第一章:羽が揺れる音
第11話 緊急連絡じゃないけれど
診察室の前、少し年季の入った革張りのベンチの上。
少女は、まだ震えていた。指先は冷たく、けれどもその小さな手を固く握りしめたまま、少年は優しくその上に自分の手を重ねていた。その震えが、少しでも和らげばいいと願いながら。
壁には猫の避妊手術のポスターや、腎臓の健康を守るための食事指導の掲示が貼られていた。
音羽はそれを仰ぎ見る。心の中に波が立つ。疑問が、押し寄せるように溢れてきた。
もし、またこんなことが起きたら、どうすればいいの?
しっぽを失って、ジャンプ力やバランスが落ちた小春は、これからどうやって生きていくんだろう?
ずっと外にいて、ちゃんと食べられていたのかな。腎臓は……大丈夫?
家に連れて帰っても……お母さん、許してくれるかな?
準備もできていないまま、勢いで引き取るのは、誰にとっても、無責任じゃない?
「白鷺さん、すごく真剣な顔してたけど……何を考えてたの?」
澪が、そっと声をかける。
その声は、まるで荒れた波の中に現れた一艘の船のようだった。
穏やかで、それでいて不思議なほどに安定していて、音羽の中のざわめきを少しずつ鎮めてくれた。
音羽はハッとして、小さく首を横に振った。
それでも、手の力は抜けなかった。
その時——
「……音羽!」
廊下の奥から、ハイヒールの音が焦るように響いてきた。
駆け寄ってきたその人影からは、抑えきれない焦りと、心配で胸がいっぱいな様子がにじみ出ていた。肩までの髪。焦げ茶色のコート。潤んだ目でこちらを見つめる女性。
音羽の母親だった。
彼女の視線はまず娘の顔を見つめ、それから——二人の手元へと落ちる。
そこで足を止め、すぐには声をかけなかった。
澪は気付き、慌てて手を引っ込めて立ち上がると、深々と頭を下げた。
明るくて、まっすぐな声で——
「すみません!私は、ただ……」
「……いいのよ。」
母親の声は、意外なほどに柔らかかった。
「音羽と小春ちゃんのこと、助けてくれてありがとう。」
その瞬間、音羽の胸がぎゅっと締めつけられた。
言葉は武器。人を傷つけ、人を壊し、人を殺す武器。
——その考えは、今でも変わっていない。
けれど同時に、言葉は、
困ったときに差し伸べられるロープであり、
ありがとうを伝えるための、大切な橋でもあるのだ。
私も、言いたい。
小春を助けてくれた清瀬さんに、自分の口で、ありがとうって。
「いえいえ、私は……たまたま通りかかっただけです。」
澪は、いつものような爽やかな笑顔でそう言った。
……たまたま通りかかった?さっきは私と反対方向から走ってきたような……
その時、処置室のドアが開き、獣医の先生がこちらに気づいて声をかけた。
「すぐに運んでくれたおかげで、命に別状はありませんでしたよ。それから……手術が大きくなることも考えて、あの男の子の提案で、避妊手術も同時に行いました。麻酔を二回かけるより、猫ちゃんへの負担が少ないですからね。」
……えっ、避妊手術?清瀬さん、そんな先のことまで考えて……
「ありがとうございます、先生。」
母がゆっくりとお辞儀をする。
先生が今後のケアや抜糸について説明しようとしたその時——
母は慎重に手を上げて、穏やかに口を開いた。
「先生、そのお話は、この子たちにお願いします。この猫を助けたのは、あの二人です。だからこそ、自分たちの行動にきちんと責任を持ってほしいんです。小さな命に目を向けたのなら……その命の重みも、しっかりと受け止めてほしいと思います。」
そう言って、母は先生にもう一度、深く頭を下げた。それから音羽の方へ振り返り、真剣な表情で言った。
「助けた以上は、ちゃんと最後まで向き合いなさい。飼いたいと思うなら、うちで引き取ってもいい。私は反対しない。でも、まだ迷っているなら――きちんと責任を持って、新しい飼い主を見つけなさい。清瀬さんの気持ちを、無駄にしないでね。」
音羽は、期待していなかった言葉に、一瞬目を見開き、ぱちりとうなずいた。
土曜の午後、雲ひとつない空の下。
駅前の花屋の前で、音羽は少しそわそわしながら立っていた。浅い藤色の綿のワンピース。胸元には小さな花の刺繍、ふわりと広がるスカートの裾が、ささやかな風に揺れている。
——ちょっと、張り切りすぎたかも。
「平日じゃないんだから、制服なんて着ないの!」
そう言って背中を押したのは、お母さんだった。
今日は小春のために、いろいろと揃える日。だからこそ、素敵な思い出になるように……少しだけおしゃれをして、出かけてきたのだ。
「待った?」
背後から声がした。振り返ると、そこに澪がいた。ラフなパーカーにリュック、肩には小さな保温バッグを提げている。
陽の光が眩しくて、ちゃんと見えない気がした。風なんて吹いていないはずなのに——それでも彼女の髪が、踊るように揺れて見えた。
音羽は、小さく首を振った。我に返ったように、澪が言う。
「これ、先生に聞いたら、術後は水分多めのごはんがいいって言われたから……頑張って鶏肉のごはん、作ってみた!」
そう言って、バッグを少しだけ開け、中を見せてくれた。
その瞬間、音羽の表情がふわっとほころぶ。思わず、声にならない笑みがこぼれた。
嬉しくて、あたたかくて、どこかくすぐったくて——
久しぶりに、心から笑った気がした。
動物病院までの道のりは、昨日と同じはずなのに、風景がどこか違って見えた。
昨日は傘の下で、彼の鼓動しか聞こえない気がした。でも今日は、小鳥たちのさえずりも耳に届いて、花々までもがひそひそと囁き合っているようだった。
降り注ぐ陽の光は、ただ暑いだけじゃない。じんわりと心に染みるような、やさしいあたたかさだった。
「白鷺さん、少し勝手だけど……渡したいものがある。」
澪が突然、立ち止まり、少しだけ間を置いてから、リュックの中をごそごそと探る。取り出したのは、小さなメモ帳。その一枚を破り、音羽に手渡した。
音羽は戸惑いながらも、両手で受け取る。指先が、わずかに揺れているように見えた。
「昨夜、いろいろ調べてみた。言葉が出ないときに使える緊急連絡先とか……助けを求める方法とか。必要になりそうな情報を、まとめて書いてある。」
……どうして、ここまでしてくれるの。胸の奥がじんわりと熱くなる。ありがとうって、今すぐ伝えたい。
澪が頭をかいて、ほんの少しうつむきながら、紙の下の方を指さす。
「それと……一番下に、私の連絡先も書いておいた……緊急用、ってことで。」
そう言って、音羽の目をまっすぐに見つめて——ふっと、やわらかく笑った。
……陽の光が眩しくて、ちゃんと見えない気がした……
病院に着くと、受付の人が優しく笑いながら言った。
「昨日は大変だったね。小春ちゃん、落ち着いてますよ。ちょうどお薬の時間だから、やってみる?」
澪が隣ですぐうなずいた。
「はい、一緒にやろう!」
処置室の奥、ふかふかのタオルに包まれた小春が、ぐるりとこちらを見上げていた。尻尾のところは……まだ痛々しい。でも、目はしっかりしていた。昨日より、少し元気そうだった。
看護師さんが、手順をゆっくりと教えてくれる。
脱脂綿で周囲をやさしく拭き、軟膏をのせて、新しい包帯を巻く——
「今回はしっかり包帯したので、次にお薬を替えるのは三日後で大丈夫ですよ。痛み止めと抗炎症の注射も済んでいますから。それから、傷の様子を見て、避妊手術の傷と一緒に、7〜10日後を目安に抜糸に来てくださいね。」
音羽はまだ少し緊張していた。傷口はまだ痛々しく見えて、血はあまり出ていないものの、やっぱり不安だった。でも、澪が隣で、音羽の耳の近くで小さな声で言った。
「大丈夫。」
二人で包帯の端を押さえたとき、指先がほんの少し触れ合った。音羽はこっそりと顔を上げると、澪と目が合った。
……やはり、感謝の気持ちを伝えたい。言葉は、ありがとうを伝えるための、大切な橋でもあるのだ。
その後、ふたりは小春のために、いろんなグッズを探してお店をまわった。
ふわふわの桃色ベッドに、虎柄の猫じゃらし、肉球型の食器まで——見ているだけで思わず笑顔になるようなものばかりだった。
帰り道、澪は「小春の荷物を届けるついでに」と、さりげなく音羽を家まで送ってくれた。
そして翌日、ふたりは自然と動物病院で待ち合わせ、小春を一緒に家へ迎えに行った。
「じゃあ、また明日!学校で!」
澪は名残惜しそうに笑いながら、後ろ向きに手を振って玄関を出ていった。
音羽も小さく笑って、静かにうなずいた。
そのまま、澪はゆっくりと後ずさりしながら歩き、角に差しかかったところで——
もう一度、振り返って彼女の顔を見ようとした、その瞬間。
ポンッ、とポケットのスマホが震えた。
『緊急連絡じゃないけど……ありがとう、清瀬さん。』
澪は画面を見つめたまま、ふっと笑った。
それは今までで、一番大きくて、誰にも見せたことのないような笑顔だった。
——本当に、心からの笑顔だった。
ーーーーーーー
小さな後書き:
序章の第一話、小春はまだ野良猫でした。音羽にとって、言葉は、武器。
そのとき、あとがきに込めた想いは、こうでした。どうか、この武器を軽々しく振るわないでください。誰かを傷つけるためではなく、大切に扱ってください、と。
そして、第一章の第一話。
小春はしっぽを失っても、前を向いて、生きていました。帰る場所もあった。
音羽にとって、言葉は、「ありがとう」を伝えるための、大切な橋でもあるのだ。
だから、この一話を読み終えたあなたに、祝福を届けたい。
どうか、自分の「ありがとう」を、伝えたい誰かに、ちゃんと届けられますように。そして、真心で応えてくれる誰かに、出会えますように。
今週も、やさしい日々でありますように。🌸
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