第4話 はじめての××(後)

 宇佐木は両親に相談し、週末に塾に通うことにした。

 両親には受験に集中するためと話したし、実際その気持ちがないわけではない。だが、一番は大神と距離を置くために、彼も自分も納得させられる真っ当な理由が欲しかったから。

 通話で大神にそのことを話すと、彼は納得はしてくれたもののその声は低く沈んでいた。「通話は毎日できるし、同じ学校に進学できれば毎日会えるから、少しだけ待ってて」と伝えれば、少しだけ元気になった様子だったが、それでもやはり、大神の声音には寂しさが滲んでいた。

 一度決心し行動してしまえば、大神と顔を合わせないで過ごすというのは思ったよりも簡単なことだった。同じ学校に通っていた頃であれば難しかったかもしれないが、中学と高校、違う学舎で過ごしている状況だ。大神が卒業するとき、会えなくなってしまうのが寂しいと言い出せなかった宇佐木に、大神から可能な限りで構わないから毎週末会いたいと提案してくれた。嬉しくて、嬉しくて、小指を絡めて約束していたのに……つきはなした。

 宇佐木は塾に足を運ぶたびに、机に向かうたびに、ふとした瞬間に大神の寂しそうな声を思い出しては、罪悪感に襲われた。

 でも、こうする以外に方法がなかったんだ。宇佐木がどうにか発情に耐性をつけて、健全にふたりの時間を楽しめるようになるまでは。

 宇佐木は大神と距離を取ると決めてから、ネットや本を漁り発情への耐性をつける方法を探していた。セミナーに行ってみたり、精神統一を試してみたり、病院で抑制薬を処方してもらってみたりした。それで一度大神と対面してみたりもしたが……結果は撃沈。また何時間も大神に慰めさせる羽目になってしまった。

 そうして気づけば季節は巡って秋になり、その日の放課後、宇佐木は担任教師に呼び出され進路面談をした。

 受験に集中するという体面で塾に通いはじめたのに、宇佐木の成績はゆるやかに下がっていた。このままでは志望校への進学は少し難しいかもしれない、と担任からためらいがちに切り出されたとき、分かっていながらも気のせいだと目を逸らし続けていた現実を突きつけられて、血の気が引いた。

 色づいた並木道をとぼとぼと歩く。

 自分は一体、なにをしているのだろう。大神の思いを無下にしたうえに、同じ高校に入る努力すらろくにできていない……同じ高校に進学できたところで、宇佐木は大神とともに過ごすことはできるのだろうか。いまだ発情への耐性をつけることはできておらず、目処も立っていないのに。このままでは校内で顔を合わせれば公然の場で大神に発情してしまうかもしれない。大神に、もっと、もっと、迷惑をかけてしまうかもしれない。

 傷つけて、困らせて。こんなにも不甲斐ない自分が大神と恋人でいていいのだろうか。よくなかったとして、自分は大神から離れることはできるのだろうか。

「無理だ」

 大神の隣に自分以外の誰かが並ぶ姿を、自分以外が彼の甘美を知る可能性を、想像したくない——けれど、宇佐木がどれだけ話したくないと願っても、この状態があまりにも長く続けば……もしかしたら、大神から。

 ぼうっとしたまま枯葉を踏んでいくうちに、宇佐木の足は無意識に、大神の家へと向かっていた。

 聳える一戸建て。インターホンを鳴らせば、大神か、彼の両親が出るかもしれない。

 狼族は番と定めたたった一人の相手と生涯をともに過ごす。だから狼族の告白は実質結婚を前提としたものであることを踏まえて、返事を考えて欲しい。

 大神が宇佐木に告白をしてくれたとき、そういった旨を話していた。自分たちはまだ中学生で結婚なんて遥か遠く話で想像がつかない、とは思った。だが、一方で、宇佐木は大神以外の誰かを好きになる自分も想像がつかなかった。

 だから、宇佐木は大神の告白にすぐに返事をしたし、春休みには、大神が我が家に挨拶に来て、宇佐木も大神の両親に挨拶をした。

 もし今インターホンを鳴らして大神が不在だったとしても、両親がいれば家にあげてくれるだろうし、彼が帰ってくるまで待たせてくれるだろう。

 会いたい。大神に会いたい——けれど、まだ自分には大神に会う資格はない。

「宇佐木」

 そのとき、玄関が開いた。焦った様子の大神がそこにいた。驚愕に瞠目した宇佐木は、しかし次瞬には飛び跳ねるようにしてまさに脱兎した。

 だが、大神は全て能力において宇佐木を大きく上回っており、運動も例外ではない。そんな彼をどうにか撒くべく道を曲がって曲がって薄暗い路地裏に入ったのだが——捕まった。後ろからぎゅうっと抱き止められる。

「狼族は鼻がいい。特に番相手のにおいには敏感だ。自室にいても、家の前に宇佐木が来たら分かるくらいにな……だから、俺から逃げようとしても無駄だ」

 耳のすぐ傍で、囁かれる。久々の通話越しじゃない声は、低く、尖っていた。

「どうして、逃げた」

「そ、れは」

「……もしかして、と思っていたが。夏頃から会ってくれなくなったのも、俺から逃げるためか」

 心臓が嫌な音を立てて軋む。

「そ、れは」

「お前がすぐに否定しないってことは、そういうことなんだな」

 鋭い確信に、宇佐木は誤魔化しも言い訳も紡げず、ぽつりと「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった。

「宇佐木。俺は、おかしくなりそうだった」

 熱い吐息が、掠れた声が、耳にかかる。

「お前に会えなくて。お前に避けられているかもしれないと思って。何かしてしまったかと思って。最悪の展開も、考えた。考えても、俺はお前を手放せないと思って」

 宇佐木を抱きしめる大神の腕の力が、ぎゅっと強まる。

「お前を。お前を奪いにいこうと、何度も考えた」

「大神、先輩」

「毎日、毎日、今日こそ理性を飛ばして実行に移してしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。いっそそうなってしまえと思う自分もいた。宇佐木の意志も何もかも奪って……何も考えられなくなるくらい、俺に発情させて、籠絡してしまえと考える自分もいた。お前が発情に怯えているのを分かっているのに」

「最低だろう」と大神が自嘲する。背後にいるためのその表情は見えなかったが、脳裏には浮かんでいた。

「それでも宇佐木がどこかに行ってしまうよりは、お前を俺の重さで押し潰してしまう方がずっといいと思ってしまうんだ。たとえ、お前に嫌われることになったとしても」

「なるわけないよ!」

 天地がひっくり返ってもありえないことを言うものだから、思わず大声を上げ、強い拘束を振り切り、身を翻した。

 振り返ったそこにはびっくりしたような、それでも、少し安堵したような表情をした大神がいた。

 なんだ、嫌われることになったとしてもいいなんて嘘じゃないか、と思った。

 でも責められることではない。だって、自分も、同じ穴にいた。同じ穴にいたことに、気づいた。

 交際に至る前から、あの雨の日に出会ってから、大神はずっと、宇佐木のことを見てくれていた。宇佐木がさして気にしていない振る舞いを、やさしくてかっこいいと褒めてくれる。他愛ないやり取りの中に放っていく言動をひとつ余さず拾い上げて大切にしてくれる。

 今だって、できる範囲でいいから週末に会うと言う約束を相談ひとつなく破り捨て突き放してしまったのに、毎日交わす通話で勉強のことを励ましてくれたり、日常の心穏やかになる出来事を共有してくれたりする。

 大神は宇佐木のことを愛してくれている。それが離れることも尽きることも天地がひっくり返ったってあり得ないことは分かっている。なのに、宇佐木はずっと恐れていた。

「大好きって、やっぱり、時々苦しいものなんだね」

 宇佐木は震える手で、大神の両手を握った。それが自分と同じくらい冷たくて、少し笑えて、眦が潤んだ。

「俺、俺も……ずっと、先輩に嫌われたらどうしようって、怖くて。怖かったのに、それで、先輩のことを傷つけてちゃった。ごめんなさい」

 恐れは消えない。けれど、恐れを抱きながらも、大神は腹の中に抱えているものを打ち明けてくれた。ならば、自分も誠実に答えて然るべきだ。

「俺、大神先輩と少し一緒に過ごすだけで、発情しちゃうでしょ。初めての発情が来てから、ずっと。それで……会うたびに、先輩に慰めさせちゃうのが、嫌だった。いつか、ちっともコントロールできないくらい興奮して、先輩を襲っちゃうかもしれないのが、嫌だった。全然、先輩とまともに過ごせなくなっちゃって。そのうえ、先輩を傷つけるかもしれないくらいなら、それで嫌われちゃったりしたら」

「嫌いになんて、ならない」

 はっきりと大神が言う。うん、と宇佐木は頷く。

「先輩が俺を嫌いになるわけがないこと、知っていたはずなのに。俺は、自分の不安でいっぱいいっぱいになって、発情に耐性がつくまで距離を取ろうって決めちゃった。でも、全然耐性つかなくて……先輩を避けるために塾に通い始めたのに、成績も、悪くなっていって。俺、どんどん、駄目駄目になって……こんな俺が、大神先輩の恋人でいいのかなって、不安になって」

「宇佐木」

「でも。大神先輩を誰にも渡したくないって思ったら、大神先輩の家に来てた。俺が来たことに気づいてくれてありがとう。俺を追いかけてきてくれて、ありがとう」

 そうしてくれなかったら、きっと自分は今もまだ逃げ続けてしまっていた。大好きな人に愛されていたいと願いながら、愛してもらえている事実から目を背けたまま。

「こんな不甲斐ない俺だけど。大神先輩のそばにいても、いい?」

「いいに決まっている」

 即答し、大神は宇佐木を今度は正面から抱きしめてくれた。逞しい体でしっかりと、決して離さないと全身で訴えるように。

 それに長い間強張っていた胸がゆっくりと綻んだ。真っ先に相談すべきだったのは、本やネットでもない、セミナーや医者でもない。目の前にいる、彼だった。

 しかし、緊張が解けるなり、悩みの種であるそれが宇佐木に襲いかかる。

「大神先輩、あの……」

 喧嘩していたわけではないがせっかく仲直りのような空気の中、申し訳ないと思いつつも放っておくとまずいので申告すれば、察してくれたらしい大神が体を離してくれた。

 まだ意識は明瞭で、頭もそこまでくらくらとはしていないが、体は火照り始めている。

「俺としては、宇佐木が俺に発情してくれているのは素直に嬉しい、いくらだってしてくれて構わないと思う。だがやはりまだ、俺たちはまぐわうべきじゃないと思うから、当面は宇佐木にはおさまるまでひたすら耐えてもらう、辛い思いをさせてしまうことになる」

 まぐわう、とな。

「先輩、はっきり言うね」

 きょとんと首を傾げる大神に、宇佐木はなんでもないと手を振った。

 大神は有象無象へのガードは硬いのに、宇佐木にだけは大胆というか、あけっぴろげなところがあるというか。そういうところも、とても好きだし、独占欲が掻き立てられるのだけれど。

「高校生になった後だとしても、宇佐木が発情するたびにまぐわうのは……宇佐木の体力がもたないだろう」

「先輩はもつみたいな言い方だ」

「……おそらく、もつだろうな」

 なんとも含みのある言い回しに、少し先の未来を想像して腹の底がずくりと疼いてしまった。

「それに、もし外で発情してしまったら……俺は宇佐木のその姿を見た人たちをどうにかしてしまうかもしれない」

「それは、困るね」

「ああ、宇佐木に会えなくなってしまう」

 心配するのはそこなんだ。ああ、本当に、自分はなぜこれだけの愛から目を背けていられたのだろう。

「もし」

 と、大神が躊躇いがちに口を開いた。

「公然の場では……俺が、宇佐木に冷たくしたら……多少は発情しなくなるだろうか……」

 そう続ける大神の顔色がみるみる青くなっている。

「大神先輩、無理しないで」

「いや、それで宇佐木の発情が緩和して、いつどこでも宇佐木に会えるようになるなら、それぐらい……だが、俺の心無い態度で宇佐木を傷つけることになるかもしれない。それは絶対に嫌だ……」

 迷子の子どものように顔色を青に白にと変えながら唐突と零す大神があまりにも健気で、愛おしくて。

「俺は、大神先輩がどんな態度を取っても傷つかないよ。少し前だったら、分からなかったけれど。でも、今は分かってる。先輩の心がどこにあるのか、ちゃんと、分かってるよ。むしろ、大神先輩の方が心労溜めそうで心配だけど……もし、大神先輩が大丈夫なら。うまくいくかは、まだ、分からないけれど」

 大神の、シャツの裾をきゅっと掴む。

「俺も、大神先輩と、たくさん会いたいし。話したり、デートしたり、したいから……やってみる?」

 アイスブルーの瞳がゆっくりと瞬かれる。大神はそっと眦を緩めながら、そこにまっすぐな光を宿し、頷いた。

「宇佐木が、いいといってくれるなら。やってみよう」

「うん。ふふ、冷たい大神先輩かぁ。大神先輩は、俺にはずっとやさしかったから、ドキドキしちゃうな。練習してみる」

「う……もう少し時間をくれ」

「無理しないでね?」

「ああ、大丈夫だ……」

 とはいうものの、大神はまだ緊張した面持ちだ。大好きな宇佐木にあえて冷たい態度を取るのは、彼にとって間違いなくストレスだ。

「俺、勉強、頑張るから。絶対同じ学校に通おう。それで、そうしたらね。先輩はきっと、俺を愛したくても愛せなくて我慢をいっぱいすることになるから……それは全部、ふたりきりのときにちょうだい。俺、大神先輩が俺にくれるもの、全部欲しい」

 アイスブルーの瞳が、瞳孔が、ぱぁっと開く。大神は呼吸も忘れたようにじっと宇佐木を見つめ、そして、宇佐木の唇を甘く食んだ。

「せ、先輩」

「すまない、我慢できなかった」

 謝りながらも、大神は堪えきれないというように宇佐木の唇を噛み続ける。いつの間にか大神の尻には、大抵の獣人が生活しやすいように隠している、それでも感情が昂ると現れてしまうふんわりとした尻尾までもが顕現していた。

「先輩、いっぱいキスしていいから……誰も来ないところにいこ……先輩に会えなくなるの、俺も嫌」

 大きくなっていく発情に、大神の体に身をすり寄せれば、彼は羽織っていたカーディガンを宇佐木にかけ、横抱きにした。

「部屋に連れてく」

「うん」

「だから、もう少しだけ、我慢して」

「大神先輩もね」

「ああ」

「ねぇ、大神先輩」

 発情の最中にあるというのに、心は驚くほどに穏やかだった。

 大神に出会えてよかった。大神を好きになって、大神に好きになってもらえて、よかった。彼の腕に抱かれているのがとてもあたたかくて、しあわせだった。

「俺と、ずっと一緒にいてね」

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