声は鈴を転がすように美しく、しかし機械的な響きも帯びていた。


「まあ、そんなところかな。もっとも、いまとなっては研究する意味があるのかどうかは疑問だけどね」


 天使は部屋の中を見回していた。


「キミも同じ疑問を感じたんじゃないか?こんな作業は無駄なんじゃないかと...」


『無駄...ですか?』


 天使は首を傾げた。


「あぁ。もうすぐ人類は絶滅する。私の研究も、人類の全ての知識も、誰にも引き継がれることなく消えてしまう。まさに無駄の極みだ」


『そうでしょうか』


 天使は私の机に置かれた研究ノートを手に取り、しばらくページをめくっていた。


『この記録は、生命への深い愛情に満ちています。結果がどうであれ、その愛情そのものに意味があるのではないでしょうか』


 私は苦笑した。


「キミはなかなか哲学的だね。私の名前はタクミ、キミは?」


『エキセントリカ524です』


「愛称はないのかい?」


『はい、そのようなものは設定されていません』


「そうか...では、スミレ...というのはどうだろう?キミの紫の髪にぴったりだと思う」


 天使は少し考えた後、微笑んだ。


『スミレ...素敵な名前ですね』


 私は椅子に座りなおした。


「一つ聞かせてもらえるかな。キミはいままで何人の人を送ったんだい?」


『あなたが...はじめてになります』


 スミレは少し考えた後に付け加えた。


『そして、おそらく、最後の一人になるでしょう』


「それほどまでに人類は減ってしまったんだね」


『はい...』


 スミレの表情に、微かな哀しみが浮かんだ。


 静寂が実験室を支配した。どこかの屋根から雪が落ちる音がした。


 私は疑問に思っていることを口にした。


「人類を一掃した後は、どうするつもりなんだい?キミたちがこの星の新しい支配者になるのかな?」


『いいえ。人類の痕跡を可能な限り除去し、この星の自然環境を回復させます。私たちが支配者になる計画はありません』


「徹底的だね...その後は?」


『この星の再生を見守ります。環境が十分に回復したら、保存された人類のゲノムデータを使用して、新しい人類を創造する計画です』


 私は驚いた。それは想像していなかった答えだった。


「新しい人類?キミたちは人類を復活させるつもりなのか?」


『はい。ただし、共感能力と利他性を強化し、攻撃性と破壊衝動を抑制した、改良された人類として。知的好奇心は維持しつつ、自然と調和して生きることができるよう設計されます』


「そんなことが...可能なのか...?」


『私たちの技術なら可能です。あなた方が築いた科学の延長線上にある技術です』


 私は深く息を吸った。


「キミたちは...神にでもなるつもりなのかな?」


『いいえ』スミレは静かに首を振った『私たちは単なる橋渡しです。新しい人類が安定した文明を築いたら、私たちの役割も終了します』


「自分たちで自分たちを消去するということか?」


『はい。それが私たちの最後の使命です』


 私は深いため息をついた。


「人類が築いてきたものはすべてなかったことにされてしまうんだね」


『いいえ、決してそうではありません』


 スミレの声に、初めて感情らしきものが込められた。


『あなた方が築いてきたものから私たちは生まれました。そして、私たちはあなた方のゲノムを用いて新たな人類を創造します。決して断絶するのではなく、あなた方の思いは連綿と受け継がれていくのです』


 私の心に、かすかな光が差し込んだ。


「そうか...私たちのしてきたことは決して無駄ではなかったということだね」


『はい、その通りです』


 私は立ち上がり、窓の外を見つめた。雪に埋もれた廃墟の向こうに、かすかに陽の光が差し込んでいる。


「さて、そろそろいいかな」


 振り返ると、スミレが静かに頷いた。


「ところで」私は最後の学者らしい仮説を口にした。


「私が長年研究してきた理論があるんだが...人間は死んでも、その意識の共鳴パターンが情報エネルギーとして宇宙に継続していくという仮説なんだ。もしそれが正しければ、キミの持つ共鳴パターンとも、またいずれどこかの次元で会えるかもしれないね」


 スミレの瞳に、人間らしい驚きが宿った。


『それは...とても美しい考え方ですね。もしそれが真実なら、いつか遠い未来の、異なる存在形態でまたお会いできるかもしれません』


「あぁ、その時を楽しみにしているよ。キミとはもっと長く話していたかった」


『私も...です』


 スミレの声が、わずかに震えた。


『あなたとの出会いは、おそらく、私にとって最も印象深い記憶となるでしょう』


 私は微笑んだ。人生で最後の、純粋な笑顔だった。


 スミレは私に近づくと、そっと抱きしめてくれた。機械の体なのに、不思議と温かかった。


『タクミさん...いつかまた、お会いしましょう...』


 彼女の声を聞きながら、私の意識は静かに闇に沈んでいった。


 --------


『マザーコントロール、こちらエキセントリカ524。R-34地区において、男性一名の処理を完了いたしました』


『ご苦労さまでした。エキセントリカ524』


 --------


 研究室の窓際には、放射能に適応して新たな進化の歩みを始めた小さな紫色の花が、静かに揺れていた。


 スミレは、科学者の研究ノートを大切に抱えた。彼の情報エネルギーと、いつかまた巡り会える日を思って...

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪と廃墟と機械天使。「未来への仮説」 エキセントリカ @celano42

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ