第38話 鯨は泳ぎ、鹿は走り、そして私たち

「むかしむかし、海の果てに、

 ひと粒の真珠みたいに小さな島がありました。

 海は深い瑠璃色に透きとおり、

 波は白い糸をほぐすように岸をなでます。

 潮の香りはほんのり甘く、

 その奥に、遠い旅の記憶のような苦みをひそめていました。


 ある日、その砂浜に、一頭の青い鯨が流れ着きました。

 長い旅の途中で力をなくし、波に運ばれてきたのです。

 息は重く、瞳はかすみ、それでも彼は耳を澄ませました。


 ──ひら、ひら、ひら。


 白い蝶が風にのって舞い降り、

 その後ろから、翼を失った精霊鹿がやってきました。

 彼女はもう空を翔けられないけれど、

 風のにおいを抱きしめるように走り、

 蝶と笑いながら、波打ち際まで駆けていきます。


 その姿を見ていると、

 鯨の胸に、小さな潮のあかりが灯りました。


 日がめぐり、鯨は少しずつ尾びれを動かす練習をしました。

 海に戻れる力を取り戻しても、

 夕暮れになると必ず島へ帰ってきます。

 蝶と戯れる精霊鹿のそばで、

 彼は潮騒と風を分け合いました。


 ──けれど、その穏やかな日々は、ある日破れました。


 海の向こうから舟が近づき、

 魚叉が空気を裂いて飛んできました。

 鋭い鉄が鯨の額に突き刺さり、

 青い海は、ゆっくりと赤に染まりました。


「……ここにいたら、もう二度と会えなくなる。」

 彼はそう悟り、血を引きながら沖へ泳ぎ去りました。


 浜辺に残された精霊鹿は、丘を駆け上がりました。

 海の向こうへ行くには、もう一度飛ばなければ。

 助走をつけ、崖から跳びました。


 風が体を抱きしめ……

 けれど次の瞬間、岩に叩きつけられ、

 白い毛並みが赤に染まりました。

 痛みが足を震わせても、

 彼女はまた丘を見上げます。


 海のどこかで、鯨は泳ぎ続けています。

 空の下で、精霊鹿は走り続けています。


 ──二つの命は、

 それぞれの海と空を越えて、

 いつかその距離を埋められるのでしょうか。」


 月明かりの下、少女と猫がベランダで小さな茶会を開いていた。透かし模様のランプが床に大小さまざまな薔薇と星を落とし、猫は机の上で丸くなり、時おり缶詰を舐める。少女は花茶をひと口、ゆっくりと味わっていた。


「この話、ちょっと暗すぎない?」小春は前足を舐めながら、ふと口を開いた。


「でも、力があると思わない?」音羽はカップを置き、缶詰をスプーンでほぐして彼女に差し出す。「だって、もしかしたら鯨は、地面と銛への恐怖を越えるために泳ぎ続けているのかもしれないよ。」


「じゃあ、精霊鹿が翼を取り戻す前に、鯨が戻ってきて人間に勝てるってこと?」小春はあきれたように伸びをして、両の前足を投げ出した。


「誰にも分からない。でも、精霊鹿は鯨が来なくても、きっと自分から探しに行く。」音羽は、どこか遠くを見ながら、静かに笑った。


 夜は、願えばいつでも小さな茶会をひらき、

 月は、見上げるたびに星の余白で物語を書き換えてゆく。


「……大春、お願い……帰ってきて……」

 澪はいくら探しても大春を見つけられなかった。マンションの下のゴミ箱、室外機の裏、公園のベンチや街路樹の根元、あの子が好きだった川辺……どこにも姿はない。涙なのか汗なのかも分からないものが地面に落ちたとき、彼は思わず顔を上げ、透きとおる月と星を仰ぎ見た。

 腕を持ち上げて、両目をすっぽり覆う。闇がそのまま押し寄せてくる。

 ああ、絶望は、偶然が奏でる挽歌だ――もし昼間、気まぐれに音羽を訪ねなければ、大春がこんなふうに消えることはなかったのかもしれない。

 自分のせいだ。自分の考えが足りなかった。


 胸の奥に何かがのしかかって、息が苦しいほど重い。


「……大春……」

 声は喉の奥で砕け、こみ上げるのは恐怖ではなく後悔だった。


 音羽は声が出せなくても、小春を必死に守っている。

 自分には声があるのに、何の反抗もできない。ただ、二人が法廷で大人しく話を聞いてくれると、都合のいい夢を見ていただけじゃないか。そもそもその裁判は自分が始めたいと思ったのか、それとも彼女が持ち出したのか。もし養育費が目的なら、なぜ何度も引っ越しを繰り返す必要があったのか。自分は一体、どんな狂気の中に身を埋めてきたんだ。大春がそばにいる限り、あの子が安全でいられるはずがない。どうして今まで、それを考えもしなかったんだ。


 思い出す……眠れない夜、大春が前足で私の頬をちょんちょんって叩いてきたこと……あれはきっと、「もう寝ろよ」って言っていたんだと思うんだ。

 雨の日、外に追い出されて……抱き合って、震えながら身を寄せ合って……全身びしょ濡れだったのに……あの温もりだけは、不思議なくらい消えなかった。


 もし……本当にもう戻ってこなかったら……

 私の世界で、ずっと温かかった小さな場所が、色ごと、音ごと……崩れ落ちてしまうんだろうな。


 澪は腕を下ろした。月の光は涙ににじみ、足元の影が揺れて、今にも地面から剥がれ落ちそうに見えた。


 ――にゃあ。


 その声は湖の真ん中に小石が落ちたように、悪夢のすべてを揺り起こした。

 慌てて顔を上げると、街灯の淡い光の外に、見慣れた三毛の毛並みが、影を踏みしめるようにそっと近づいてくるのが見えた。

 尾は相変わらず高く掲げられ、丸い瞳は何事もなかったかのように澄んでいる。


 澪の膝から一気に力が抜け、笑みと涙が同時にこみ上げた。

「……大春!」

 半分は叱るように、半分は抱きしめるように、その夜の冷たい空気をまとった毛玉を強く胸に抱き寄せる。月光が二人を包み込み、失われた温もりをゆったりと縫い合わせてくれるようだった。


「……大春、ごめん。おかえりって、言えないんだ」

 澪は涙をこぼしながら、小さな声でつぶやいた。


「は?お前、何言ってんの」大春は前足で澪の顔を押しのける。


「お前と一緒に住むのは、危なすぎるんだよ。」澪はその足をそっと握り、もう片方の手で優しく頭を撫でた。


「は?自分こそ、あんな所から出ていくべきじゃないの?」

 大春はわざと口を開けて威嚇するふりをしたが、次の瞬間には澪の手に頬をすり寄せた。


「……ペット病院に預けようと思う。一時的に。多分気に入らないと思うけど……あそこは狭いケージばかりで、自由もないから。」澪の涙は止まらない。


 大春は澪の腕からするりと抜け出し、その前でくるりと回ってから、お尻でぐいっと押し、ぱたんと座り込んだ。

「どこにも行かないよ。ずっとお前のそばにいる。」


「……ごめん、ごめん……ごめ……」

 澪は頭を下げ、嗚咽まじりに繰り返すが、その声は次第に小さくなっていった。


 大春は珍しく大きな声で「にゃあ!」と鳴き、「泣くな!」と叱りつけると、ひょいと澪の肩に飛び乗り、顔をぺろりと舐めた。

「まったく……情けない弟分だな。俺が涙を拭いてやらないと。」


「ああ……」澪は涙を流しながら、かすかに笑った。


 肩の上の大春が、小さくあくびをした。

 その温もりと重みが、ゆっくりと胸の奥に沁みていく。


 ――海の鯨は、今日も泳ぎ続けている。時おり水面に顔を出し、小さな蝶とことばを交わす。

 けれどある日、蝶は彼に別れを告げた。「今のあなたは、高くも、美しくも跳べない。地面に戻る勇気もない。それじゃあ、だめなの。」


 鯨は泣きながら見送ったが、それでも生きることをあきらめなかった。もう孤島には戻らない。あの笑い声を知ってしまったから。あの温もりを覚えてしまったから。精霊鹿を想ってしまったから。ひとりの過去には、もう戻れない。


 だから彼は、いつかもう一度あの岸辺で精霊鹿と目を合わせ、蝶とも再びめぐり逢うその時まで、泳ぎ続ける。


 月明かりの中、大春のしっぽがゆらりと揺れ、その先で夜風がやさしく笑ったような気がした。 

 ……海のどこかで鯨が泳ぎ続けるように、空の下で精霊鹿が走り続けるように――私たちも、きっとまだ進める。


 ーーーーーーーーー

 後書き:

 実は、大春の物語は、この小説を書き始める前から、大まかな流れを決めていました。もともとは、現実にいた大春の姿を少し参考にしていたのですが……今日になって、ふと結末を変えてみたのです。

 現実の大春は、その後、さまざまな出来事を経て、新しい飼い主のもとへ行きました。

 でも、これは小説ですから――私は、澪にもう少しだけ希望を残してあげたくなりました。だからこそ、第十三話の童話を紡ぎ足し、この形にしたのです。


 やっぱり、私にとって小説は癒やしの手段のひとつであり、同時に、誰かに希望を届けるためのものでもあります。

 どうか、みなさんの心にも、ほんの少しでも温かさが届きますように。


 そして、素敵な休日をお過ごしくださいね。

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