エピソード19

自宅の鍵は、いつも掛けずに出かけている。

シロが番犬をしているはず――そう信じていた。


けれど、今日は妙だった。

俺の足音が聞こえれば、「待ってました!」と駆け寄ってくるはずのシロの姿がない。


……?


シロが勝手に外に出ることは、今まで一度もなかった。

わずかな違和感を覚えながら、店舗から自室へ向かう。


ソファの端から、長い足がだらしなくはみ出していた。

――まさか。


「おい、何してるんだ」

ソファの背を軽く蹴る。


そこには、シロを抱いたまま眠りこけている虎時の姿があった。

眉間には皺、顔色も悪い。けっこう強めに蹴ったつもりだったが、まるで反応がない。

シロも、安心しきっているのか。彼の腕の中でピクピクと脚を動かしていた。


……疲れてんのか。警察ってのも、楽じゃないんだな。

特に話すこともないし、まあいいか。


俺は棒付きキャンディーをくわえながら、パソコンの前に座り、キーボードに指を這わせた。


「……いいもん、食べてるな」

突然、口元からキャンディーが抜き取られる。


「おい、起きたのかよ」

その飴を、虎時が迷いなく咥えた。


「お前って潔癖症じゃなかったっけ? 人が舐めた飴なんか、よく平気だな」

「ははは。本当だな。でも、不思議と気持ち悪くない」

「いや、俺のほうが気持ち悪いわ」

「……なんか、不思議な味がする気がする」

「いや、普通の苺味のはずだが……」


(――気のせいであってほしいが)

――こいつって……やっぱ、分からん。


「で? 忙しい警察官が、またこんなとこで油売ってていいのかよ」

「うーん。別に、遊びに来てるわけじゃないんだよ、これが」

「さっきまで爆睡してた奴のセリフじゃねえな」

「はは、確かに」

「で、なんの用だよ」

「実はな……」


虎時は、最近この辺りで頻発している自動車事故の調査をしているらしい。

それらは運転中、突如として電気回路が異常をきたし、制御不能になる現象が共通していた。

全国的に散発的には起きているものの、この周辺だけは異常な頻度で多発しているという。


「もしかすると、何かの磁場が関係しているか、あるいは――」

虎時は言いよどんだ。


……このあいだの、ガラケーの写真、あの異常ラジオの件。

目の前で起きたあの“現象”が、彼を少しだけ迷わせているのかもしれない。

けれど、彼の目は全部を信じているようにも見えなかった。


「で? 俺に何の用だよ」

「お前の見解を聞きたくてな。……伊禮、お前なら、何か思い当たることがあるんじゃないかと思って」


俺はギロリと睨む。

「まさか、それだけで来たのか?」

「いやいや……まぁ、実はそうなんだよ」

苦笑いを浮かべながら、虎時は言葉を濁した。


そこへ、ピコンとガラケーの着信音が鳴った。

画面には「メール受信:1件」と表示されている。


開くと、本文はまたしても“空白”。送り主は――NO.9。


……おかしい。

前回、俺が送ったメッセージもNO.9で表示されていた。

送信も受信も、すべてNO.9。意味がわからなかった。


「何か送られてきたのか?」

「……いや。ただのイタズラだろ」


確信のないことは、口にしたくなかった。虎時も、それ以上は詮索してこなかった。


「俺、しばらくこの辺りの捜査の担当になった。だから、ちょくちょく寄らせてもらうよ」

「はぁ、別に俺はいつも暇しているわけじゃないんだが」


俺の言葉を無視して、シロを抱き上げている虎時。

「シロは飼い主に似ずにいい子だな」

「……てか、なんでお前にそんななついてんだよ」

「ああ、それはな。前に犬用のおやつやったら、すごい勢いで懐いちゃってな」

「……食べ物かよ」


「でもな、不思議なんだ。この子、夢で見たことがある気がするんだよ。真っ白な犬が、俺の前に立ってて――守ってくれてるような、そんな夢だった」

「……気味悪いって」


シロは俺には見せないような穏やかな目で、虎時の膝にすり寄っている。

まるで最初から、彼を知っていたみたいだった。

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