第2章 木漏れ日のなかに

エピソード18

「今日は暑いな……」

縁側に座り、首に掛けたタオルで汗を拭いながら空を見上げた。

強い日差しが降り注いでいる。

庭先の小さな家庭菜園には、まだ青いトマトの実が連なっていた。


「ふぅ……今年もこいつらは、しっかり実をつけたわ」

愛おしそうに眺める。


「柴田先生。今日も来たよ」

ピンクのランドセルを背負った子どもが駆け寄ってきた。


「おぉ、ひかりちゃんかい。今日は早いね」

待っていましたと言わんばかりの笑顔で迎え入れる。


「ふぅ……本当に嫌になっちゃう。こんなに暑いのに、こんな大きなランドセル。あついよ」

頬を膨らませている。


「ははは。本当に暑いね。冷蔵庫にジュースが入ってるよ」

「わー。いいの? うれしい」


ひかりは縁側の石畳の上に靴を脱ぎ捨て、バタバタと部屋の奥へ入っていった。


「せんせー。はやくーーー」

「ふふふ……そんなに急がんでも」


台所の古い小型冷蔵庫。扉を開けると、ジュースの瓶が並んでいる。一本を取り出すが、冷たさがない。


「あれ、おかしいな。冷えてるはずなんだが……」

「いいよ、べつに。早くちょうだい」


ひかりは小さな両手でコップを包むように差し出していた。


「ははは。こぼすなよ」


――やれやれ。この冷蔵庫も、そろそろ寿命なのかもな。

これからもっと暑い日が続くというのに……修理してもらわないとな。



「暑い日には、やっぱりこれ……だな」


俺は定番の山椒たっぷり麻婆豆腐を頬張り、額の汗をタオルで拭った。舌全体が痺れるような辛さが、脳の奥まで突き抜けていく。


――この刺激がたまらない。


カウンターの向こう側では、久遠昂がやや呆れた顔でこちらを見ていた。

「暑い日には、冷やし中華って料理もあるんだよ?」

「知ってる……」

「ははは。そりゃそうだよね。ま、これだけ惚れ込んで食べてくれるなら、作り甲斐もあるよ」


久遠昂くおん こうは長めの髪を後ろでひとつに束ねている。

整った顔立ちに、ふと乱れた髪が垂れかかる。それを指でさらりとすくい上げる仕草に、思わず目を奪われた。


――ここ、本当に中華屋だったよな……? まるで、カフェの看板イケメンって感じだ。


「……なんか、ちぐはぐだな」

小さくつぶやいた俺の声に、昂が「ん?」と首を傾げる。


「俺は、この麻婆豆腐が一番好きなんだよ」

「はは、知ってるよ。ありがと」


学生時代から、俺や弟の了にちょくちょく料理をふるまってくれていた昂。料理好きが高じてこの道に進んだらしい。

「理系が作る中華料理って、なんか化学式でも駆使してそうだな」

「ははは。それ面白い。確かに、そんな感覚あるかもね」


カウンター奥の小さなテレビがつけっぱなしになっていて、ちょうどニュースが流れてきた。

「今日、登校中の児童の列に車が突っ込みました。現在、警察が詳しい状況を調べていますが、死傷者が出ている模様です――」


店内の空気が一瞬、静まり返る。


「……隣の町だよね」

「ああ」

「最近、こんな事故が多すぎるよね。あれだけ車の性能が上がってるのに、どうして……運転技術が追いついていないのかな」

昂はいたたまれない表情で、静かに言葉を落とした。


「俺もそう思うよ。ぶつかりそうになったら自動で止まるはずなのに、最近はその制御すら利いていないって話も聞く」

自然と、重たい溜息がこぼれた。


――技術が進化しても、それを扱う人間が進化しなければ意味がないのかもしれないな――


その時、ガラン――。

扉の開く音が店内に響いた。開いたドアの隙間から、熱気が流れ込んでくる。

昂が入口に目を向け、来訪者の姿を認めた瞬間、声のトーンが一気に跳ね上がった。


「うわぁ! お久しぶりです、先生。どうぞどうぞ!」

さっきまでの重たい空気が一変し、明るい声が店内に満ちる。


「先生」と呼ばれた老人は、八十代くらいだろうか。

半袖のワイシャツにスラックス、足元は古びた革靴。

小柄な体に日焼けした肌が印象的で、白髪を後ろに撫でつけている。どこか庭仕事でもしているような風貌だ。

そのままゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。


「本当にご無沙汰でしたね。最近はどうされてたんですか?」

「うん、まぁな。儂なりに忙しかったのさ。今日はちょうどこの辺に用事があってね。久しぶりに、あの麻婆豆腐が食べたくなって来たんだ」

「ありがとうございます、先生」


昂が冷たい水の入ったコップとおしぼりを差し出す。老人は水を一気に飲み干し、おしぼりで手を拭いたあと、顔まで豪快に拭った。

「あぁ……生き返るわ。ははは」


猛暑にぐったりしていたらしいが、水の一杯で、すっかり笑顔が戻っていた。

――感じのいい、柔らかな雰囲気の人だな。


「伊禮、この方は柴田さん。昔、学校の先生だったんだ。だから、今でも“先生”って呼んでる」

「ははは、先生か……もうとっくに引退してるよ」

「いいの。先生は先生なの。で、今日はやっぱり麻婆豆腐ですか?」

「そうだよ。それを食べに来たんだ。で、甘い麻婆豆腐を頼むよ」


――甘い? 麻婆豆腐???


「はーい」

昂はうれしそうに注文を聞いたあと、厨房のほうへ向かった。

(甘い麻婆豆腐……そんな注文もあるのか)

思わず目を見開いたが、先生の様子は自然で、店の常連としての風格すらある。

特に驚いた様子もなく注文を受ける昂を見ていると、どうやら本当に“特注”らしい。


厨房に入る昂の背を見送りながら、ふと学生時代のことを思い出す。

――確か昂は、最初はSE志望だったはずだ。

機械や数式に強く、何をやらせても器用にこなしてた。

それがいつの間にか料理の道へ進んで――でも、今こうして目の前の客一人ひとりの好みに応える姿を見ていると、なんだか腑に落ちる。


「理系が作る中華料理」――なるほど、化学式みたいに緻密で、でも温かい。


しばらくして、熱々の麻婆豆腐が先生の前に置かれた。

「お待たせいたしました、先生。どうぞ」

「あぁ」

先生はゆっくり蓮華を手に取り、何度も息を吹きかけて冷ましながら、ひと口ずつ慎重に運ぶ。どこか微笑ましく、穏やかな時間が流れた。


「そういえば、柴田先生は猫舌でしたね」

「あぁ、覚えていてくれたんだね」


昂はうれしそうに頷き、どこか生徒のような素振りを見せた。

「はい、これもどうぞ」

彼が差し出したのは、小さなガラスカップの杏仁豆腐。

上には苺がひとつ、生クリームとバニラアイスが添えられている。

「サクランボがなかったから、今日は苺で。……はい、伊禮も」


痺れた舌に、冷たい杏仁豆腐が心地いい。

さっきまでの汗が、すっと引いていく。

柴田先生と昂は、和やかに世間話を交わしていた。


――そろそろ帰ろうか……。

そう思って腰を浮かしかけた、その時だった。


「最近、冷蔵庫の調子が悪くてね。まぁ、年代物だし仕方ないんだけど……。儂ひとりだから、買い替えるのもなかなか気が進まなくてな」


その言葉に、昂の視線がピタリと俺に向いた。

「柴田先生。ここに、すご腕の電気修理屋がいますよ!」


不意に振られ、柴田先生の視線が俺に移る。

昂は満面の笑みで、しっかり頷いている。

――いや、まさか俺に振るとは……。

椅子から立ちかけていた俺は、仕方なく座り直した。


「で、症状はどんな感じなんですか?」

「すまないね。冷蔵庫の中が、どうも冷えてないようなんだ。まったくダメってわけじゃないんだが……なんというか、微妙な冷え具合でな」

「なるほど。じゃあ、一度見させてもらってもいいですか?」

「あぁ、助かるよ。本当に……ありがとう」


柴田先生から住所と連絡先を受け取り、後日訪問することになった。

先生が帰ったあと、昂はエプロンを外しながらカウンターの外へ出てきた。

「柴田先生、奥さんがだいぶ前に亡くなられてね。今はひとり暮らしなんだ」

「……優しそうな先生だったな」

「うん」


昂の目は、まだ店の外――柴田先生の去った方角を静かに追っていた。

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