第22話 “神の舌”の正体
俺は、今日からこの「三毛猫亭」の正式な従業員だ。
昨日の夜、あのスープを飲んで、リノンに頭を下げた。俺自身の意志で、ここに残ることを決めたのだ。
厨房に入ってきた彼女に、俺はぎこちなく、しかし精一杯の誠意を込めて頭を下げた。
「今日から、正式によろしくお願いします、リノン先輩!」
「せ、先輩だなんて! やめてよカイル君、普通でいいって!」
リノンは照れくさそうに笑っている。
その時だった。店のドアが開き、あの男――フィクサーが、いつも通りの涼しい顔で入ってきた。
彼は俺の決意など意にも介さず、すぐにリノンへの特訓を始めるかと思いきや、まず俺に向き直った。
「君はまず、店の裏庭の掃除と、薪割りを完璧にしろ。調理場に立つのは、それが終わってからだ」
「はあ!?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
薪割りだと? 料理人である、この俺に。
「おい、俺はリノン先輩の従業員になったが、あんたの弟子や部下になった覚えはないぞ! なんであんたに、そんな雑用を命令されなきゃならないんだ!」
俺がプライドを剥き出しにして噛みつくと、フィクサーは心底から面倒くさそうに、冷ややかに俺を見た。
「そうか。では、君は一生、今のレベルのままでいいのだな?」
「なっ……!」
「料理人として、もっと上にいきたいから、ここに残ることにしたのだろう? 違うか? だったら僕の言うことをきいてもらう。薪割りも大事な仕事だ。いいからやれ」
ぐうの音も出なかった。
その通りだったからだ。
俺は悔しさに唇を噛みしめながら、店の裏口に立てかけてあった斧を、ひったくるように手に取った。
裏庭で薪割りをしながらも、俺の意識は、厨房の中にいる二人に集中していた。
聞こえてくるフィクサーの指導は、どれもこれも、俺が「黄金の獅子亭」で学んだどんな知識よりも深く、本質的だった。
(一体、何者なんだ、この男は……? なぜ、これほどの知識と技術を持ちながら、こんな場末の店に……?)
リノンは、彼の指導をスポンジのように吸収し、日に日に腕を上げている。
このままでは、俺は、また彼女に置いていかれる。
薪を割る手に、自然と力がこもった。
(知りたい。知らなければならない。あの男の正体と、あの圧倒的な実力の源泉を……!)
その日の夕方。特訓が終わり、フィクサーが店を出ていく。
俺は、いてもたってもいられなくなり、リノンに声をかけた。
「おい、先輩。ちょっと野暮用だ。すぐに戻る!」
俺は、リノンの返事も聞かずに店を飛び出すと、フィクサーの姿を見失わないように、足音を殺して、そのあとをこっそりとつけ始めた。
彼の秘密を、この手で暴いてやる。
料理人としての、俺の本能が、そう叫んでいた。
俺は、フィクサーの背中を見失わないように、王都の雑踏に紛れて必死に後を追った。
彼の歩き方は、人混みの中でも少しも乱れない。その気品のある佇まいは、明らかにただ者ではなかった。
やがて彼が足を止めたのは、王都でも指折りの超高級レストラン「月の涙」。俺ですら、名前しか知らないような場所だ。
(こんな店に、一体何のようだ……?)
フィクサーが、顔なじみのように裏口から入っていく。俺も、ひそひそと後を追う。
そして、俺は信じられない光景を目撃する。
貸し切りにされた厨房で、フィクサーが、たった数人の客のためだけに、腕を振るっていたのだ。
その調理は、もはや神業だった。リノンに見せる「指導」とは次元が違う。まるでオーケストラの指揮者のように、数十の工程を同時に、完璧にコントロールしている。
俺は、その神々しいまでの光景に、息をのむことしかできなかった。
俺は、客席の隅にある物陰に身を潜め、彼らの会話に聞き耳を立てた。
客の一人は、見間違えようもない。ミケラン会長のオーギュスト様だ。
フィクサーが作り上げた、芸術品のような料理が、彼らのテーブルに運ばれていく。
それを食べたオーギュスト会長が、至福の表情で、深いため息をついた。
「やはり、君の料理は別格じゃわい。『
――
その言葉に、俺の脳内に、激しい電撃が走った。
まさか……!
料理界の生ける伝説。
正体不明、神出鬼没、その料理は一度食べれば人生が変わるとまで言われる、あの……!
(フィクサー、あの男が、伝説の『神の舌』だったというのか!?)
全ての辻褄が、今、合った。
俺は、その衝撃の事実に、ただ打ち震えていた。
会合が終わり、フィクサーたちが去った後も、俺は厨房から動けなかった。
俺はその後、わらにもすがる思いで、料理長に頼み込んだ。
「お願いです! 一口でいい! あの人が作った料理を、食べさせていただけませんか!」
料理長は、同じ料理人としての俺の気持ちを察してくれたのだろう。「仕方ねえな。まかない用に少し多めに作っていってくれたんだ。秘密だぞ」と、残っていた一皿を出してくれた。
俺は、震える手で、その料理を口に運ぶ。
その味は、リノンの「太陽」のようなスープとは、全く違っていた。
完璧で、緻密で、どこまでも深く、まるで夜空に広がる星々のような、絶対的な美味さ。
(ああ……本物だ。俺が目指していた頂点は、こんなに遠い場所にあったのか……)
俺の頬を、またしても、熱い涙が伝っていった。
翌朝。
フィクサーが「三毛猫亭」に現れると同時に、俺は彼の前に進み出て、土下座していた。
突然の俺の行動に、リノン先輩が「きゃっ!?」と驚いている。
「フィクサー様! どうか、俺も弟子にしてください!」
俺の必死の叫びに、フィクサーは、全てお見通しだというように、面白そうに俺を見下ろした。
「おやおや、どういう風の吹き回しだ?」
彼は、少しだけ考えると、こう言った。
「僕は弟子はとらない主義なのだがな。……だが、まあいいだろう。リノンに教えるついでだ。君が彼女の足を引っ張らないように、最低限のことは教えてやる。特別だぞ」
俺には、神からの赦しのように聞こえた。
「あ、ありがとうございます!」
こうして、リノン先輩と、師匠フィクサー様と、そして俺という、三人の奇妙な師弟関係が、ここに、本当に始まったのだった。
「ただし、あまり人の後をつけるのは感心しないぞ」
「は、はい……。すみません……!」
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