エピソード3


カセットデッキから、くぐもった声がゆるく流れていた。


――えぇー、人間ってぇのは、死んでからもなかなか忙しいもんでして。なにしろ、あっち行ったりこっち行ったり、未練があると足が重い。え? 三途の川? アタシゃ五回は渡り損ねましたよ、ええ――


伊禮は、ソファにもたれてコーヒーをひとくち。

カセットは、以前に客が「もういらない」と置いていったものだった。だが、その落語の声は、今朝も店の空気をふわりと温めてくれていた。


――この落語家の声は、やっぱり染みるな。


「おーい。伊禮さん。書留だよ!」


店の入口から、馴染みの郵便局員が顔をのぞかせた。

「はは。伊禮さん、もう昼前だよ。今、起きたの?」

「んー……ちゃんと起きてるよ」


そう答えながら、玄関に向かい、小さな箱を受け取る。

差出人欄には《匿名郵便》。


「なんだこれ……?」


箱を軽く振ってみたが、中身の重さを感じない。

「おいおい、乱暴に扱うなよ。最近は匿名の配達は断ることもできるけど、どうする?」

「ま、大丈夫。怪しいのは怪しいが……受け取るよ」


短く挨拶を交わし、扉を閉める。

(俺宛の郵便物って……誰だ?)


久遠了が消息を絶ってから、ここへ引っ越してきた。

ほとんど誰にも知らせていない。昔の職場の人間にも、だ。

再び箱を振るが、やはり音はしない。


「まさか……空箱だったりして」


ふっと笑いが漏れる。なんだか面白くなってきた。

四隅はしっかりテープで封がされている。ひとつに指をかけ、ゆっくり剥がしていく。


――何があるのかな?


怪訝な気持ちと好奇心が混じっていた。

中にはUSBメモリがひとつ。底にテープで固定されていた。


「……ああ、それで音もなかったのか」


拍子抜けして、肩の力が抜ける。

「ふーん……」


ソファに寝転びながらUSBをしげしげと眺める。どこにでも売っている、ごく普通のものだった。


(さて、これはなんだ……)

この住所を知っていて、俺宛にUSBを送ってくる相手――ひとりだけ思い当たるが、確信は持てなかった。


(開いたら何が起こるかわからない。ウイルスか、あるいは……)

すぐに開く気にはなれなかった。


そのとき、また入口から声がした。

「すみません。こちら……電気屋さんですよね? 修理って……」


久しぶりの“ちゃんとした”来客の声だった。USBをテーブルに置き、立ち上がる。


「はい。どうしました?」


そこにはスーツ姿の若い男性。やややつれた顔でこちらを見ていた。

ワイシャツの第一ボタンは外れ、ネクタイは緩く締められている。髪は整えてあるが、目の下には薄い隈。営業スマイルが抜けないまま、疲労だけが滲んでいた。


その手には、ひと昔前に流行った小さなラジオが抱えられていた。

「このラジオを直すことはできますか?」

「これを……ですか?」

「はい。……ちょっと、変なんです」


言いにくそうにしながらも、彼は少し身を乗り出した。

「話してくれて大丈夫ですよ」


芹沢隼人せりざわはやとと申します。こちら、名刺を」


某有名商社の課長。名刺にそう記されていた。まだ三十代半ばくらいだろう。


「これは、妻の父の形見なんです。ずっと大切にしていたもので」

「なるほど。思い入れがある品なんですね」

「ええ、ただ……最近、このラジオ、勝手に電源が入るようになって」

「勝手に?」

「はい。夜中の決まった時間に、急に鳴り出すんです。最初は電池の入れ忘れかと思いましたが、電池も抜いてありますし、電源もオフのままで……」

「……それは、確かに普通じゃないですね」

「妻も怖がっていて……どうしても気になって、こちらに」


嘘ではなさそうだった。目が真剣で、迷いがなかった。


「分かりました。一度お預かりします。こちらに記入をお願いします」


安堵したように芹沢は依頼書を書き、頭を下げて帰っていった。


(……勝手に電源が入るラジオ、か)


ラジオを手に取り、ざっと外観を調べる。古いが丁寧に扱われていた痕跡がある。側面のダイヤルを回すと、チャンネル表示がぬるりと動いた。


そのとき――


「おい、邪魔するぞ」


顔を上げると、入口にはスーツの上からブルゾンを羽織った男が立っていた。

シャツの襟は少しよれていて、ネクタイもしていない。黒縁メガネの奥の目は鋭いが、どこか眠たげな印象を与える。


虎時――信坂虎時のぶさか とらとき。俺と同い年で、警視庁生活経済課・技術犯罪対策係に所属している。刑事ドラマに出てきそうなラフな雰囲気。


俺はうんざりしたように息を吐いた。

「なんだよ……いったい、何の用事?」


一方の俺は、薄手のグレーパーカーに黒のイージーパンツ。足元はスリッパ。まるで寝起きのまま、店に出てきたように見えるだろう。


「……まさか、その格好で客を迎えたのか? みっともないにもほどがあるな」


「そりゃそうですよね、警部殿」


皮肉を投げても、虎時は眉ひとつ動かさない。

「今のやつ、誰だ?」

「お客さんだよ。今日は珍しく真面目に仕事してるんだけど?」

「……また来る」


それだけ言い残し、背を向けて出ていった。


胸の奥がざわつく。

吐き出したい衝動を飲み込み、深く息を吐いた。


机の上のラジオに視線を戻す。

「さて。お前は、どうなんだ――」


静かな室内に、自分の声だけが落ちていった。

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