第52話 Be the light
鏡の前に立ちながら、音羽は少し不思議に思った。
いや、不思議というよりは、現実感がうまく湧いてこない。
昨夜あれほどのことがあったのに、今朝になればまるで何もなかったかのように太陽は昇り、制服に袖を通せば、また学校へ行く日常が始まる。
彼女はそっと喉に触れる。もう昨夜ほどの痛みはない。
そのとき、母が部屋に入ってきた。両手で抱えているのは金魚鉢。けれど中にあるのは魚ではなく、紫陽花の花だった。母はそれを机の上に置くと、やさしく微笑んだ。
「きれいでしょう。金魚鉢というより、水晶みたいね。」
音羽は笑顔でうなずくと、ゆっくりと近寄り、しゃがみ込んで花をのぞき込んだ。
水の中で花弁はゆるやかにひらき、淡い紫から深い藍へと移ろう色が、透きとおるように揺れていた。
光の粒が水に溶け、花脈と水面が重なり合う。
ときどき浮かぶ泡に触れれば、紫の影はふわりと揺れ、幻の灯のように水底を照らしていた。
「音羽、声を取り戻すことは急がなくていいの。昨夜あなたが清瀬くんを止められたのは奇跡だった。でもね、奇跡のあとは努力なのよ。」
音羽は顔を上げ、母を見つめた。
もし今、声が出せるなら。私が言いたいのは、きっと「綺麗」だ。
紫陽花は切って花瓶に挿せば、半日も経たずにしおれてしまう。
けれど水の中では、こんなにも綺麗に咲き続ける。
母の黒髪にも、いつの間にか銀色が混じりはじめていた。
それでも――どんなときも、変わらず綺麗な人だ。
「奇跡のあとは努力なのよ。」その言葉もまた、綺麗。
綺麗な人が、綺麗な心で世界を見ているからこそ、生まれてくる綺麗なのだ。
澪が鞄を整えて音羽の部屋の扉を軽く叩くと、母が笑みを浮かべながら二人を見やった。
「では、いってらっしゃい。今日も、美しい一日をつくってきなさい!」
音羽と澪が学校に着くと、斎藤先生がさっそく声をかけてきた。
「白鷺さん、清瀬さん。今日の午前中、英語の授業のときに、ちょうど隣のクラスも鈴木先生の英語なんだ。よかったら、一緒に見に行ってみない?」
音羽は首をかしげる。その横で、澪が少し身構えたように口を開く。
「……斎藤先生。もしかして、私が大木先生を告発したから、その授業には出したくない、ということですか。」
「清瀬くん、そんなふうに難しく考えなくていいんだよ。ただ単純に、鈴木先生の授業を体験してみてほしいだけなんだ。」
斎藤先生はやわらかく笑ってそう答えた。
鈴木先生は隣のクラスの英語担当で、いつもにこにこの大木先生とは正反対。普段はどこかぽやっとしていて、生徒との距離もあるように見える。
けれど杏の話によれば、実はただの人見知りで、仲良くなればとても面倒見がよく、一緒にお弁当を食べたり質問に答えてくれたりするらしい。
――仮面と素顔。その違いを、二人の先生が目の前で演じていた。
「こちらは隣のクラスの清瀬くんと白鷺さん。英語スピーチ大会に出る予定なので、今日は特別に私の授業も見てもらおうと思います。」
鈴木先生は少しかしこまった口調で、どこか緊張したように紹介した。
「せんせーい、二人のこと知ってます!音羽ちゃんは、私の隣に座っていい?」
杏が元気いっぱいに手を振る。
「お、おお……いいよ。」
少し間の抜けた返事に、思わず笑みがこぼれる。なんだか可愛らしい先生だ。
杏はすぐに手を振り、隣の席の空くんに声をかけて場所を譲ってもらった。
空くんはそのまま後ろの席に移り、澪に向かって大きく手を振って合図する。
二人が席についたのを確認すると、鈴木先生は黒板に向かい、チョークで一文の英語を書き出した。
『The night is long that never finds the day.』
「この一文、どう理解する?」
先生が振り返ってクラスに問いかける。
「……夜が長いってこと?」誰かが答える。
「夜が長すぎて、まるで朝が来ないみたいってことかな。」
杏が少し考えて答えた。
――いや、違う。この言葉にはもっと深い意味がある……
音羽はそう思いながら、ペンを手に取った。
「朝が来ないなんて、ありえないだろ!」
後ろの席で、空が杏にツッコミを入れる。
鈴木先生は自分の席にゆっくり腰を下ろし、それから澪に視線を向けた。
「清瀬くん、この一文をどう思う?」
「これはシェイクスピアの『マクベス』に出てくる言葉です。私は、『どんなに長い夜でも必ず夜明けを迎える』という意味だと思います。」
「おお、よく知ってるね。そう、これは『マクベス』第四幕第三場の最後に出てくる言葉で、マルコムがマクダフを励ます場面だ。このときマクダフは妻や子どもを皆殺しにされたことを知った。マルコムは絶望した彼を奮い立たせ、悲しみを行動に変え、マクベスに立ち向かうよう促さなければならなかったんだ。」
鈴木先生は少し興奮気味に答えた。
それから考え込むように頭をかき、補足する。
「だから、みんなの訳はどれも間違ってない。夜は本当に長く、夜明け前は本当に暗い。大切な人を失ったら、誰だってそう思うはずだ。でも夏目くんが言ったように、朝が来ないなんてありえない。それはつまり、清瀬くんの言ったことでもある。
調べてみれば、この言葉を『明けない夜はない』と訳している人も多い。けど私は、それだけがシェイクスピアの言いたかったことじゃないと思うんだ。」
「えっ?正反対のことを言ったのに、まだ意味があるんですか?」
杏は不思議そうに首をかしげた。クラスの他の生徒たちも戸惑っている様子だった。
鈴木先生は音羽がペンで書いたものに気づき、声をかけた。
「白鷺さん、それ見せてもらえる?」
音羽はうなずき、前に出てその紙を先生に渡した。
受け取った先生は目を大きく見開き、うなずいてから黒板に向かってこう書いた。
『Be the light.』
「白鷺さんの答えは、私の考えとほとんど同じだ。きっと彼女も『マクベス』のこの場面を知ってたんだろう?」
音羽はもう一度うなずいた。
「さっきも言ったように、これはマルコムがマクダフを励ますときの言葉だ。シェイクスピアの『夜』のイメージは、ただ暗くて長いだけじゃない。もし朝が来なければ、人はそれを永遠だと感じてしまう。そのときマルコムとマクダフは、自分たちが闇を払って夜明けをもたらす存在にならなきゃいけなかった。つまり――Be the light.」
教室はしんと静まり返り、みんな考え込むように黙り込んだ。
空がぽつりとつぶやく。
「ややこしいな……難しい。」
鈴木先生は苦笑して続けた。
「難しいよな。似たことわざに 『It’s a long road that knows no turning』 ってのがある。直訳すれば『曲がりのない道はどこまでも長い』。でも本当の意味は、『どんなに長い道にも必ず曲がり角がある』。
要するに、解釈はどれもアリなんだよ。だから全部話しておいたんだ。大事なのは正しいかどうかじゃなくて、自分にとって『これだ』って思える、前を向ける答えを選べるかどうかなんだ。」
――この言葉は、この先生がわざと選んだのだ。
音羽と澪は、そのことを一瞬で悟り、思わず互いに目を合わせた。
なんて優しい先生なんだろう……
授業が終わったあと、鈴木先生は音羽と澪を自分の職員室へ連れて行った。
部屋に入るなり、先生はやけにそわそわして、慌てて椅子を指さした。
「どうぞどうぞ、座ってください。」
そしてすぐに尋ねてきた。
「今日の授業……どうだった?」
澪は軽く会釈して答える。
「ありがとうございました。」
その言葉に、鈴木先生は逆に驚いて、肩をすくめるように身を縮めた。
「いやいや、そんな。私は別に大したことしてないから」
音羽がノートに文字を書いて示す。
『先生、私たちを呼んだのは何のためですか?』
鈴木先生は少し言葉を探すように間を置き、それから正面から口を開いた。
「どう言えばいいか……迷ったんだけどね。白鷺さんと大木先生のメールは、私も読ませてもらったし、これまでの聞き取りにも全部同席してきた。だから、斎藤先生にお願いしたんだ。もし二人が望むなら、うちのクラスに移れるようにって。
うちと今のクラスは、英語といくつかの科目を除けば先生は同じだし、大きく環境が変わるわけじゃない。ただ……これからも聞き取りや心理相談は続くだろう。でもね、生徒にとっていちばん大事なのは『授業を受けること』だと思うんだ。先生が誰かっていうのは二の次だ。
その『二の次』のことで、もし勉強が追い詰められるなら、それは本末転倒だし、わざわざ自分を精神的に追い詰める必要もない。だから今すぐ答えを出さなくてもいいけど……環境を変えるという選択肢もあるんだってことは、覚えておいてほしい。」
本当は「Be the light」で私たちを励ましてくれたのに、
最後には自分から光を手渡そうとしてくれるなんて。
どうしてだろう。音羽の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
――どんな一日であっても、明日はまた新しい朝がやって来る。
太陽は必ず昇り、心にはきっと、新しい光が宿る。
毎日が、新しい気づきになる。
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後書き:
これまで私は風景や心の声、さまざまな描写を通して「また新しい一日が始まる」ということを書いてきました。今回のお話でも、昨日(第50・51話)あれほどの出来事を経たのに、翌朝になればまた普通に学校へ行く――その感覚から、シェイクスピアのあの一文を思い出したのです。
「The night is long that never finds the day.」
そして不思議なことに、ちょうど昨日、ある方が「好きなONE OK ROCKの曲は Be the light です」とコメントをくださいました。まるで必然のように、この曲名こそがシェイクスピアの言葉への最高の答えだと感じました。改めて聴いてみると、歌詞もこのお話に不思議と重なり……もしかしたら作詞の方も、同じ一文から着想を得ていたのかもしれません。とても縁を感じる瞬間でした。
また、物語の終章に鈴木先生を登場させたのは、私自身もかつて最後のときに、本当に「鈴木先生」という方に救われたからです。その感謝を込め、この姓をそのまま使わせていただきました。
そして紫陽花のこと。切って花瓶に挿すと半日ももたないのに、水に沈めておくと四、五日は家で楽しめて、色も少しずつ変わっていきます。私にとってはとても美しい思い出であり、「水底に沈む」という一見重たい響きが、かえって希望のように感じられるのです。
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792439206446125
どうか今回の新しい登場人物、シェイクスピアの言葉、この歌、そして紫陽花から――来週を迎えるための力を少しでも受け取っていただけたら嬉しいです。
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