第53話 音になるまで

「初めて二人でカウンセリングに来たからって、そんなに緊張しなくてもいいのよ。白鷺さんも清瀬さんも、顔がすごく硬いわ。」


 林先生にそう言われても、音羽も澪も、そして母も、ただ黙り込んでいた。

 言葉どころか、三人ともそれぞれ思案に沈んでいて、林先生には手がかりがつかめない。


 澪ははっと顔を上げ、慌てて口を開いた。

「林先生、おばさん。実は相談したいことがあって……今日、鈴木先生が声をかけてくれました。もし希望すれば、鈴木先生のクラスに替えてもらえるって。」


 予想外の言葉に、母は思わず「えっ」と声を漏らす。音羽もこくりとうなずいた。


「それで……二人はどう思ってるの?」

 林先生がペンをくるくる回しながら、カルテを開く。


「正直、私はまだ考えがありません。頭の中は、どうやって母を何とかするかでいっぱいで。」

 澪の声はいつもより冷たく、張り詰めていた。


 林先生は少し驚いたように目を瞬き、音羽へ視線を移す。

「白鷺さんは、どう?」


 音羽は長いあいだペンを走らせ、ようやく文字を見せた。

『もしクラス替えしたら、自分は逃げ出した兵士みたいに思えてしまう。今のクラスで戦うべきじゃないかって。努力が足りないだけなんじゃないかって。もっと努力すれば、いつか認めてもらえるかもしれない。

 それに、先生ひとりのせいで、自分の成績まで左右されるのもおかしい気がして……』


 林先生の目が大きく開かれる。そして突然、ぱん、と手を打った。

「集中して!カウンセリングは『相談・助言』よ。君たちは少しでも心を楽にするために来ているんでしょう?第一歩は――自分を許すこと。今の発言、最初に来たときと同じよ。」


 澪と音羽は同時に顔を上げた。


「初めて清瀬くんが来たとき、『母から逃れられないから全部無意味だ』って未来に何の期待も持っていなかった。白鷺さんは『努力が足りないせいでこうなった』って、自分を責めてばかりいた。」

 林先生はわざと肩を落としてみせる。

「……やっぱり、私の力不足なのかしら。」


「ち、違います!そんなつもりじゃ――」

 澪は慌てて声を上げ、音羽も必死に首を振る。

 母と林先生は顔を見合わせて、思わず笑った。澪と音羽ももつられて、気恥ずかしそうに笑みを浮かべる。


「じゃあ、もう一度だけ答えて。」


 澪はしばし考え、やがてはっきりと口を開いた。


「私は、鈴木先生の提案は善意だと思います。理性的に考えれば、その手を取るべきだ。『どこにいても結果を出せる』って強がりを言うこともできるけど、本当に心を砕いてくれる先生がいるなら、そのほうがずっといいはずです。」


 音羽もすぐにペンを走らせる。

『私は澪くんの意見に賛成。でも……逃げ出すみたいで怖い。それに、もしクラス替えしたら、大木先生のことは結局うやむやになるんじゃないかって。私はもう彼のことは怖くないけど……』


 母は文字を読み終えると、優しく音羽の髪を撫でた。

「あなたたちはまだ純粋ね。こんなこと、どれだけがきちんと処理されると思う?その間にどれほど時間も気力も奪われるか。クラス替えを提案してもらえたなんて、むしろ迅速な対応よ。」


 林先生も真剣な声で言う。

「白鷺さん、いつも言ってるでしょ。どうしたら楽に生きられるか考えてって。クラス替えは逃げじゃない。これは君と清瀬くん、それにお母さんが一緒に努力して得た結果。新しい環境で心地よく学べるなら、それは逃げどころか立派な選択だよ。」


 そして澪に視線を移す。

「清瀬くん、君が白鷺さんを守ろうとしたことは、学校にとっても難しい問題だったはず。新しい先生が最初から心を開いてくれるかどうかはわからない。でも、この瞬間に差し伸べられた手を掴まなかったら、本当はどうなのか一生わからない。だからこそ――掴んでみなさい。」


 その言葉を聞いた瞬間、澪は立ち上がり、母と林先生に深々と頭を下げた。

「本当は、昨日道路で無茶をしたことを話し合うべきなんですよね。でも、絶対にもうしません。生きてなきゃ、何が起きるか確かめることもできないから。音羽が声を出せたのは奇跡なんかじゃない。彼女の努力です。だから私も必ず努力します。……でも、今日はまだやらなきゃいけないことがあるので、失礼します!」


 そう言い残し、彼はドアを飛び出していった。


 追いかけようとした音羽を、母と林先生は同時に首を振って止める。

「今の彼の目は、本当に澄んでいて強かった。あれは止めなくていいわ。」

 そして、林先生は音羽に優しく微笑む。

「白鷺さん。ちょうどいいから、今のうちに喉のチェックをしておきましょう。」


 これは、私にとって生まれて二度目の全力疾走だった。

 最初は――母に何日も閉じ込められたあと、音羽が私を見つけ出してくれたあの日。

 私は彼女を連れて、安全な場所へ逃げようと必死だった。絶対に母に傷つけさせてはいけない、と。

 けれど走っているうちに、胸の奥に湧き上がってきたのは、今まで知らなかった安心感と幸福だった。

 あの瞬間、私ははっきりと気づいた。彼女と一緒に生きていきたい――そう思ったのだ。


 そして二度目が、今。

 外から見れば、私は彼女から遠ざかっていくように走っているのかもしれない。でも実際は、そのすべてが彼女に近づくための一歩だった。

 恐ろしい母のもとへ向かっているはずなのに、胸の奥には不思議なほどの静けさがあった。


 ……好きになるって、こんなにも人を強くするんだ。


 初夏の風が、草と土の匂いをまとって耳元をかすめていく。

 胸いっぱいに空を抱きしめろ、とでも言うように。

 足元の大地は温かく、踏みしめるたびに確かに応えてくれる。

 駆け抜けるたび、木の葉がさやさやと揺れ、木漏れ日が髪に散って、砕けた金の粒のように輝いた。

 心臓が激しく打ち鳴る。けれどそれは苦しみじゃない。大地とともに奏でる、生きている証のような音楽だった。


 澪は息を切らしながら母の勤める学校へ駆け込み、そのまま職員室のドアを勢いよく開け放った。

「母さん!」


 母は驚いて振り返る。周りには同僚たちがいたが、言葉を失ったように固まっていた。


「母さん、今日からもう、私はあなたのもとへは戻らない!」

 澪の声はさらに大きく響く。職員たちが顔を見合わせ、ざわめきながら席を立とうとする。だが彼はわざと、もっと強い声を張り上げた。

「私はずっと、逃げちゃいけないと思ってきた!母さんのそばを離れられない、祖父たちに迷惑をかけちゃいけない、差し伸べられた手を掴んではいけないって……そうやって縛られてた!でも間違ってたんだ!私は生きるための綱を、差し伸べられた手を、全部掴む!私は生きたい!これは逃げじゃない。私は自分の足で離れるんだ!」


「なに言ってるの、学校で大声なんて……すみませんね、うちの息子、精神的に不安定で。」

 母は作り笑いを浮かべ、同僚たちを外へ追い出すと、ドアを閉めた。


 だが澪は逆に口元を歪め、笑みを深める。

「そうだよ、精神がおかしくなりそうなんだ。だって、あんたのそばで生きるのは、いつも薄氷の上を歩くみたいだから。」


 そう言って袖をたくし上げた。

「見ろよ。昨日はずいぶん強く叩いたな。普段みたいに加減しなかったから、跡がはっきり残ってる。」


 胸は焼けるように熱く、呼吸は荒いのに、意識だけは驚くほど冴えていた。

 ――いま、この瞬間しかない。

 迷いも、恐怖も、後悔も、すべて深淵の影に置き去りにしてきた。

 目の前に残ったのはただ一つ。踏み出す道。

 細い鋼の糸のように頼りなく、風に揺れていても、進むしかない。

 一歩一歩、光へ向かって。

 賭けるなら、いましかない。そうしなければ、一生光には届かない。


「私はちゃんと児相に行くし、学校にも話す。おじいちゃんのことだって守る。

 母さん、次にもし私やおじいちゃんを傷つけたら、必ず警察に通報する。

 一度で動いてくれなくても、二度でも三度でも、何度でも通報する。」


 そこで一度、息を整える。


「――私は、生きたい。」


 昨日は、音羽が奇跡を越えて、私に声を届けてくれた。

 今日は、私が現実を越えて、その想いに応えるために声を放つ。

 たとえその声が何度かき消されても、私は何度でも口を開く。

 その響きが、いつか本当の「音」になるまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る