第22話 自分から、潜る

 眠れない。やっぱり、眠れない。

 黒い夜は、今日も波のように静かに私に押し寄せてくる。

 この部屋は、物心ついたころからずっと過ごしてきた。あまりにも馴染み深いはずなのに、なぜか、見慣れすぎて逆に遠く感じる夜がいくつもある。

 少しだけ他人行儀で、少しだけ、私を拒んでくるような夜。


 けれど今日は、ほんの一瞬だけ、こんなふうに思えたんだ。

 ——もし、溺れてしまう前に、自分から潜り方を覚えられたなら。


 私は鏡の前に立ち、手元に並べたノートや資料、付箋の束をもう一度見つめる。パソコンの画面には、開きっぱなしの検索結果がいくつも並んでいる。

「心因性失声症 発声訓練」「鏡発声法」「口唇運動」「喉開きトレーニング」

 どれも、今日の放課後からずっと調べていたものだ。知らなかったことが、たくさんあった。自分のことなのに、わかっていなかったことばかりで、少しだけ恥ずかしかった。でも、知ることは怖くなかった。もう、何も知らないままには戻りたくなかった。


 私は、深く息を吸い、鏡の中の自分に向かってそっと口を開いた。


「……あ……」


 空気が震えるだけで、音にはならなかった。

 喉の奥がじんわりと熱くなる。でも、それを怖いとは思わなかった。

 少しだけ、鼻の奥がつんとしたけれど、涙は出なかった。


 私は静かに、またひとつ息を吸い、ノートにメモを書き足した。「まだ出ない。でも、痛みは前より弱い」——そんな、自分の気持ちなのにどこか他人事みたいな言葉しか書けなかったけど、それでも書くことで、少しずつ自分の中の何かが変わっていく気がした。


 ふと、あの夜のことが蘇った。

 声が、突然出なくなった——あの冬の夜。

 あのとき、部屋の中は境目もなく真っ暗で、外の音も、部屋の輪郭も、なぜかやけに遠く感じられた。


 私は、鏡の前に立ち尽くしていた。

 何も、いつもと変わらないはずだった。

 でも——声が、出なかった。


「……あ……」

「……あ……あ……!」


 出ない。

 出ない。

 出ない。


 私は何度も口を開いて、喉を震わせてみた。

 でも音はどこにもなかった。私の中から、消えていた。

 目の前の鏡には、口だけが動いている私の顔が映っていた。まるで、誰か別人のような顔だった。


 その日の昼、大木先生にも当てられた。私は立ち上がって、答えようとした。でもその瞬間、喉に何かが詰まった気がした。団子が引っかかっているみたいに、上にも下にも動かない。

 息ができないほど苦しいのに、身体はちゃんと呼吸していた。

 声だけが、どうしても出なかった。


 頭の中で、何度も「答えなきゃ」「早く」「返さなきゃ」って叫んでいたのに、

 口は開いたまま、声だけが——

 どこにも、いなかった。

 それがどれだけ異常なことなのか、怖くて、でも理解できなくて、

「どうして?どうして?」と、思考ばかりが走って、

 心臓の音だけが、体の奥で大きく響いていた。


 そして、夜になった。恐怖がまだ胸の奥に残ったまま。

 ねえ、鏡の中のあなたは誰? 本当に、私?

 なんで、笑っているようで、泣いているような顔をしているの。


 私は、喉に手をあてて、何度も何度も叩いた。

 強く、強く、これ以上壊れてしまわないかと思うほどに。

 指を押し当てて、爪を立てて、何がどうなっているのか確かめようとした。

 でも、何も変わらない。ただ痛みだけが残った。


 叫んでいるはずなのに、耳に届くのは自分の呼吸の音ばかり。

 まるで、空っぽになった風船が、ただ空気を吐き出しているみたいだった。


 ……なんで……なんで……!


 声にならない声が、喉の奥でひっかかったまま、どうしても出てこなかった。

 悔しさと苦しさが一気にあふれて、気づけば、涙がぼろぼろと零れ落ちていた。


 鏡の横に置いていたコップが落ちて、割れた。椅子が倒れて、床が鳴った。

 私は、ただ泣いた。

 息が詰まるくらい泣いて、何度も鏡を見て、それでも音のない自分の顔に、どうしても耐えられなかった。


 気がついたら、机の中からハサミを引っ張り出していた。

 髪を、ぐしゃっと掴んで、乱暴に、何のためらいもなく、切った。

 ばさっ、ばさっと音がして、髪が床に落ちた。

 もう、どうにでもなればいいと思った。こんな声も出せない自分なんて、もうどうでもよかった。


 ああ、自分の手が、自分じゃないみたいだった。

 壊すことでしか、自分の居場所を確かめられなかった。


 そのときだった。

 扉が開いて、お母さんが駆け込んできた。


「やめて、やめて音羽!」

「叩かないで!切らないで、お願いだから!」


 私は泣きながら、でも声は出せなくて、喉を震わせても何も言えなくて、ただ何かを伝えたくて、空気ばかり吸っては吐いて、肩がひくひく震えて止まらなかった。


 お母さんが抱きしめてくれた。

 あたたかくて、やさしくて——なぜか、全然うれしくなかった。

 心のどこかが、ずっとヒリヒリしていて、触れられることさえ、もう耐えられなかった。私は、ハサミを持ったまま、ぐしゃぐしゃのまま、子どもみたいに泣き続けた。


 どうして。

 どうして、声が出ないの。

 どうして、こんなふうになってしまったの。


 言えない。


 言えない。


 でも、伝えたい。

 誰かに。助けてって。


 ただ、たった一言でも——

「助けて」って、言えたなら。


 ……でも、今はもう、あの時の私じゃない。

 鏡の中の自分と、目が合った。

 私たちは、泣いていない。私たちは、やるべきことがある。


 ノートを開き、ひとつひとつ丁寧に書き写していく。

「唇のストレッチ」「喉の開き方」「鏡発声法」

 そして、鏡の前で、口の形をまねしてみる。


 ……やっぱり、変だ。


 思ったようには動かない唇。ぎこちなくて、つい笑ってしまう。

 だけど、それでも——


 目尻をぬぐって、小さく息を吸った。

 ページの端に「第一歩」と、ぐるりと丸を書く。

 うまくいかなくてもいい。今日は、始められたから。


 私たちは、笑っている。


 もう一度、引き出しを開けて、ハサミを手に取った。

 あの夜と同じように。


 でも今度は、衝動的に髪をぐちゃぐちゃに切ったりはしなかった。

 なんとなく、検索してみたんだ。

「ロングヘア セルフカット やり方」


 なるほど。髪はまっすぐにして、真ん中で分ける。

 左右に分けたら、それぞれを下に向かってまっすぐ梳かして、

 ゴムで顎の下あたりで結んで、切りたい長さで平らにカットする――らしい。


 ……よし、切った。

 切れた。

 ほどいてみると、


 うん、まあまあ?悪くないかも。


 きっと、また意味もなく髪を切ってしまったのかもしれない。

 でも、失敗作だって、失敗じゃなくなることもある。


 大丈夫。私は、まだやり直せる。

 今度こそ、溺れてしまう前に、自分から潜り方を覚えられたなら。


 ーーーーーーーー

 後書き:

 最後に出てきたセルフカットの方法、実は私も——昔、過去と決別したくなったときに、一度だけやってみたことがあります。でも、本当にできるなら、美容室で切ってもらうのが一番安全です!(笑)誰かに頼れるときは、無理しないで頼ってくださいね。


 本当は、後半に澪くんの場面を入れて、ふたりの「今」を並べてみようかな……とも思ったけど、やっぱり今回は、音羽だけの夜にしたかった。


 これは、彼女の独白であり、再出発の記録だから。

 最初の一歩を踏み出す夜には、どうしても、昔の自分を思い出してしまうよね。


 でも、だからこそ願っています。

 あの日よりも、ほんの少しでも前へ。

 わたしたちが、ちゃんと「笑っている」ほうへ。

 前に進もう。

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