エピソード17

虎時が、ソファにもたれかかるように座り込んでいた。


「なあ、伊禮。あの女……名前、聞いたか?」

「ん……? 里緒菜、だろ」


虎時の視線が、ゆっくりとこちらに向いた。


「お前、それどこで聞いた?」

「え、さっき……いや、芹沢が……」


「言ってねぇよ。その名前、最後まで誰も口にしてねえ」


喉が詰まった。

確かに、俺は“知っていた”気がした。けど、それはいつ、どこで……?


虎時が静かに言った。


「お前の中に“最初からあった”記憶かもな」


それが、何よりも不気味だった。



明るい朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

芹沢の家は、ひどく静かだった。

まるで、昨夜の出来事が幻だったかのように――

何もなかったような空気が漂っている。


俺は、手にしたガラケーを見つめていた。

咄嗟に送ったメールが、まだ気になっていた。


送信済みBOXを開く。

そこに表示されたのは、

――― “空白”


そして――送信主:NO.9


隣では、虎時が目を閉じたまま、思案にふけっている。

俺自身、あの現象を理解するには、まだ少し時間がかかりそうだった。


「……行くか」

俺は虎時に声をかけた。


部屋を出る直前、ふと足を止める。


――きっと、思いを届けるためだったんだ。あのラジオは。


ソファの上の古びたラジオが、まるで役目を終えたかのように佇んでいた。


「……ありがとう、か」


小さくつぶやいたその瞬間、

胸の奥に微かなざわめきが広がる。


あの女の名を俺は知っていた。

けれど、その記憶がどこから来たのか、今では確信が持てない。

芹沢が失ったのは、妻か、里緒菜か。

それとも、自分の“真実”そのものかもしれない。


記憶は立場で変わる。

見え方は、視点で歪む。

俺たちは、すでに“誰かの作った記憶”の上を歩かされているんじゃないか――

そんな気さえするのだ。


――了。

お前は、本当に生きているのか。


どこかで、また“あのピース”が動き出す。

そんな、嫌に確かな予感がした。


ラジオの奥で、微かなノイズが弾けた。

ザ……ザ……。

まるで誰かが囁くように――


『符号は、まだ終わっていない』


伊禮は息を呑み、画面を見つめた。

そこには、新たなメッセージが浮かび上がっていた。


――送信主:NO.9

件名:符号と微睡(まどろみ)


失われた聲を追って――

伊禮と虎時は、再び“残響”の中へ。


―――― 第1章 完 ――――

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