第2話 はじめての出会い
その日は、昼過ぎから予報にない雨が降り出した。それは放課後になっても続き、天気予報で提示されない限り傘を持ち歩く習慣がない大神は図書室で時間でも潰そうと考えた。
中学の図書室は、蔵書は悪くないわりには人の出入りが少なく、過ごすやすい……が、そういえば。
図書室は校舎二階、西側の最奥にある。普段であれば、西階段を使えばすぐに着くのだが、先週から工事だかなんだかで封鎖されていた。つまり、今図書室に向かうには中央階段を通って二学年の教室が立ち並ぶフロアを通り抜ける必要がある。
「あっ」
大神が二階に訪れると、階段付近でたむろしていた女子たちがそんな短い悲鳴をあげた。空気が一気に華やぐとともに、道がさっとひらかれる。いつものことだった。
少し跳ねた灰色の毛、立派に立った三角の狼耳。どうしたって鋭さの消えないアイスブルーの瞳に、色白の肌に整った面立ち。大神は幼い頃から狼族らしい迫力と、自他共に認める凄麗を兼ね備えた容姿をしていた。
他者を拒む空気を意図的に放っているのもあって、廊下を通れば人々を大神を避けてはくれるものの、好奇の眼差しは特殊な容姿をしっかりと追尾してくる。歩きやすいが、鬱陶しくて仕方ない。正直、不愉快。とはいえ、多少の慣れもあり大神は気にしないふりをしつつ、それでも早く図書室に着きたいと長い足で廊下を歩いていく。
「置き傘あるから、貸すよ」
その最中で、ある声を拾った。
廊下は大神の通過によってだいぶ静まっているが——もっともただよう雰囲気と視線はひどくうるさいが——各教室内は放課後らしく雑騒としている。そこに飛び交う言葉のほとんどはまともに聞き取れるものではないし、聞き取る必要もない他愛ないやりとりにすぎない。
なのに、なぜか妙に明朗に鼓膜に届いたその声に、大神はわずかに視線を動かした。
二年五組の教室。その入り口あたりで、髪色と同じ薄茶をした垂れた耳が特徴的なうさぎ族だろう華奢な男子が、近くにいた人間の男子に折りたたみ傘を渡していた。
「マジで助かる、ありがと、宇佐木」
急ぎの用事でもあるのか、受け取った男子は駆け足で教室を飛び出す。その折に、ちょうど近くを通っていた大神にぶつかりそうになって、彼は露骨に驚いた顔をして何度も頭を下げながら去っていった。
騒々しいその人からもう一度教室に視線を戻すと、うさぎ族の男子はすでに背を向けて、箒を持って教室の掃除に勤しんでいた。
別に、なんら特別ではない光景。感想を抱くほどではない出来事。
だが——数十分後、図書室の一番奥、窓際の席で適当な小説本を読んでいると、ドアが開いた。そこに現れたのは、先のうさぎ族の男子だった。
彼は間もなく大神を捉えると、少しだけぎょっとした表情をした。それからすぐに視線を逸らし、大神から離れた席に腰を下ろした。
学内で顔も名前もだいぶ知られている自覚はあり、妙な避け方持て囃され方をするのは常。なのに、少し妙な気分だった。うさぎ族の男子の驚いた顔は嫌じゃなくて、逸らされた視線には……もどかしいような気持ちを抱いた。
うさぎ族の男子は、スクールバッグからテキストとノートを取り出すと、静かに課題かなにかに取り組みはじめた。
今日は図書当番はない日で、代わりを務める司書は準備室にさがっている。図書室には、狼とうさぎ族の男子、ふたりきりだった。
大神は時折、彼を盗み見た。
彼は時折、窓辺を見た。その視線は、まるで、雨が止むのを待っているかのようにも感じた。
それが何度も繰り返されると、気になって、気になって。気づけば大神は言葉を発していた。
「置き傘。あるんじゃなかったのか」
「え」
幼い頃から他人と関わるのは得意ではなく、自分から赤の他人に話しかけることは滅多になかった。
だから、発した言葉に自分でも驚いて、それ以上にうさぎ族の男子驚いていた。再びこちらを捉えた大きな瞳は、こぼれ落ちそうなほどに見開かれていた。
それが、かわいいと、思った。
「さっきから、窓見てるから。傘のことは、お前の教室の前を通ったときにたまたま聞こえた」
「そう、だったんだ。じゃ、なくて。そうだったんですか。えっと」
うさぎ族の男子は視線を落ち着きなく彷徨わせながら、ふんわりと垂れた薄茶の耳を掴んで、わずかに染まった頬に寄せる。
「お前、名前は」
「へ、あ……宇佐木、です。宇佐木、よる」
宇佐木、よる。心のうちで、その名前をなぞる。胸はいっそうむずむずとした。
「俺は、大神琥珀」
「うん、知ってる……あ、知ってます」
「別に、無理に敬語で話さなくていい」
そう言うと、宇佐木はさらに頬を赤らめた。照れやすい体質なのか、それとも。好意を持っているのか。
なにもせずとも容姿と才からその他大勢から無闇に向けられがちで、快くないもの。しかし、そこにいるうさぎの少年が持っているかもしれないと思うと、妙に頬が緩むのはどうしてか。
「それで、なんでさっきから窓見てたんだ」
咳払いをして表情を繕いながら改めて尋ねれば、宇佐木は少し気まずそうに言った。
「えっと……置き傘は、してなくて」
「嘘だったのか」
「俺は、別に急ぎの用事とかはなかったし。あいつは、今日、仲のいい親戚が遊びにくる予定らしかったから。昨日から楽しみにしてたのに、雨のせいですぐ帰れなくて、遊ぶ時間が減ったら、可哀想でしょ」
眉を下げて微笑む、宇佐木。媚びも諂いもない、純粋なやさしさがそこにはあるように思えて。羨ましかった……羨ましかった?
誰が。
傘を借りたあのクラスメイト。
どうして。
宇佐木と当たり前に言葉を交わし、宇佐木に大切にされているから。
はじめてで不可解の感情に、不可解な回答がすぐに導き出されて、困惑した。困惑しているのに、嫌悪や不快はなかった。
「もしかして、大神先輩も、雨宿り?」
宇佐木が呼んだ。はじめて、自分の名前を。
その程度のことで衝撃を受けすぐに言葉が出て来ず、少ししてから大神は「ああ」と答えた。
「そうだったんだ。じゃあ、雨宿り仲間だね」
そう言って、宇佐木がへにゃりと微笑むと、もう駄目だった。大神は席を立ち、宇佐木に近づいた。
「大神先輩?」
宇佐木がきょとんとこちらを仰ぐ。数秒か、数分か。ただ見つめ合う時間をしばし過ごしてから、ようやく、大神は口を開いた。
「……雨、このままやまなかったらどうするんだ」
「それは……頑張って走って帰るしかない、かな」
「職員室に行けば、傘借りられるかもしれない」
「あ、たしかに」
ぱちっと瞬いた宇佐木はすくっと立ち上がると、「ちょっと行ってくる!」図書室を出ていく。
その背を見送って、大神は深々とため息を吐いた。
自分の手をちらりと見れば、わずかに震えていた——宇佐木に近づきたい衝動に駆られ、近づいた。そうしていざ宇佐木が間近にくると、今度は彼に触れたいという衝動に駆られた。認知はされていたものの初対面の相手に、いきなり触れれるのは、恐怖を与えかねない。ただでさえ、先輩と後輩、巨躯と華奢、狼とうさぎという埋め難い距離があるのに。
少しして戻ってきた宇佐木の手には、一本のビニール傘があった。
「一本だけ残ってた!」と大量の釣果を報告するように宇佐木は言うと、それを大神の方に差し出してきた。
一本にふたりで入るのならば大神が持つ方がいいだろう……一本にふたりで入るのかとむず痒い思いを胸に抱きつつ大神は受け取り、連れ立って玄関へと向かった。
そうして、外に出ると。
「じゃあ、大神先輩。さようなら」
と、大神が傘を広げるより先に、宇佐木は今にも駆け出しそうな姿勢をとったから、慌ててその襟首を掴んだ。
「待て。なにしようとしてる」
「え、帰るんじゃないの」
「傘を借りたのにささずにか?」
「でも、傘、一本しかないから」
あまりにもきょとんとした様子で、さも当然のように宇佐木は権利を譲る。先に、二年五組の教室で見かけた光景を思い出す。彼は、誰に対しても、図書室で偶然出会ったたほとんど他人にさえ、どうしようもなくやさしい男らしい。
「……借りてきたのはお前なんだから。お前が使うべきだ」
「でも、先輩が濡れたら困るよ」
「じゃあ、一緒に入ればいい」
「えっ」
悲鳴にも近い素っ頓狂な声を宇佐木はあげるとともに、その顔を真っ赤に染めた。
「……嫌か?」
「そ、そうじゃ、なくて。いや、その、借りたときに、一瞬。一瞬、よぎりはしたけど。でも、俺が先輩と、一緒の傘に入るのは、烏滸がましいというか、申し訳ないというか」
一瞬、よぎりはしたのか。
烏滸がましいだの申し訳ないだのはひっかったものの、それだけで大神の心は熱いものに満たされるとともに、もっと宇佐木に近づきたいという欲求が膨らんだ。
「お前が濡れると、俺が困る。だから、一緒に帰ろう」
力を込めすぎないように、少しでも嫌悪が見えればすぐに外せるように、大神は自分よりも何周りも小さな宇佐木の手をそっと握ってみる。
宇佐木は、ぱちぱちと大きな瞳を繰り返し瞬かせては、「あ」とか「う」とか言葉にならない声を漏らし、やがてぽそりと呟いた。
「……大神先輩、かっこいい」
かっこいいのは、お前の方だろうに。
中学三年の春。大神琥珀が宇佐木よるに出会ったその日、はじめて恋というものを味わった。
それから大神が積極的に宇佐木と関わり距離を縮めたり、交際に至ったり、宇佐木の体にはじめての発情が訪れたりするのだが。
それはまた、別のお話。
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