第20話 師匠の好物は恋の味
あの夜から、私の心臓は、なんだかずっとおかしかった。
フィクサー様の顔をまともに見られない。特訓中、ふとした瞬間に指先が触れただけで、心臓が跳ね上がって、頭が真っ白になってしまう。
これが、「恋」なんだろうか。
「あんた、最近ずーっと上の空だけど、何かあったでしょ?」
店じまい後、訪ねてきてくれたシュミットに、私はこれまでの経緯を、顔を真っ赤にしながら打ち明けた。
私の話を聞き終えた彼女は、目をキラキラさせて、自分のことのように興奮している。
「それ、完全に恋じゃない! いいわねー! あの氷みたいだった師匠様と、ついに!」
「だ、だから、特訓の一環だって……!」
「はいはい。で、相手の好きなものとか、リサーチしたの? 恋愛の基本でしょ!」
シュミットの言葉に、私はハッとした。
(師匠の、好きな食べ物……?)
考えてみれば、私は、彼のことを何も知らない。
彼はどんな料理を食べても、完璧にその味を分析し、評価するだけ。彼が何かを、ただ「美味しい」と感情的に言ったことなんて、一度もなかった。
(でも、知りたい……! 師匠が、本当に心から好きだって思えるものを、私が作りたい!)
こうして、私の「師匠の好物探し」大作戦が、幕を開けたのだった。
次の日の特訓の合間。私は、この日のためにこっそり準備していた一皿を、フィクサー様の前に差し出した。
「き、休憩です! 甘いものでもどうですか!?」
お皿の上には、カスタードクリームがたっぷりと詰まった、我ながら完璧な出来栄えのシュークリーム。
甘いものが嫌いな人はいないはず!
フィクサー様は、私の意図を訝しむような顔を一瞬だけしたが、無言でシュークリームを手に取った。
そして、一口、優雅に食べる。
私は、期待に胸を膨らませて、彼の感想を待った。
彼は、しばらく口の中で味わうようにした後、いつもの調子で、静かに分析を始めた。
「ほう。シュー生地の水分量が0.3%多い。焼き時間が20秒長いな。カスタードの卵黄の乳化が少し甘いが、使っているバニラビーンズの質は悪くない」
「……」
好き、とか、嫌い、とか、そういう感想は、一切ない。
私の渾身のシュークリームは、彼の前では、ただの分析対象でしかなかったらしい。
がっくりと、私の肩が落ちる。
(そ、そんなことじゃなくて……!)
そのやり取りを厨房の隅で見ていたカイル君が、「そいつ相手に、生半可なものは通用しないんだよ……」とでも言いたげな、やれやれという顔でため息をついているのが見えた。
甘いものがダメなら……!
次の日、私は作戦を変更し、今度はフェルトを巻き込んでいた。
「ねえフェルト、なんか珍しくて、とびっきり美味しいお肉、持ってない!?」
「任せろ!」
彼は、最近討伐したというモンスター、
私は、フィクサー様に教わった火入れの技術を駆使し、最高の焼き加減のステーキを焼く。
肉汁を閉じ込めた完璧な焼き上がり。これなら、文句のつけようがないはずだ。
「師匠! 男の人なら、やっぱりお肉ですよね!」
今度こそ、という期待を込めて差し出すと、フィクサー様はまたしても無表情でそれを一口食べた。
そして、一言。
「焼き加減は悪くない。だが、この肉のポテンシャルはこんなものではない。筋切りをあと7回、最適な角度で行えば、さらに柔らかくなる」
「……」
またしても、完璧な分析。
私は、がっくりとうなだれて、二度目の撃沈を味わった。
フェルトが「こんなにうめーのに、なんでだよ!」と納得いかない顔をしている。
その日の夜。
作戦がことごとく失敗に終わり、私は店じまい後の厨房で、一人、深いため息をついていた。
私の料理じゃ、師匠の心を動かすことなんて、できないのかな……。
落ち込んでいると、背後から、静かな声がした。
「君は、今日一日、一体何をしていたんだ?」
いつの間にか、そこにフィクサー様が立っていた。
その声は、呆れているようでもあり、どこか楽しんでいるようでもある。
私は観念して、顔を真っ赤にしながら、正直に打ち明けた。
「……師匠の、好きなものが、知りたかったんです……師匠に一言、おいしいって言ってもらいたくって……」
私の言葉に、彼は一瞬、きょとんと目を丸くした。
そして、次の瞬間。
こらえきれないというように、ふっと、その口元から柔らかな笑みが漏れた。
それは、これまで見たどんな笑顔とも違う、心からの、優しい微笑みだった。
「ふふ、なんだ、そんなことか。……僕の好物か。……それは、まだ僕自身も知らないのかもしれないな」
その言葉に、私は彼の過去の傷を思い出し、ハッとする。
彼は、私の目を見て、続けた。その声は、ひどく、甘かった。
「だが……」
「……?」
「君が、僕のために作ってくれるものなら、なんだって、今まで食べたどんな料理よりも美味しいと感じる」
……ドクン。
心臓が、大きく、大きく跳ねた。
超ド直球の、殺し文句。
私は、彼の言葉の意味を処理しきれずに、完全にフリーズしてしまった。顔から、火が出そうだ。
フィクサー様は、そんな私の反応を見て、満足そうに、悪戯っぽく笑った。
「明日の特訓も、期待しているぞ」
そう言い残して、彼はいつもの師匠の顔に戻って、去っていく。
一人、厨房に残された私は、その場でへなへなとしゃがみこんだ。
「……反則だよ、あんなの……心臓に、悪い……」
私の呟きは、誰に聞かれるでもなく、幸せなため息と一緒に、夜の空気に溶けていった。
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