エピソード13

ジジジジジ……。

蛍光灯から、小さな雑音が途切れなく響いていた。


――遅かった。いや、分かっていた。

だが、自分の気持ちが、どうしても前に向くことはできなかった。

わざとだったのだ。


「伊禮……」


俺の肩に、そっと手を置いてくれたのは久遠了だった。

彼は胸の前で静かに手を合わせ、一礼する。


目の前には、白い布を顔にかけられた祖父が、冷たい空気の中心で静かに横たわっていた。


「……大丈夫だ」


俺は小さく呟いた。

――そう、大丈夫なはずだった。これは、俺が選んだ選択だったから。


「ご家族の方ですか?」


病室の扉が開き、看護師が書類を抱えて入ってきた。

家族が到着したとの連絡を受け、急いで来たのだろう。


「はい……」と返したが、自分が“家族”なのか、よく分からなかった。


祖父――「ながを電気」の店主であるその人は、根っからの職人気質で、電気に関することなら何でもこなす達人だった。

だが同時に、筋金入りの偏屈者でもあり、親戚や家族とたびたび衝突し、借金騒動も絶えなかった。


祖母が唯一の“緩衝材”だったが、彼女が他界してからは偏屈さがますます際立った。

一人娘である母の結婚にも猛反対し、それ以来、母と祖父は疎遠になった。


だから俺にとって、祖父は“ほとんど記憶にない存在”だった。


――だが、祖父の直感は、もしかしたら正しかったのかもしれない。


母が父と結婚した後、ふたりは事故で亡くなった。

祖父は、その未来を薄々感じ取っていたのではないか――そんな気がしていた。


そして今。

祖父が亡くなったことで、俺には「天涯孤独」という言葉が付きまとった。


「あの……これをどうぞ」


看護師が手にしていたのは、古びたキャンパスノートだった。

何度も使われた形跡があり、角は折れ、表紙はすっかり色褪せていた。


「亡くなる直前まで、伊禮さんが使っていたものです。ご家族の方にと思いまして……」


「いえ……これは……」


手を出しかけて、戸惑った。


「ありがとうございます。すみません、少し取り乱しているようで」


久遠が代わりに受け取ってくれ、丁寧に一礼する。

俺は「あぁ……」と、間の抜けた返事しか返せなかった。


「ご帰宅の際にお声かけください。書類にサインが必要ですので」


看護師は頭を下げ、静かに部屋を出ていった。


チチチ……チチチ……。

祖父の電波時計が、どこか懐かしい音でアラームを鳴らし始めた。


そのとき、ふいに――空間がぐわん、と歪むような感覚が襲った。

目の前の光景が、暗い霊安室から、明るい病室へと切り替わっていく。


そこには、ベッドの上で背を起こし、ノートに何かを書きつけている祖父の姿があった。

計算機を弾き、また書き、ページをめくる。

――借金の計算か?


声をかけようとしたが……思えば、俺はこれまで一度も祖父を名前で呼んだことがなかった。

ただ、黙ってその姿を見つめ続けるしかなかった。


やがて祖父は、ゆっくりと顔を上げ、窓の外に目を向けた。

やさしい日差しと、心地よい風が、病室にそよぐ。


そして、俺の方へ顔を向けた祖父は、穏やかな笑みを浮かべて――ぽつりと。


「……まこ、と」


そう呟いた。


チチチ……チチチ……。


「伊禮……!」


再び声をかけられて、はっと我に返る。

どれほどの時間が経っていたのだろう。

気づけば、久遠は俺のすぐそばにいてくれていた。


「大丈夫か?」


心配そうに俺の顔を覗き込むその視線と、目が合う。


「……い、今……」


さっき見たものを話そうとして、口をつぐんだ。

辺りを見回せば、そこはやはり――元の霊安室だった。


「……いや、なんでもない」


俺がそう言うと、久遠は「わかった」とだけ答え、それ以上は何も聞かず、そっと肩を抱いてくれていた。

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