エピソード4
カタ、カタ、カタ……
キーボードを打つ音だけが、静かな部屋に響いていた。
画面に食い入るように見つめながら、何度もファイルを開いては閉じる。
「……ふぅ。まだ、分からない」
ディスプレイの眩しさに目を細めて顔を背けると、部屋の中はすっかり闇に沈んでいた。
――目の奥が重い。長時間、無言で画面と向き合いすぎた。
「またか……」
昔、了によく怒られた。
「お前はすぐ、周りが見えなくなる」って。
あいつ、今、どこにいるんだ――。
そんな自問を、もう何度繰り返したか分からない。
ふと、掛け時計に目をやる。
「……もう、こんな時間か」
溜め息混じりに頭を掻きながら、机の上に常備してある棒付きキャンディーを口に放り込む。
「……これも、あいつからだな」
よく煮詰まっているとき、了がくれた飴。それが始まりだった。
こんな子どもみたいなお菓子を持ち歩いてたくせに、妙に大人ぶる奴だった。
くるくると回す赤い飴玉。光を受けて、かすかにキラキラと揺れていた。
そのとき――店舗側から、かすかなノイズが耳に届いた。
ず……ずずず……
最初は気のせいかと思った。でも、音は確実に強まっていく。
ずずず……ずずず……
預かって以来、一度も触っていないし、電源も入れていないはずだ。
気味が悪い。
そのとき、足元に丸くなっていた「シロ」が、むくりと頭をもたげた。
「グゥゥゥゥ……」
低く、唸る。
「……シロ?」
暗がりの向こう、ラジオのチューナー部分に、微かな“点灯”が見えた。
「おいおい……なんだよ」
そっと近づこうとした瞬間、ノイズはぴたりと止まり、ラジオはただの“物”へと戻っていた。
(……勘違いか? 俺、疲れてんのかな)
「シロ……」と声をかけると、まるで何もなかったかのように再び眠りに戻っていった。
「俺も、寝たほうが良さそうだな……」
シロを抱き上げて寝室へ向かう。その時、机の上に置きっぱなしだったUSBが――小さく、緑色に点滅していた。
しかし、俺はそれに気づかないまま、部屋を後にした。
――――――――――
翌朝。いつもより遅い時間に目が覚め、コーヒーを啜りながらぼんやりと昨夜のことを思い返していた。
(あれは……本当に起きたのか?)
科学で解明できないことが“本当にある”と、完全には信じていない。
でも、頭の片隅に“説明できない不安”が残っていた。
「シロ。お前、昨日なんで唸ったんだ?」
問いかけると、シロは嬉しそうにしっぽを振りながら飛びついてきた。
「はは……まぁ、分かんないよな」
緊張が少しだけ解ける。
――だが、
「おい」
ソファの背後から、不意に声がした。
「……っ!」
驚いて振り返ると、そこには――昨日にも増して機嫌の悪そうな顔の虎時が立っていた。
「お前……なんでそこにいるんだよ! 不法侵入か!」
「何度も声をかけた。気づかないのはお前だ」
鼻を鳴らしながら、ずかずかと部屋に入ってきた。
「で、なんの用? 昨日も来てたよな。俺、そんなにヒマそうに見える?」
皮肉をぶつけても、虎時は意に介さずソファに腰を下ろした。
「昨日の客――あれ、誰だ?」
「……お前さ、いきなり来て、いきなり帰って、で、“お前”呼ばわりって。こっちのセリフだよ」
一瞬、虎時は言葉を飲み込み、そして、
「……すまない。じゃあ、“伊禮”と呼ばせてもらう」
――こいつ、謝れるんだ。
どうでもいいことに感心しながら、俺は「で?」と目線で先を促した。
シロが虎時のそばに近寄り、鼻先をすりつけて匂いを嗅ぐ。
そしてそのまま、頭を押しつけるように甘え始めた。
「この犬、人懐っこいな」
虎時の表情が、珍しくほころんでいた。
シロは大人しい犬だが、ここまで初対面に懐くのは珍しい。
とくに了がいなくなってからは、どちらかというと警戒心のほうが強くなっていたはずだった。
その様子を眺めながら、俺も少しだけ気が緩んだ。
「昨日の客が、ラジオの修理をしてほしいって」
「ラジオって……あれか?」
虎時は店舗の机に置かれたラジオを指さす。
「あぁ……ただ、なんというか、ちょっとな……」
「ちょっとって? 何かあったのか?」
言おうかどうか迷った。なぜ、虎時に話そうと思ったのか、自分でもよく分からない。
ただ、気がつけば言葉が口をついて出ていた。
「夜中に……勝手にノイズが聞こえた気がしてさ。ラジオから。……電源も入れてないし、電池も抜いたままなのに」
語尾が濁る。虎時は何も言わず、続きを待っていた。
「勝手に電源が入ったってことか?」
「……いや。分からん。俺が疲れてただけかもしれないし」
話をはぐらかすように答える。
「……そうか」
もっと否定的な反応が来ると思っていたが、意外なほどあっさり受け入れられた。
(……なんだよ、その反応)
「で? お宅さんのほうこそ、何か用事があって来たんじゃないの?」
話題を切り替えるように聞いてみる。
「おい、さっきは“名前で呼ばないのは失礼だ”って言ったくせに、“お宅”はどうなんだよ。私は信坂虎時だ」
「ははは、そりゃそうだ。じゃあ“虎時”で」
「……はぁ、虎時、ね」
むっとしながらも、どうやら許容してくれたようだった。
「昨日、あの客の顔を見て気になったんだ。内容は言えないが、話を聞きたくてな」
「事件関係ってことか?」
「いや、“事件”ってわけじゃない。だが、放っておける類のものでもなさそうだ」
俺は昨日の依頼者――芹沢隼人の名刺を取り出し、修理を持ちかけられた経緯を説明した。
虎時は黙って聞き、そして短く言った。
「分かった。じゃあ、夜にまた来る」
「……夜って? まさか、ここに来るのか?」
「そのまさかだ。どうやらこの家には伊禮だけのようだし、ちょうどいい」
(……なんて、勝手な)
そう思いながらも、俺自身も昨夜の異変が再び起こるかどうか気になっていた。
「……まぁ、いいけどな」
そうして、夜の“再訪”が決まった。
――――あんな約束、しなければ良かったかもしれない。
――――――――――
ここには、久遠 昂以外に常駐している人間はいない。
当然、客もいなければ、喧騒もない。
その“静けさ”が、じわじわと肌を刺すように感じ始めていた。
椅子に座ったまま、机上の古びたPCの画面をぼんやりと眺める。
――じりじりと、テープの擦れるような音。
そこに、浪曲の節がゆるく重なる。
「……えー、では一席、お付き合い願いましょうか……」
間の妙な長さが、不意に肌の内側をざらつかせた。
会社勤めの頃は、隣のデスクに誰かしらがいた。
それが鬱陶しく思えた時期もあったのに、今は不意に恋しくなる。
……了がいないからだけではない。
俺のほうから、誰かを拒むようにこの場に留まっているだけかもしれない。
「……さて、どうしたもんか……」
身体を反らし、無意識に天井を仰いだ。
「おい!」
突然、声とともに目の前に顔が飛び込んできた。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
驚いて椅子から滑り落ち、派手な音を立てる。
「なにやってんだ、伊禮」
呆れたような声で虎時が言った。
「い、いでで……おどかすなよ……」
「はあ? てか、この家ってチャイムないのか? 何度も呼んでも気づかないんだが」
「ああ……そういえば……ないな」
「いや、それ結構まずくないか?」
「今までは必要なかったんだよ」
「まあいい。ほら、これ買ってきた。食え」
虎時は無造作にテイクアウトの牛丼を差し出した。
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