第3話 はじめての××(前)

 中学三年の夏休み。 宇佐木うさぎよるは、朝から大神琥珀おおかみ こはくの家に訪れていた。

 大好きな恋人との甘い逢瀬……ではなく、一学年上である彼と同じ高校に進学するべく、勉強を教わりにきている。もっとも、大神と一緒にいるだけで、胸はぽかぽかと温まり多幸感で満ちるから、やはり甘い逢瀬とも言えるのだけれど。

 大きな一戸建ての二階。家具も色味も少なく質素だが、この頃は宇佐木が贈った小さな狼のぬいぐるみ、一緒に引いたガチャガチャの景品である果物のフィギュアなどが飾られるようになった彼の部屋で、折りたたみテーブルを挟んで、夏休みの課題テキストや励んでいた。

 宇佐木は別段勉強が苦手な性質ではないのだが、大神の通っている高校はここらでは五本の指に入る進学校。先日受けた模試では一応合格圏内ではあったものの、少しでも気を抜けば足元をすくわれかねない。学業に優れた大神は勉強を教えるのが上手かったし、宇佐木を褒めるのも上手かった。それに一緒に過ごせば過ごすほど、彼と同じ学校に通ってともに学校行事を楽しんだり、少しでも多くの時間を共有したいという気持ちが高まるから、勉強に身が入った。

「そろそろ休憩にしよう」

 朝から勉強に励み、昼休憩を挟んで、再びテキストと睨めっこしたり狼に教わってしばらく。彼にそう言われて、頭が少し疲れてきていたことに気づき、宇佐木は素直に頷いた。

「新しいお茶用意してくる」

「あ、先輩、俺が」

「宇佐木は休んでろ」

 大神はそうくしゃりと宇佐木の頭を撫でると、部屋を出ていった。

 自分の恋人のやさしさやらかっこよさやらに打ちひしがれている間に、大神はお盆を手に戻ってきた。

 テーブルの上に広げていたテキストを避ければ、大神がそこにお盆を置く。たっぷりの氷と麦茶が注がれたグラスがふたつ。それから、いちごのショートケーキが乗ったお皿がふたつ。かわいらしく美味しそうな、ケーキ屋さんに並んでいそうな完璧なビジュアルをしていたが。

「これ、もしかして、大神先輩が作ったやつ?」

 ぴんと働いた直感のままに尋ねてみれば、大神は面映そうに眦を綻ばせた。

「……前に、俺が作ったスイーツが食べたいって言ってただろ」

 大神とつるむようになってわりとすぐに彼が甘味好きであることは聞いたが、自作までするのを知ったのは最近だ。彼の新たな一面を知れたのが嬉しかったし、それをいつか食べさせてほしいとも話していけれど。

「すごい、大神先輩。お菓子作りすごく上手なんだね。かわいくて美味しそうで、お店で買ってきたものかと思ったもん。普段からこんなにすごいもの作ってるの?」

「普段作るのはクッキーとかスコーン程度だ」

 お菓子作りも料理もまったくできない宇佐木からしてみれば、それらを作っているのも十分すごいことのように思うけれど。

「……ケーキは」

 大神が、グラスと皿を宇佐木にことりと置いてく。

「久々に宇佐木と朝から一緒に過ごせると思って……張り切った」

「うっ」

 自分よりも遥かに立派で逞しい姿をした彼の、あんまりに可憐な思いに胸がきゅうと狭く痛くなる。

 ふたりが出会ったのは、およそ一年前。宇佐木が中学二年、大神が中学三年のときの、とある雨の日。以来、ふたりは少しずつつるむようになり、やがて交際に至った。その当時は約束などなくても学校に行けば必ず顔を合わせられ、共に過ごせた。

 だが、大神が中学を卒業してしまえばそうもいかない。進学後は可能な限りで構わないから週末ををともに過ごしたい、と提案してくれたのは大神先輩で、宇佐木は一も二もなく頷いた。それで春の間は毎週末のように互いの家を行き来したり、デートしていたのだが、夏休み前はそれぞれテスト期間だの学校行事があり立て込んでいた。夏休みがはじまってすぐも、宇佐木の方は受験対策の夏期講習があり、ここ最近は対面で会う時間をほとんど取れずにいた。代わりに毎夜三十分程度通話をしていたのだが、それは癒しになるとともにより大神に会いたいという気持ちを昂らせた。

 だから宇佐木は今日の勉強会がとても楽しみだったのだが、大神もそんなに楽しみにしてくれていたなんて。大神が自分のことをとても慕ってくれていることはよく知っている。それでも、やっぱり、彼の思いを感じると、嬉しくてたまらなくなる。あまりにも可愛らしい恋人に、まだ一口もケーキを食べていないのに全身に甘やかさが広がり、胸焼けしそうになる。

「……そのあとも、なかなか眠れなくて、クッキーも焼いた」

 だというのに、大神は容赦なく追加爆撃を放ってきた。効果は抜群だ。

「だから、もし食べられそうなら」

「ぜひ! いただきたいです!」

 勢いよく挙手すれば、大神はそっと微笑んだ。

「後で持ってくる」

「うん、宇佐木家最大の家宝にするね!」

「できれば食べてほしいが」

「う……じゃあ、胃の中で家宝にする……」

 目の前に置かれたケーキも宝物のように感じて食べるのが勿体ないが、自分を思ってく作ってくれたものを頂かないわけにはいかない。

「いただきます」と両手を合わせ、銀のフォークを差し入れる。ときめきと緊張で震えながらも口に運ぶと、広がるのはとろける生クリームとふんわりとしたスポンジ、そしてやさしい甘さ。大神が作ったとひしひしと感じる、大神らしい味わい。

「好き……」

「そんなに、美味しかったか」

 大神は照れたように頬をかくと、彼もケーキを一口食べる。味わって、ほっとした表情を浮かべるのを見て、宇佐木はいっそくらくらとしてきた。

 ケーキを食べ終え、冷たい麦茶を飲んでも、その余韻はなかなか引かなかった。むしろ、視点が定まらない目眩のような感覚ははげしくなっていき、体もだんだんと熱くなってくる。のどもからりと乾いて、麦茶を飲んでも飲んでもそれはおさまらない。

「宇佐木、顔が赤い」

 表面的にもそれが現れていたらしい。大神が心配そうに言った。

「なんか、あつくて。先輩、クーラーの温度、あげた?」

「いや、昼から変えていないが……もしかして、風邪でも引いたか。体温計、持ってくる——」

 立ちあがろうとした大神の裾を、宇佐木は無意識に掴んでいた。

 わずかに目を見開いた大神が、「宇佐木?」と首を傾げるも、宇佐木はその手を離せなかった。むしろ、引っ張ってしまう。

「行かないで、大神先輩」

「宇佐木、どうしたんだ」

 柳眉を下げた大神が宇佐木の真横に来て腰をかがめた。それでも宇佐木よりもだいぶ高い位置にある顔を仰いで、その頬を両手で包み込む。

 灰色の髪に立派な狼耳。アイスブルーの涼やかな瞳、高く通った鼻筋、色白の肌が織りなす、端正な面立ち。彼を視界に入れた者の百人中百人が見惚れるに違いないと確信できるほどに、麗しい容姿。素晴らしいものを生まれ持っているのに、彼は誇らない。むしろ、その点を無闇に不特定多数に慕われることを厭う。なのに、宇佐木が誉めれば嬉しそうにする。

 人との関わりは苦手なくせに、困っている人は放っておかない。宇佐木が言ったささやかな興味や願いのひとつひとつを完璧に覚えていて、叶えようとしてくれる。やさしくてやわらかくて、真面目で聡明で。とってもかっこよくて、とってもかわいい——俺の恋人。

 好き。好き。大好き。

 まるでサウナにでも放り込まれたみたいに全身が火照る中、特に腹の底がじくじくと焼けるように熱くなる。大神の頬から、彼の首へと手を移動させ、引き寄せる。わずかに見開かれたアイスブルーになんだか愉快な気持ちになって、ふふふと笑いを溢しながら、宇佐木は大神をぎゅうっと抱きしめた。

「うさ、ぎ」

「ん……大神先輩……」

 抱きしめるだけでは物足りなく感じで、大神に体をすりすりと擦り付ける。もっと。もっと、彼とくっつきたい。境界線がなくなるほどに、まじりあいたい——。

 そう思ったところでようやく、ぼんやりとした意識下で、自分の身に起きている現象に見当がついた。

「俺、発情期、来たのかも」

 うさぎ族には発情期がある。人によって多少の前後はあるものの、大抵は思春期に初めての発情を迎える。突然発する場合もあれば、恋している相手への欲情から引き起こる場合もあり、その感覚はたっぷりの熱湯を張った鍋でかき混ぜられているような感覚がする……とうさぎ族必修生態読本で学んだ。

 まさに思春期。好きな人をとてつもなく好きだと思った瞬間。宇佐木はくらくらして、熱くなって、ぐるぐるしている。これはきっと、宇佐木にとって初めての発情期だ。

 興奮のままに、宇佐木は大神に顔を寄せ唇を重ねた。

「ん、ん……」

 熱くて柔らかな皮肉を押し付けるが、しかし、それだけで満足しなかった舌が勝手に動き、大神の唇を割り開いた。

 大神の口腔に舌を差し入れる。恋人になってから、人生でも、一度もしたことがない深いキス。熱くて、とろけて、涙が出るほどに気持ちがいい。

「ん、ぅ……うさ、ぎ……」

 潤んだ視界に映る、困惑した表情で宇佐木を受け止めてくれているその人。大好きで……大切なその人を見て、宇佐木はなけなしの理性を引き摺り出して、どうにか大神から唇を離した。しかし、理性はあっさりと、宇佐木に別れを告げる。唇を離しても涙は止まらず、むしろぽろぽろと溢れ出し、溢れるほどに胸がしくしくとなって、頭がかき混ぜられているみたいにおかしくなっていく。

「大神先輩、ごめん」

「宇佐木」

「いきなり、こんな、ごめん。ごめんなさい」

「謝らなくていい。宇佐木、びっくりはしたが、嫌じゃなかった。嬉しかった」

「う、嬉しいとか言っちゃ駄目……」

 いきなり襲われたにもかかわらず、そんなやさしいフォローを入れられたら罪悪感と愛しさでもっとおかしくなってしまいそうだった。宇佐木はどうにか大神から距離を取る。いっそ彼の部屋から脱するべきなのではないかと立ち上がろうとしたら、いつの間にか腰が抜けていたらしい。少し腰を浮かせただけで崩れ落ち尻餅をつく。

「う、うう……」

 発情からも大神からも逃れられず、八方塞がりの迷路に閉じ込められたこどものように蹲るしかなくなり、宇佐木は膝に顔を埋める。

「宇佐木」

「大神先輩、近づかないで。何も言わないで。俺、先輩に、酷いことしちゃうから」

「……放っておいたら、治るのか」

 混沌とする頭の中でどうにか読本を思い返す。たしか。女性の発情は一週間ほど続くが、男性の場合は発散もしくは数時間が経過すれば次第におさまっていくはず。

 辿々しくもそのことを伝えたのに、大神の気配が近づいてくる。発情ゆえか敏感になった鼻が、石鹸と彼特有のにおいが混ざった芳しさを濃く拾い上げる。それが薪となり腹の底の炎がごうごうと燃えて、宇佐木は本能を押しつぶすように一層身を丸くする。

「大神先輩」

「俺に発情してくれている恋人を、数時間も放っておけない」

 大きくあたたかな体が宇佐木の体を包み込む。

「……じゃあ、大神先輩。俺としてくれるの」

 触れるだけのキスから先のことなんて、するもしないも上も下も話し合ったことは一度もない。なのに浅ましい欲望をぶつけてしまって、大神から逃れようと身を捩らせながらも擦りつきたい気持ちも堪えきれなくて、嫌気がさす。

「したいとは、思っている」

 降ってきたのは嬉しさと、不穏さをあたえる言葉。きゅっと、身が強張る。

「なに、それ」

「……引かれるかもしれないが。宇佐木とそういうことをする想像をしたことがないわけじゃない。正直に言うのならば……もし宇佐木が許してくれるなら、抱きたいと考えて、ここ最近の会えてなかった期間なんて……」

 火照ってる宇佐木の体でも感じられるほどに、大神の体温が上昇する。彼が澱ませた言葉の先は、想像の通りでいいのだろうか。しかしならば、なぜ。

「俺は、先輩に抱いてほしい」

「っ……駄目だ。まだ、駄目なんだ」

「どうして……?」

 宇佐木を抱きしめている大神の体が、わずかに震える。深い呼吸をした大神が、言う。

「宇佐木は、ただでさえ俺よりずっと体が小さい。そのうえ未成熟の今、お前を抱いて傷つけたら……俺は、一生、俺を許せない」

「大神先輩……」

「でも、俺に発情してくれている宇佐木を放っておきたくない……お前にとっては、これが生殺しになるとしても、俺にはできない……すまない、宇佐木」

 掠れた声は、切ないほどにひどく誠実だった。

 大神を愛しく思う気持ちは、宇佐木の体にどうしようもない本能の欲火を灯した。だが、今は、理性も齎してくれた。傷つけたくないと、傷ついている大神にこれ以上せがむことは、宇佐木にはできない。放っておきたくないと望んでくれる大神を拒むことはできない。

「俺、大神先輩にだって、大好きって、時々、苦しいものなんだって知った」

「宇佐木……」

「でも、大神先輩と一緒に乗り越える苦しいは、嫌じゃないよ。でも、でもね……先輩。お願い」

 高校生になったら、俺のこと抱いて。俺があまり、大きくなれなくても。俺、大神先輩が欲しい。

 祈るように、縋るように、大神の背に腕を回す。大神はわずかに息をのみ、上擦った声で「ああ」と言った。

「約束する」

 と言ってくれた。

 それだけで、今は、十分だった。


 日が暮れる頃、宇佐木の発情はおさまった。

 発情というのは体力を使うようで、すっかりぐったりとしてしまった宇佐木は、大神の両親が不在というのもあり、そのまま家に泊まらせてもらうことになった。勉強の続きもまた明日にしようと約束したのだが——その夜、宇佐木はまた発情を起こした。

 お風呂から上がり、言い合いに負けて譲ってもらったベッドにいざ寝ようとしたとき。そこから大神のにおいが濃く香った。ともに、大神が普段このベッドを使っていることを強く意識してしまい、なんならその寝姿まで想像してしまって……気づけば、体が火照っていた。そして、床に客用の布団をひいて寝ようとしていた大神に、跨ってしまっていた。

 宇佐木はまた自己嫌悪に苛まれ、彼にまたよしよしと慰めてもらいながら数時間を過ごすことになった。

 初発情を迎えたばかりだから、体が欲に敏感になっているのかもしれないとそのときは思った。だが、その翌朝も、その後の逢瀬でも、宇佐木はことごとく欲火に焼かれた。

 うさぎ族は、初めての発情以降女性は定期的に、男性は一定条件下で発情を起こすようになる。その条件のひとつに、端的に言えばつがいに欲情する、というものがある。だから当然と言えば当然なのだが、しかし、ちょっとときめくだけで駄目になってしまう。このままでは、大神とまともに話すことも、一緒に勉強をすることもままならない。性に囚われた獣となってひたすら慰めさせるか、そのうち彼がまだ望んでいないことも無視して襲ってしまったりするかもしれない。

 どうにかしなければと思って宇佐木は——ひとまず大神と距離を置くことにした。

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