第50話 叫べない。叫びたい。叫べたい——!

「世に『セクハラ』『パワハラ』『アカハラ』『モラハラ』とやら、数え上げればきりがないほどの言葉が氾濫している。もはやそれ自体が新しい語の見本市のようである。  

 これをして『現代の人間が打たれ弱くなった証左』とするのは、なんとも手軽な解釈だ。もしそう片づけてしまえば、それは典型的な『自己責任論』――いや、より正確には『被害者非難』というやつに過ぎぬ。  

 むしろ人々の裡には、未だに陋習の澱が沈んでいて、部下や女性、学生や同僚を、好き勝手に侮辱してよいのだと信じて疑わぬ輩がいる。ゆえに、『ハラ』と名のつく語は、雨後の筍のごとく現れる。


 彼らは『弱肉強食』を口にするが、それは獣たちの掟であって、人間社会の規範であるはずがない。しかも不思議なことに、そうした振る舞いをするのは、えてして『教養ある人物』と呼ばれる類なのである。ここに至っては、原因が何であるかなど、誰にも言い当てられまい。  


 ただ一つ分かっているのは、声を上げる道が決して平坦ではないということ。


 傷を負った者は、冷たく狭い部屋に通され、幾度も同じ記憶を掘り返し、語らされる。それは取り調べでもないのに、取り調べのように思えてしまう。そして日ごとの心理相談、果てなき自問、友や家族との対話――それらを経ても、必ずしも結果がもたらされるわけではない。権力者を引きずり下ろすことは容易でなく、『体面』という厄介な壁は会社にも学校にも、厳として聳えている。  


 では、人は皆、水底に沈んだまま何もせずいるのか。否。掴める一本の綱があるなら、それを掴めばよい。己の手に握れるものを握り締めればよい。年齢に関わらず、人にはなお、風を裂き波を越える勇気が残されている。」


 いつもの診療室で、音羽はジュースを飲みながら、ちらちらと林先生の顔をうかがっていた。


「白鷺さん、これって日記?いや、もう立派な文章だね!」

 林先生は満足そうに感心して言った。

「で、こういう取り調べみたいな聞き取り、もう何回くらいあったの?元気にやれてる?」


 音羽は首をかしげて、少し考えてからノートに書いた。

『五回。大丈夫です。スッキリしました。』


 そう、五回。先週の木曜日に澪くんが大木先生を告発してから、わずか四日間のうちに五回。今日はまだ月曜日だ。

 けれどこれは、彼が自分の窮地にありながらも、私のために勝ち取ってくれた調査の機会。どれほどしんどくても、私は決して無駄にはしない。


「そうか……白鷺さん、本当に成長したね。」

 林先生は満足げにうなずいた。


 音羽はすぐにペンを取り、ノートに一行書き足した。

『先生、今日の発声練習を始めましょう。』


「いいね、その調子で行こう。白鷺さん、きっとすぐに声を取り戻せるよ。」


 練習が終わると、音羽は慌ただしく林先生にお辞儀をして、すぐに診療室を出た。


 彼女は知っていたのだ。あの人が必ず待っていてくれることを。

 心理相談のある日、澪はいつもこうして迎えに来てくれる。今日だって、きっと。


 階段を降りて外へ出ると、やはりそこには澪がいた。

 夕陽を背に、診療所の前で片手をポケットに入れ、少し照れくさそうに笑っている。


 音羽は思わず、一歩、二歩、三歩……小さく跳ねるように駆け寄った。

 すると澪は、人差し指で彼女の額を軽く弾いた。

「何だよ、そのテンション……ほら、靴ひも解けてるぞ。」


 音羽が慌ててしゃがもうとすると、彼が先に片膝をついた。

 器用な指先がひもを結んでいくのを見下ろしながら、彼女の胸の奥はじんわりと熱くなる。


 ――あれは、初めてだった。澪くんが自分より低い位置にいるのを見るのは。


 音羽が空中で背丈を測るように手を動かすと、澪は顔を上げてくすりと笑った。

「それ、むしろ私の方が低く見えてない?」

 二人の視線が重なり、同時に笑みがこぼれる。


 初夏の風が通り抜け、制服の袖をふわりと揺らした。街路樹の若葉は光を透かし、どこか甘いの香りが漂ってくる。


 やがて並んで歩き出したとき、音羽はスマホを開き、指先で文字を打った。

『おじいちゃんと一緒の生活、大丈夫?』


 澪は画面をのぞき込み、ふっとやわらかく笑った。

「うん、まだ仮の家だけどさ。じいちゃんと毎日しゃべるし、ご飯も作ってくれるんだ。でも、おばさんの料理には敵わないかな。」


 その言葉に、音羽の胸の奥にあった不安はふっとほどけていく。

『よかった。ずっと順調だといいね。』


「そうだな。問題はそれぞれあるけど……今はすごく楽しい。だから、私ももっと頑張りたい。期末テスト、次は音羽より順位上かもしれないよ?」


 音羽は思わず微笑み、澪もつられるように笑った。


 少しして澪は「ちょっと待って」と言い残し、角のコンビニへ駆け込んだ。

 戻ってきたとき、彼の手にはまだ湯気の残るホット缶コーヒーがあった。

「さっきからずっとお腹押さえてただろ……これ、温めてみたら楽になるかも。」


 音羽がそれを受け取ると、掌からじんわりと温かさが広がった。

 傾いた夕陽に染まる初夏の空は、淡いオレンジと若草色が溶け合い、まるで二人を優しく包み込むようだった。


 ――そうだ。

 私の好きな人は、こうして一緒に前を向いて歩いてくれる人。細やかに気づいてくれる人。そして、きっと幸せになってほしいと願わずにいられない人。


 音羽を家の前まで送っていったあと、澪の心はどこかふわふわしていた。

 口元は自然にほころび、どうしても笑みを抑えられない。


「今日はじいちゃんに何を作ってあげようかな。」

 彼は思わず小声でつぶやく。


 ――もし幸せに味があるなら、きっと彼女の笑顔みたいに甘い。

 桃のようにジューシーで、牛乳みたいにまろやかで、胸いっぱいに広がっていく。

 もし幸せに色があるなら、それは彼女が好きな色。

 ピンクとブルーが空で溶け合う、夢みたいに柔らかいグラデーション。

 もし幸せに形があるなら、それはきっと彼女の姿。

 名前を呼べば振り向いてくれる、その仕草一つで世界が輝く。

 彼女がそばにいるだけで、私は何度だって幸せになれる。


 そんな幸せの空気に包まれたまま、澪は家のドアを開けた。

「じいちゃん、ただいま――」


 ……だが、その瞬間、空気は一変した。


 リビングには母が腕を組んで立っていた。冷え切った目が、澪を鋭く射抜く。

 ソファには祖父。顔は真っ赤に染まり、胸を押さえながら苦しげに息をしている。


「全部あんたのせいよ!」

 玄関に入った澪を見て、母の声が突き刺さった。

「どうして私はあんたなんか産んだの!ろくな夫も持てなかったくせに、今度は私の父まで奪うつもりなの!?」


「……おまえ、正気か!」

 祖父が声を振り絞る。

「この子はおまえの息子だぞ!いい夫を持てなかった?そんなことはこの子のせいじゃない!」


「私はあんたの娘よ!」

 母は顔を歪めて叫んだ。

「なのに、今は息子の味方をして私を責めるの!?」


 祖父は首を横に振り、取り合う気もなく黙り込んだ。けれど母はなおも叫び続ける。

「体も弱ってるくせに、この子を育てられるって言うの?あんた医者でしょ、自分の顔を鏡で見てみなさいよ!その息の荒さも!」


 澪は慌てて駆け寄り、祖父の体を支えた。

 祖父は震える手で澪の手を叩き、まるで「心配するな」と伝えるようだった。


「この子だって本当はあんたなんか迷惑なだけ!母親の私が一番分かってる!」


「ちがう、そんなこと言わないで……母さん、やめて!」


「……不孝娘!」

 祖父が怒鳴った、その直後。胸を押さえ、激しく咳き込み、力なくソファに崩れ落ちた。


「ぜんぶあんたのせい!」

 母は混乱したまま叫び続け、澪の腕に掴みかかる。爪が肌に食い込み、痛みよりも恐怖が胸を締めつけた。


 救急車。点滅する赤いライト。

 病院の廊下に座り込む澪は、もう立ち上がる力も残っていなかった。

 病室の中、酸素マスクをつけた祖父の胸がかすかに上下し、心電図の電子音が規則的に鳴り響いている。


 澪は両手で頭を抱え、うずくまった。


 母の声が、まだ耳に焼きついている。

「ぜんぶあんたのせい!」

 その呪いの言葉が、何度も何度も頭の中で反響する。


 ……私のせいだ。全部私のせいだ。

 やっぱり私は幸せになっちゃいけないんだ。

 少しでも幸せを掴めそうになると、必ず全部壊れてしまう。

 もしあのとき、もう少しだけ耐えて、反抗なんてしなければ……じいちゃんを、こんな苦しい目に遭わせずに済んだ。


 もし、私がいなければ。

 もし、私なんて……最初から存在しなければ。

 じいちゃんも、母さんも、誰も傷つかずにすんだのに。


 ……もし、私がいなければ……


 澪はふと立ち上がった。

 足取りはおぼつかないのに、止まろうとする意思もない。

 顔は茫然としたまま、瞳には光が消えていた。


 病院の自動ドアが音を立てて開き、夜の風が吹きつける。

 頬を伝った涙はすでに乾き、細い跡だけが肌に残っている。


 歩くたびに身体は軽く揺れ、まるで地面に足がついていないかのようだった。

 街灯の下を通り抜けても、その目は何も映さない。ただ暗い夜の中を、漂うように歩き続けていた。


 ……私がいなければ……


 音羽と母は連絡を受け、慌ただしく病院へ駆けつけた。

 車を降りた途端、病院の正面からふらふらと歩き出す澪の姿が見えた。

「音羽、私は清瀬くんのおじいさんの様子を見てくるわ。あなたは清瀬くんをお願い。」

 母の言葉に、音羽は大きくうなずき、その背中を追った。


 ――ああ、もし今すぐ声が戻れば。呼び止められるのに。


 焦りに突き動かされ、彼女は小走りになった。

 澪はまだ気づかず、ただ無目的に前へ進み、そのまま横断歩道へと足を踏み出す。


 ……え?澪くん?


 そのときだった。

 澪の足がふいに止まった。

 その視線の先――遠くの車道を、一台のバスがこちらへ向かって走ってきていた。


 音羽は必死に走った。


 ……澪くん、だめ。止まって……


 けれど声は出ない。胸の奥で叫んでも、喉は張り付いたように動かない。


 やめて……やめて……やめて!!

 誰か止めて――違う、私が、止めなきゃ……


 あのときと同じだ。

 小春を救えなかった、あの絶望がよみがえる。


 ……ちがう。だめだ。

 今度こそ。今度こそ私は……


 無意識にさらに足を速める。

 だが息が詰まり、胸がきしむ。最近は走っても平気だったのに、なぜか今日は呼吸が苦しい。


 酸素が足りない。喉の奥が焼けるように痛む。

 肺の奥から、何かが突き破るように込み上げてきた。

 焼けつくような痛みとともに、喉が震える。


 叫ばなきゃ。今、今しかないのに……!

 心が叫んでいるのに、声は――また出ない。


 ……どうして、私はこんなときに。

 小春のときも、澪くんを支えたいときも、いつも声が出せなかった。


 守りたい人がいるのに、私はただ泣くだけで。


 もし、澪くんまで失ったら……私の青春は、そこで途切れてしまう。


 音羽の顔は涙でぐしゃぐしゃになり、途切れることなく頬を伝って落ちていった。

 涙でにじむ視界の先、澪のすぐ正面に、バスのライトが迫ってくる。


 叫べない。

 叫びたい。

 叫べたい――!


 ああ、神さま。お願い、お願いだから……

 どうか、この一度でいい。

 たとえ一生声が戻らなくてもかまわない。

 この瞬間だけでいい、私に――声をください。


 私に――澪くんを守れる声をください!


「……だめぇぇぇっ!!!」

 掠れた声だった。

 それでも、夜を切り裂くほどの叫びとなった。


 澪がはっとして振り返る。

 その瞬間、音羽は迷わず飛び込み、澪の腕を強くつかんで引き寄せた。

 二人の体は歩道に倒れ込み、アスファルトの衝撃が全身に痛みを走らせる。


 バスの風圧がすぐそばをかすめ、夜気が震えた。


 倒れた拍子に、音羽の瞳から大粒の涙があふれ出す。

 胸が張り裂けそうで、震える唇から声が絞り出された。

「だめ……澪くん!!」


 その瞬間、せき止めていたものが一気に崩れ落ちる。

 涙が滝のようにあふれ、喉の奥からは途切れ途切れの叫びがもれた。

「なにしてるの……」

「どうして……そんなバカ……なこと……」

「いなく……ならない……で……」

「い……き……」


 震える喉からやっとこぼれた「だめ」。

 それはやがて、泣き腫らした顔で息を奪われるほどの叫びとなり――

 最後には、糸が切れるように細くなって、静かな虚無の中に消えていった。


 ……ああ、神さま。

 たとえ一瞬でも、私に澪くんを守る声をくれて……

 ありがとう。


 でも……神さま。

 本当は、ちゃんと伝えたかった。

 どうして死ななきゃいけないの。


「いきてよ!」


 最後の声が夜に溶けると同時に、音羽の身体は力を失い、

 そのまま意識を手放した。

 頬にはまだ、乾かぬ涙の跡が刻まれていた。


 ーーーーーーー

 後書き:

 残念ながら、この一話は、私が知っている現実をもとにしています。最初の何ハラも、最後の出来事も、現実なんです。だから私自身も、とても残念で……本当はただの物語であってほしかった。

 でもね、不思議と人は生きていける。どんなに苦しくても、きっと生きていける。ちゃんと良くなる。必ず良くなる。だから、どうか、自分の命を大事にしてください。

 今日、私の知るその人も、笑いながらこう答えてくれました。

 ――「生きててよかった。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る