第37話 大春、お願い……

 彼女は黄、黒、白が入り混じった三毛猫だ。

 背中にはぽってりとした大きな模様があり、腰を下ろすとそれはふっくらとしたハートの形になる。

 瞳はくりくりと丸く、漆黒で、底の見えない深さをたたえている。

 長い尻尾はどこか誇らしげで、私がつかまえようとすると、するりと逃げてしまう。


 肉球は、なんともおかしな可愛らしさだ。

 やわらかなピンクの一つ一つに、小さな黒いほくろのような丸がちょこんとついている。


 声はよく通るのに、人に向かって鳴くことはめったにない。

 お腹には小さなふくらみがある。子猫のころ、どこで何に出会ったのかもわからない危険な目に遭い、手術を受けたあとに残ったヘルニアの跡だ。

 けれど、痛がることも、泣くこともなく、元気に生きているから、再び手術をすることはなかった。


 毛並みは、いつも少しだけ外へ向かってはねている。

 だから私は、抱き上げては、ゆっくり、ゆっくりと梳いてやる。

 そうすると、油をさしたように艶やかで、ぴかぴかの猫になる。


 彼女は、もしかしたらただの野良猫だったのかもしれない。

 けれど、気がつけばもう十二年——ずっと、私のそばにいてくれた。

 十二年が何を意味するか、わかるだろうか。私のこれまでの人生の三分の二を、この猫と共に過ごしてきたのだ。


 彼女は、もしかしたらただの野良猫だったのかもしれない。

 それでも、私にとっては家族以上に大切な……家族だった。

 家族という言葉の意味を、本当に知っているだろうか。それは、この猫が教えてくれたことだ。


 私と彼女が出会ったのは、春だった。

 背の高い草むらの中で、彼女は「えん、えん」と小さく泣いていた。

 いや、泣いていたのは彼女ではなく、その隣にしゃがんでいた小さな女の子だったのかもしれない。


 青い空、白い雲、緑の草、赤の花——まるで絵の中にいるような春の景色の真ん中で、淡い水色のドレスを着た、お姫さまみたいに可愛らしい子がしゃがみ込んでいた。

 頭には大きなリボン、真剣な表情で、前日に泥水で汚れた子猫の体を、そっと、そっと拭いていた。


「お前、ここで何してるんだ?」

 僕が声をかけると、彼女は振り向き、泣きながらも笑って、こう言った。

「よかった……生きてたんだよ。」


 陽射しがまぶしくて、彼女の瞳から零れたそれは、涙というより宝石みたいだった。


 僕たちは一緒にその子猫にミルクをあげ、名前をつけた——大春。

 そして、毎日ここに来て世話をしよう、と約束した。


 本当は、あの頃の僕は引っ越してきたばかりで、またすぐに別の場所へ行くかもしれなかった。

 それでも、彼女の「約束ね」という笑顔に、思わずうなずいてしまった。

 風の日も、晴れの日も、雨の日も、僕らはその草むらに通って、大春の世話をしながらおしゃべりをした。

 段ボールで小さな家を作り、不器用な絵を外に描いた。絵本から抜け出してきたようなお姫さまが描くのは、なぜかいつも抽象的な動物で、彼女はそれを「大春」だと言ったけれど……僕にはどう見てもトラにしか見えなかった。


「そんなにこの猫が好きなら、家に連れて帰れば?」

 そう聞くと、彼女は首を横に振った。

「だめなの。ママは猫アレルギーだから……もし私が飼うなら、ママはずっと薬を飲まなきゃいけないの。だから、本当に責任を持てるって自信ができたときじゃないと。」

 その答え方があまりに真っ直ぐで、大人びていて、でも声はびっくりするほど可愛らしかった。


 僕は生まれたときから両親が離婚していて、何度もよりを戻してはまた別れる、を繰り返していた。

 物心つく前からの記憶は——泣き声、口論、仲直り、笑顔、また口論、泣き声、引っ越し、仲直り……そんな繰り返しばかりだった。

 だから、彼女は僕にとって初めての友達で、大春は二番目の友達になった。


 ある日の午後、また家で口論が始まったとき、父が突然やってきて、僕を彼女のそばから乱暴に引き離した。

 大春は毛を逆立て、怖がりながらも、僕と彼女の間に立って父に向かって「シャーッ」と威嚇した。


「やめてください!そんなふうに持ち上げたら苦しいです!」

 彼女は大春を庇いながら言った。


「こいつは俺の息子だ。どう扱おうが俺の勝手だ!」

 父は不機嫌そうに吐き捨てた。


「息子さんでも、一人の人間です。それもまだ子どもです。ママはね、子どもはみんな独立した存在だって教えてくれたんです。」

 そう言って、彼女は僕の手を引き、真剣な目で父に向かい合った。


 僕は父に持ち上げられることに慣れていた。少し痛いけど、死ぬほどじゃない。

 でも、彼女があんなふうに僕を守ろうとしてくれるのが、なんだかおかしくて……少し笑ってしまいそうだった。


 父は彼女を押しのけ、彼女は地面に倒れた。思ったより強く倒れたみたいで、僕は急に心配になって必死にもがいた。


「やめて!はなさないと、ほんとに泣いちゃうからね!こどもをいじめるのはダメなんだよ!けいさつにいうよ!」

 彼女は膝から血をにじませながら、泣き声まじりにかばんから紫色の折りたたみケータイを取り出した。


 父は、本気で泣き出した彼女と必死に暴れる僕を見て、舌打ちし、そのまま僕を地面に放り出して去っていった。


「大丈夫?」僕は慌てて彼女に駆け寄った。

 さっきまで泣きじゃくっていたのに、彼女はぱっと笑って「大丈夫なのはあんたのほうでしょ」と言った。

 そして僕は知る。あの紫色の携帯はただのオモチャだった。

「全然痛くないよ。泣いたのは演技!見て、あんた助けられたでしょ?」

 彼女はふらつきながら立ち上がり、胸を張って両手を腰に当て、得意げに笑った。


 僕は安心した途端、逆に涙が出てきた。

 彼女は急いで近寄ってきて、ハンカチで僕の顔を拭き、「子どもはね、可愛くしてなきゃだめ。大丈夫、泣かなくていい、きっと全部うまくいくから」と言った。

 大春も近づいてきて、僕の足にすり寄った。その光景を、僕は今でも忘れられない。


 その日も、いつものように手を振って別れた。

 でも、僕がかなり歩いたあと、彼女は息を切らしながら追いかけてきて、僕の手のひらを開かせ、小さなピンクと紫のキャンディを乗せた。

「何があっても、自分を守ってね。ママが言ってた。子どもだからこそ、未来はまだ長い。どんな状況でも、必ず抜け出せる日が来るって。」


 次の日、久しぶりに大雨が降った。それでも僕は大春に会いに行った。

 屋根の下で抱きしめながら雨宿りをして、一日中待ったけれど、彼女は現れなかった。

 膝の怪我もあるし、雨もひどいから仕方ない……そう思った。

 でも、大春はどこで雨宿りするんだろう。考えて、家に連れて帰った。


 三日目。泣いて、騒いで、何度もお願いして——僕と大春は、一緒に引っ越すことになった。


 僕は、彼女とさえ別れを告げぬまま、離ればなれになってしまった。

 あのキャンディが、彼女との最後の思い出になった。

 引っ越しの日、段ボールに囲まれながら、泣きじゃくって、その小さな飴を口に入れた。甘さが広がるたび、胸の奥が締めつけられ、喉の奥が熱くなって、息をするのも苦しかった。


 あの日を境に、僕のそばには、大春だけが残った。

 雷が鳴る夜も、雨が叩きつける日も、夜更けの静けさの中に響く絶え間ない口論も——

 見知らぬようで、どこか懐かしい環境の中で、人生を投げ出したくなる瞬間が幾度もあった。

 混乱と絶望が一気に押し寄せるたび、大春はいつも傍にいた。


 彼女は滅多に人に向かって鳴くことはない。

 いつも丸くなって眠ってばかりで、動くのも面倒くさそうに見えた。

 それでも、母が感情を爆発させ、物を私に投げつけたときは、必ず私の前に飛び出し、代わりに声を張り上げてくれた。


 そして今……大春はどこにいるのだろう。


 今、私はひとりだ。

 真っ暗な夜、ぼんやりとした街灯の下で、この丸々としたおバカな猫の名を、何度も何度も呼んでいる。

 鳴きまねをして、這いつくばって、駆け回って。

 草の匂いが鼻を刺す。爽やかさの奥に、ほろ苦さが滲んでいた。

 昼間の海から、この底の見えない暗闇まで歩いてきて——私は、大春を失くした。


「ただの野良猫じゃないか。あんたの物を漁ってるとき、こっちに向かって鳴いて、噛みついてきたから、玄関を開けて外に出してやったよ。」


 ……ただの、野良猫だって?


 ……違う。大春は、深夜に音羽が私のために灯してくれた、最初の光だ。

 違う。大春は、春日に音羽が私の心に咲かせてくれた、最初の花だ。

 違う!大春は、人生で音羽が私に初めて抱かせてくれた、希望そのものだ。


 他の誰でもない。

 大春は、家族以上に家族だ。私の家族だ!


 気づけば、声が震えていた。

「……大春、お願い……帰ってきて……」


 ーーーーーーーーーー

 後書き:

 心から思います。私の人生において、猫も犬も、間違いなく家族です。たくさんの苦しみも、たくさんの喜びも、一緒に越えてきました。

 どうか、あなたの人生にいる大切な宝物が、失われることなく、幸せに長生きしてくれますように。そして、あなた自身も、どうか幸せでありますように。

 大春が、一日も早く澪のもとへ帰ってきますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る