第21話 敗北のスープと涙の味
【カイル視点】
なぜだ……。
店じまい後の静まり返った厨房で、俺は皿を洗いながら、あらためて自問自答を繰り返していた。
なぜ俺は、あの料理対決で負けたんだ……?
俺の技術は、完璧だったはずだ。
三ツ星レストラン「黄金の獅子亭」で、ガウェイン様の厳しい指導の下、叩き込まれた技術。寸分の狂いもない正確な調理法。
あの厨房は、戦場だった。客の顔なんて見えない。求められるのは、ただ完璧なレシピを、完璧に再現するだけの機械になること。
それが、一流の料理人だと、そう信じていた。
なのに、なぜだ。なぜ俺の完璧なコンソメが、あの女――リノンの、ゴミのような端材で作ったスープに負けた……?
思い出そうとしても、あのスープの味が、よく思い出せない。
悔しさと、プライドが邪魔をして、あの時、俺は本気で味わうことすらしなかったのだ。
自分の舌が、本当に負けていたと核心するのが、怖かったからだ。
次の日の営業中。
俺は、皿を洗いながら、ホールの隅から、改めてリノンの仕事ぶりを観察していた。
相変わらず、動きには俺から見れば無駄が多い。
だが、俺は気づいてしまった。
彼女が、客一人ひとりの顔を、本当によく見ていることに。
「奥さん。今日は少し顔色が悪いわね。スープに、体を温める
なんだ、あれは……。
レシピにない、アドリブだと……?
だが、客は……子供も、大人も、みんな、笑っている……。
俺は、客の顔を見て料理を作ったことなんて、一度もなかった。
料理とは、ただ完璧な皿を出すことじゃなかったのか……?
俺の知らない「何か」が、この店には、彼女の料理には、確かにある。
それを認めなければ、俺は、料理人として、この先に進めない……!
その日の店じまい後。
俺は、意を決して、厨房で後片付けをしているリノンの前に立った。
ぎゅっと、拳を握りしめる。喉が、カラカラに乾いていた。
そして、俺は、人生で初めてかもしれないほど、深く、深く、頭を下げた。
「……頼みがある」
驚いて、俺を見るリノン。
俺は、顔を上げられないまま、声を絞り出した。
「もう一度……あの時のスープを、俺に作ってくれないか?」
「え……?」
「あの時は……プライドが邪魔して、ちゃんと味わえなかった。自分の敗北に、今度こそ、ちゃんと向き合いたいんだ」
情けない告白だった。
だが、もうどうでもよかった。
俺はただ、真実が知りたい。
しばらくの沈黙の後、リノンは、静かに、そして優しく言った。
「分かった。作るよ、カイル君のために」
俺の、あまりに情けない頼みに、彼女は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに、その瞳に優しい光を宿して、静かに、そして力強く頷いてくれた。
そのあっさりとした優しさが、逆に俺の胸に突き刺さった。
リノンが厨房に立つ。
俺は、その後ろ姿を、食い入るように見つめていた。
彼女が使うのは、やはりあの時と同じ、野菜の切れ端や鶏の骨といった「端材」ばかり。
だが、その手つきには一切の迷いがない。
フィクサーとかいう謎の男に教わったのだろう、丁寧な下処理と、正確な温度管理。
(まぐれじゃなかった……。基礎も、できている……!)
そして何より、彼女は、本当に楽しそうに、鼻歌でも歌い出しそうなほど、生き生きと料理をしていた。
やがて、一杯のスープが、俺の前に差し出される。
見た目は素朴な、何の変哲もないスープ。だが、湯気と共に立ち上る優しい香りが、俺のささくれだった心を、そっと撫でるようだった。
俺は、覚悟を決めて、スプーンを手に取った。
そして、一口、そのスープを口に運ぶ。
その瞬間、俺の世界から、音が消えた。
優しい味が、舌の上に、じんわりと広がっていく。
そして、忘れていたはずの光景が、まるで昨日のことのように、鮮やかに蘇ってきた。
幼い頃、熱を出して一人で寝込んでいた、寒い冬の日。
心配そうに俺の額に手を当ててくれた、若き日の母さんの、優しい笑顔。
彼女が作ってくれた、不格好だけど、愛情だけはたっぷりこもっていた、あの野菜スープの味……。
(ああ……そうか。そうだ。料理って、これだったんだ……)
誰かのために、ただ、温かいものを届けたいと願う、この気持ち。
俺は、いつの間にか、こんなにも大事なことを忘れて、技術とプライドという鎧で、自分をがんじがらめにしていたのか……。
ぽろり、と。
熱い雫が、俺の瞳からこぼれ落ち、スープの中に小さな波紋を作った。
俺は、涙を拭うと、吹っ切れたように、そして少しだけ照れくさそうに笑った。
「……こりゃあ、俺は負けるわけだ」
それは、心からの、晴れやかな敗北宣言だった。
俺はリノンに改めて向き直ると、もう一度、深く頭を下げた。
「俺は、明日、『黄金の獅子亭』に行って、正式に辞めてくる。そして……もし、あんたが許してくれるなら、この店の従業員として、正式に雇ってほしい。あんたの料理を、ここで学びたいんだ」
俺の真剣な申し出に、リノンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、太陽みたいな最高の笑顔で言った。
「うん。大歓迎だよ、カイル君!」
◆
……翌日、「黄金の獅子亭」の豪華な執務室。
ガウェインは、カイルが辞めたという報告を聞き、激昂していた。
「なんだと!? 俺を裏切って、あんなゴミ溜めのような店に正式に行くだと!? ありえない! クソが!」
優秀な部下を失い、さらに自分のプライドを根底から否定されたことに、ガウェインは一人、執務室で荒れ狂う。
その瞳には、リノンへのどす黒い憎しみが、さらに深く渦巻いていた。
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