第27話 拒絶の言葉

「宵様、王がお待ちです」


 控えの間で待つ宵に、侍従の声が響いた。その声は、かつて王宮で耳にしたどの声よりも、どこか緊張を含んでいるように聞こえた。


「……承知しました」


 宵は静かに頷き、立ち上がった。その足取りは、迷いなく、しかし微かな緊張を帯びていた。


 宵は再び、明照の前に姿を見せた。


 再び呼ばれた玉座の間は、嘗てと同じ荘厳さを湛えていた。磨き上げられた石の床は冷たく、黄金に輝く装飾は、その威圧感を増している。

 天井から垂れる絹のとばりは、まるでこの空間を外界から隔てる壁のようだった。

 けれど、宵の目には、それはただの広すぎる空洞にしか映らない。

 畏敬の念を抱いたはずのこの場所が、今では、感情の通わない、虚飾に満ちた箱のように感じられた。

 高い天井から垂れる帷、金糸を織り込んだ敷物、王を示す巨大な座。

 その全てが、彼女の心には何度も見ても、響かなかった。


 その中央、階段の上に、王となった明照が座している。

 以前と同じように、備えていたが、その顔には深い疲労と、拭いきれない焦燥の影が刻まれている。

 金の瞳にはかすかな翳りが漂っていた。

 その翳りは、彼が背負う国の重圧と、過去の過ちへの悔恨を物語っていた。

 彼は、宵を見つめ、低く、しかしはっきりとした声で告げる。


「宵……私と、もう一度共に未来を歩んでほしい。この国のために、そして私自身のために、君の力が必要なのだ」


 明照は、玉座の肘掛けに置いた指先をわずかに震わせた。

 その震えは、彼の内なる動揺と、王国の窮状が彼に与える重圧を物語っていた。


「今度こそ、君を大切にすると誓う……過去の過ちは二度と繰り返さない。この国の全てをかけて、君を護ると誓う」


 その声音に嘘はなかった。

 彼の瞳には、確かに後悔と、宵を失うことへの焦燥が滲んでいる。

 宵にもそれはみてわかっている――だが、その誠意の根にあるのは、愛ではなかった。


(……はぁ)


 宵は静かに、心の中でため息を吐いた。

 過去への後悔――失ったものを取り戻そうとする焦燥。

 それは『救済』の言葉でありながら、彼自身の立場から生まれた『必要』であり、『対等』な関係を築くためのものではなかった。

 宵は再度深く息を吸い、ゆっくりと首を振る。

 その動作は、静かで、しかし揺るぎない拒絶を明確に示していた。


「……いいえ」


 ただ一言。それだけで玉座の間の空気が凍りつく。

 その沈黙は、明照の言葉が、もはや宵の心を動かす力を持たない事を、周囲に知らしめるかのようだった。


「あなたの愛は……私が祈ってきたものとは違います」


 宵の声は静かだが、揺らぎはない。

 その言葉一つ一つに、彼女が三年間耐え忍んだ孤独と、庵で得た確かな意志が宿っていた。


「あなたは私を『必要』とはしました。神子の力として、子を成す器として、そして今、この国を救うための存在として。けれど、あなたは決して、私という人間と共にあろうとはしなかった」


 明照の瞳が揺れる。

 かつて誰もが従うことしかなかった王宮で、真正面から否を告げられることなどなかったのだ。彼の顔から、みるみるうちに血の気が失せていく。

 宵は真っすぐにその瞳を見返し、言葉を重ねた。

 その瞳には、過去の傷も、恨みもなかった。

 ただ、自らの意志を貫く、清らかな光が宿っていた。


「私はもう、誰かの『器』ではありません。誰かの都合で、その役目を果たし、利用されるだけの存在ではないのです。私の祈りは、誰かに従うためのものではない。誰かに命じられて捧げるものでも、誰かの都合で力を貸すものでもありません」


 その言葉は、明照にとって、彼の王としての、そして一人の男としての存在意義を、根底から揺るがすものだった。


「私に残す祈りは、もうあなたにはありません」

「宵、私は――」

「明照様……いえ、王よ」


 静かに、鋭い目線が、明照に向けられる。


「もう、遅いのです」


 宵の言葉は、静謐な玉座の間に、決定的な響きをもって広がる。

 その瞬間、明照は絶句する――彼の口は微かに開いたまま、言葉を失っていた。

 彼の瞳に、絶望の色が微かに滲む。

 それは、彼がすべてを失ったことを、今、決定的に悟った証だった。


 玉座の間に、長い沈黙が落ちた。

 高くそびえる柱も、赤い絨毯も、まるで声を失ったかのように宵の言葉を反響する。

 明照は何かを言おうと口を開きかけたが、声にならなかった。


 その姿は、かつて冷酷に彼女を追放した王ではない。

 ただ一人の女を、失って初めて後悔する、一人の男だった。

 彼の背中には、王としての重圧と、人間としての孤独が、同時にのしかかっている。

 宵は深く一礼すると、その場から静かに歩み去る。

 背を向けたその姿には、未練も迷いもなかった。

 明照の手が震え、玉座の肘掛けを強く握り締められる。

 その指の関節は白く変色し、微かな震えが止まらない。


 だが、その手は伸ばされることはなかった。

 なぜなら彼自身が気づいてしまったからだ。


 ――宵の言葉が真実であることを。


 そして、もはや彼女の心を動かす力は、自分にはないことを。

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