第12話 ちょっとだけ、いい月曜日

 月曜の朝。

 いつもなら、カーテンのすき間から差し込む朝の光か、感情のないスマホのアラームが目覚ましだった。

 でも今日は、ちがった。


 ふわっとしてて、ほんのりあたたかい何かが、腕の中でもぞもぞ動いてる。

 目を開ける前に、頬のあたりに柔らかい毛がふれて、くすぐったい感触がした。


 ——小春ちゃんだ。


 包帯でぐるぐる巻きになったおしりをかばいながら、のそのそと私の腕を登ってくる。バランスをとるように左前足で床を押さえて、右のほっぺを、私の顔にすり寄せてきた。

 何度も、何度も。まるで「起きて〜」って、全力で伝えようとしてるみたいに。


 まだ完治してないはずなのに、そんなのおかまいなし。

 そばにいたいって気持ちだけで、ここまできたんだと思うと、なんだか胸があつくなる。


 耳もとで、ちいさなゴロゴロ音が響いてる。

 その振動が、胸の奥にまで届いてくるみたいで。


 ……ふしぎだな。

 月曜の朝なのに、学校がある日なのに、いまはそれがちょっとだけ楽しみに思える。


 ありがとう、小春ちゃん。


 そのとき、スマホがぶるぶる震えた。

 ぶるっ、ぶるっ、ぶるっ……

 でも、アラームにしては振動のリズムがなんだか変だ。


 音羽は画面をのぞく。


 そこには、メッセージがいくつも並んでいた。


『おはよう、白鷺さん!』

『あ、早すぎたかな?起こしてたらごめん!』

『ごめんごめん、小春ちゃんが大丈夫か気になっちゃってさ~』

『ついでにひとこと。月曜だね、また隣の席だ〜』


 スマホを持ったまま、音羽の頬がふわっと熱くなる。

 まだ何も返してないのに、顔だけ先に反応してしまう。


 そこへ、さらに一通。


『あ、既読ついた!起きてた?おはよう〜!』

『にゃーんฅ(^・ω・^ฅ)』


『おはようございます。清瀬さん。』


『小春ちゃんは、どう?』


 音羽は体を起こして、小春をひと撫でしてから、写真を撮ってメッセージに添えた。


『よかった、元気そうだね。じゃあ、水曜日に一緒に傷の手当てしようか。』


『はい。よろしくお願いします。』


 窓ぎわの机に飾っていた芍薬が、ふと目にとまった。

 何日も前から水に挿していた蕾は、ずっと眠ったままだったのに——

 今朝、やわらかな陽ざしを受けて、少しずつ、ゆっくりと、花びらをひらいていた。


 音もなく、一枚、また一枚。

 まるでこの月曜日の朝を、待っていたかのように。


 ……なんだか、今日はちょっとだけ、いい日になりそう。


 そして、そんな月曜日には、まだふたつ、特別なことが待っていた。

 ひとつは、今日から漢文の新しい先生が来ること。先週は体調を崩していて、ずっとお休みだったらしい。もうひとつは、放課後に、林優先生との、はじめての正式な面談があること。

 音羽は、二人ともどんな人なのかを思い浮かべながら、ほんの少しだけ気になっていた。


 教室に入ると、すでに何人かが席についていた。

 ざわざわとした月曜の朝、いつもと変わらない日常のはずなのに~なんとなく、またひとりだけ、雰囲気の違う人がいた。


「……おい、清瀬。おまえ、今日ずっとニヤニヤしてないか?」

 橘木は、澪の机に腰かけながら、訝しげにその顔を覗き込む。

「なんかいいことでもあった?」


 前の席の芹沢も、笑いながら振り返ってきた。

「っていうかさ、なんか……清瀬君、やけに優しそうな顔してるっていうか……」


「えっ、そうかな?」

 澪は首を傾げつつも、どうにも頬のゆるみが抑えられない様子だった。

 ——明らかに、いつもと違う。


 橘木はじっと澪の顔を見たあと、何かに気づいたように指を鳴らした。

「わかった!おまえ、まさか……一週間で彼女できたんじゃねえだろうな?」


「えっ、な、なに言って——」


 思わず慌てて声を上げた澪に、周囲がどっと湧いた。

 その様子に、音羽はこっそり目を逸らして、顔を伏せる。

 頬が、ふわっと熱くなる。


「ち、ちがうよ!そんなんじゃないって!ほら、もうすぐ授業始まるし!」

「うわ、動揺してる〜〜!」


「黙れ、橘木〜……っていうか、新しい先生って、どんな人なんだっけ?」

「聞いた?なんか、めっちゃイケメンらしいよ!」


 わいわいと騒がしい空気の中——ガラリ、と教室のドアが開いた。


「はい、静かに〜席についてくださーい……今日から漢文を担当する、斉藤です。」

 新しい先生は、にこやかな笑みを浮かべながら教壇に立った。


 一瞬、教室の空気がぴたりと止まる。


 そして、誰かの小声が、後ろの席からぽつりと漏れた。

「……誰だよ。イケメンって言ったの……おじさんじゃん!」


「しーっ!」と、笑いをこらえる声があちこちから聞こえる。


「いやいや、君たち、こそこそ話してたら聞こえないと思った?私は歳を取ったけど、耳までは衰えてないんだよ?」

 先生はニヤニヤしながら、長い髭でもあるかのようにあごを撫でた。

「それに、失礼だなあ。若い頃は『漢文界の坂本龍一』って言われてたんだからね?」


 教室中に笑いが広がった。


「なにそれ、先生かわいい〜!」

「ほんとだ、意外とノリいいじゃん!」


「はいはい、そろそろ授業始めますよ〜」

 斉藤先生が手を叩きながら、教壇に戻ってくる。

「じゃあ最初は……うーん、『赤壁の賦』を音読してくれる人、誰かいるかな?」


 そのとき、教室の後ろのほうから声が上がった。

「あ、先生〜白鷺さんがいいと思いまーす!だって白鷺さんって、学年トップの才女だし〜?」

 わざとらしい声に、何人かが笑いをこらえた。


 音羽の肩がぴくりと揺れる。机の下で、両手がぎゅっと握られている。


「そうそう、声も綺麗だしね〜……最近は、あんまり聞こえないけど?」と、誰かが言いかけた、その瞬間——


 チョークを手にした斉藤先生が、にこにこと笑みを浮かべたまま、黒板に大きな字を書き始める。


『己所不欲、勿施於人』


「はい、じゃあ今日はこの八文字から始めましょう。『己の欲せざる所は、人に施すことなかれ』。これは、『自分がされて嫌なことは、他人にもしてはいけない』って意味ですね。今日はこの八文字を、しっかり読み解いていこうね。」


 一瞬ざわついていた空気が、すっと静まる。

 先生は音羽のほうをちらりと見たが、何も言わず、そのまま話を続けた。


「……よく知られている通り、孔子は『仁』を大切にしていた人です。そして、私が思うに、その『仁』の核心にあるのが、まさにこの八文字なんです。

 たとえば、弟子の仲弓が『仁とは何ですか』と尋ねたとき、孔子はいろいろと語ったうえで、やっぱりこの言葉にたどり着いた。

 それだけじゃない。『人生でたった一つ、守るべき言葉は何か』と聞かれたときにも、孔子はやはりこの八文字を答えたんですね。

 ——それほどまでに、大切な意味を持つ言葉なんです。」


 斉藤先生は、黒板の文字を指さしながら、教室をゆっくり見渡す。


「『己の欲せざる所は、人に施すことなかれ』。

 つまり、自分がされたら嫌なことは、他の人にもしてはいけない……とても当たり前のようで、でも実はすごく難しいことです。

 だからこそ、この八文字が、何千年も前から今まで、変わらずに語り継がれてきたんでしょうね。」


 その後の漢文の授業では、誰もふざけたことを言う者はいなかった。教室には静かな緊張と、ほんの少しの安心が漂っていた。澪は先生の顔を見て、それからそっと音羽のほうを見やる。


 音羽も、その視線に気づいていた。

 ……この先生、大木先生とは……ちょっと、ちがう気がする……


 昼休みのチャイムが鳴ったころ、音羽は席を立ち上がった。

 ……行こう。今日は、図書室。少しだけ、清瀬さんと話せるかもしれない。


 斜め前の清瀬がノートを閉じる。ふと、視線がぶつかる。

 ほんの一瞬だったのに、心臓がふわりと浮いた気がした。

 二人とも、ほんのりと顔が赤くなる。


 ——そのときだった。


「音羽ちゃーん!」

 ガラリ、と教室のドアが開き、帽子とマスクで顔を隠した一人が勢いよく顔をのぞかせた。短髪に、黒のパンツスタイル。

「ちょっと、ついてきてほしいんだけど!」


 教室内がざわめきに包まれる。


「え、誰? 他のクラスの男子?」

「めっちゃ親しそうなんだけど……」

「白鷺さん、まさか……?」


 音羽はぴたりと動けなくなった。

 冷たい視線が、針のように全身を刺してくる。

 でも、どこかで……見たことがあるような……


 突然——


 音羽の前に、ふいに立ちはだかる影があった。

 清瀬澪だった。


 何も言わずに、ただまっすぐ音羽の前へ出る。

 その動きは、いつもよりほんの少しだけ速くて、少しだけ強かった。

 顔は変わらず優しい笑みを浮かべているのに、その目だけは、真っ直ぐに誰かを見据えていた。


 ……いいな。

 どうして、あんなふうに、自然に名前を呼べるんだろう。

 私はまだ、「白鷺さん」なんて、よそよそしいままなのに。

 本当は——呼びたかった。

 あの名前を。音羽って、呼んでみたかった。


「……すみません。白鷺さんに、何かご用ですか?」

 いつも通りの穏やかな口調。でも、声がほんの少しだけ、張っていた。


 その瞬間、その人はふっと帽子を取った。


 現れたのは、涼やかな瞳と整った顔立ち——

 教室中が息を呑むほどの、美しい少女だった。


「……女の子……だ……?」

「うそ、イケメン女子じゃん……」


 一転、教室に静寂が広がる。


 風見杏は、澪の表情を見ていたずらっぽく笑い、そして言った。

「ねえ。私、あなたじゃなくて、音羽ちゃんに用があるの。」


 一瞬、嫉妬まじりの虚勢を張った澪は——

 あまりの照れくささに、自分ごと空気に溶けてしまいそうだった。

 顔を真っ赤に染めながら、見事に撃沈。


 ーーーーーーーーーー

 小さな後書き:

 最近、カクヨムで心ないコメントを受けて、創作がつらくなったっていう声をちらほら目にするようになりました。

 だから今回の授業シーンで出てきた「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」

 ——この言葉を、心ない攻撃をする誰かに贈りたいなと思って書きました~


 そして、読んでくれる皆さんには、どうか自分のままで、楽しく、元気にいてほしいです。楽しいって、本当にいちばん大事なことだから。

 ……もし、それより大切なものがあるとしたら——それは、健康!(ここ大事!)


 健康と楽しい。どっちも大事。どっちも、ぜったいに手放さないでね。

 ではでは、また次の物語でお会いしましょう✿


 ……そういえば、うちの音羽と澪、ちょっとずついい感じになってきてない?♡

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