冷蔵庫の裏
隣乃となり
冷蔵庫の裏は
きっとわたしが産まれた場所で、そしてそっと死んでゆく場所。
「麦茶いれるね」
夜の散歩から帰ってきたわたしを、弓さんは優しく包んでくれた。彼女は何もきかない。ただただ熱帯夜だからと、いつもより明るい空を困ったみたいに見つめて、それからわたしの頭を撫でただけ。
「暑くなかった?」
「あつかった」
「だよねぇ」
彼女は笑って、冷蔵庫に向かう。わたしはその後ろ姿をじっと見る。
好きな人と、明るい部屋でふたりだけで生きて。小さいけれどテレビも冷蔵庫もある。どうせ使わないくせにゴツめのジューサーだって買った。わたしたち、たぶん悪い女だ。
弓さんは冷蔵庫が好きだという。開けた時の匂いがたまらなく好き。でもあのひんやりさは嫌い、とも言っていた。スーパーみたいだから、って。
わたしはそれを聞いて少しだけ納得して、でもやっぱりすぐに首を傾げた。彼女はそんなわたしを見て笑っていた。
「はい、冷えてるよ」
私の目の前に濡れたコップが置かれる。ありがとう、と持ち上げて、一口飲んだ。
「ねえ。弓さん」
「なあに」
「知りたい?わたしが何で外に出てたか」
彼女は一瞬ぽかんとして、でもすぐにあの柔らかい笑顔に戻って言う。
「話したいの?」
わからない、とわたしは答える。
『わからないってなんだ』
とんでもない速さで、父親の声が頭の中で響く。
自分の娘がおかしくなったのだと決め込んだあの人。可哀想な、わたしの父親。わたしはあの人に、自分の恋についてなんて話したこともなかったのに。彼の目には、わたしが醜い化け物のようにうつって仕方がなかったはずだ。
許せなかった?
子育てはおそらく失敗だな、と思った。わたしはざまあみろと一晩中笑い転げたのを覚えている。どうせ自分の体の構造すらろくに理解していないくせに、正常な恋とか愛とかを馬鹿真面目に語る彼の姿は滑稽だった。
果たして彼は知っているのだろうか。幼き日のわたしが、家の中に秘密の隠れ場所を作っていたことを。
冷蔵庫の裏。あんな丁度いいスペースは家の中でもあそこくらいしかなかった。前に、前に押し出して、わたし専用の空間を作った。冷蔵庫からは唸るような変な音がしたけれど、きっと冷蔵庫の鳴き声なんだって思って、集中して聞いていたらあの争う怒鳴り声も聞こえない気がした。
埃と
「どうしたの。大丈夫?」
弓さんの声がして、わたしははっとする。嫌な夢から醒めたような不気味な安心感が指先をちいさく震わせる。
「弓さん」
「うん?」
「わたし、日に日に自分の中身が父親に似てきている気がするんだ」
わたしは怖ろしい。
いつか。かつて自分を傷つけた言葉たちが、わたしのものになってしまったら。
「何が駄目だったかなあ」
わたしは言葉を放り投げる。このままどこか知らない場所に飛んでいってしまえと思いながら。夜中に恋人を置いて愛しい家を出て、わたしは一体何がしたかったのだろう。生活はここにある。捨てるな。やっと見つけたのに。
わかっている。わかっている。わたしはちゃんと。
「ね、ドーナツ買ってたの。貴女が帰って来たら一緒に食べようと思ってた」
弓さんが声をほんの少しだけ高くして言った。
「ね、食べようよ。私お腹空いちゃった」
ふ、と頬が緩んでわたしは頷く。視界が波のように緩く歪んだ。
もしかしたら。
そんなに難しい話じゃないのかもしれない。
わたしは父親に勘当された惨めな女で、
でもそんなわたしのことを好きだと言ってくれる人がいて、
彼女が愛したぴかぴかの冷蔵庫だって住んでいて、いつも生活を見守っている。
小さいけれど優しさで満ちた部屋で、わたしは今日も息をする。
嗚呼。なんだ。
わたしいま、世界で一番幸せな女じゃないか。
「チョコのやつある?」
わたしは弓さんに腕を絡めに行く。彼女の体温。肌。これがわたしの全て。
冷蔵庫の裏、きっともうわたしの居場所はなくなっている。
冷蔵庫の裏 隣乃となり @mizunoyurei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます