第08話 火を囲む対話
夜の帳が降り、仮の小屋は静寂に包まれていた。
外では、雪の降りやまぬ音がかすかに聞こえるばかり。
凍てつく空気が、あたりのすべてを静かに閉ざしている。
けれど、小屋の中央で燃える焚き火だけが、宵と桂火の二人を、やさしく照らしている。
パチ、パチ、と薪のはぜる音が、まるで生き物の呼吸のように心地よく響いていた。
宵は、焚き火の炎をじっと見つめながら、膝を抱えて座っていた。
火の温もりが、まだ少し震える身体を包み、冷え切っていた指先にも、ようやく感覚が戻りつつある。
その光は、顔に柔らかな影を落とし、蒼白だった頬にもわずかに血色を灯していた。
向かいに座る桂火は、何も語らず、ただ焚き火の番をしていた。
けれどその瞳は、焚き火の炎ではなく、ときおり宵の横顔を映している。
月明かりに照らされた宵の髪は、銀糸のように美しかった。
焚き火の光の中では、どこか淡い藤色を帯びているようにも見える。
そして、薄羽織の隙間から微かに覗く、白羽の痕。
それは、神子としての証。
同時に、彼女が背負ってきた宿命の刻印だった。
桂火は、その異様な髪色にも、白羽の痕にも、何一つ驚くそぶりを見せない。
過去には触れず、名を問うことすらせず――ただ目の前の宵を、必要以上に干渉することもなく、否定することもなく、静かに見守っていた。
その沈黙が――宵には、たまらなく心地よかった。
王宮では、その存在を詮索され、白羽山では神子としての役割を背負わされていた。
自分自身が『人』ではなく、『神の器』としてしか扱われない日々。
けれど、この男は何も問わない。
ただそこに『宵』がいることを受け入れていた。
やがて、薪をくべながら、桂火がぽつりと口を開いた。
「……あんた、何かを失って、ここに来たんだな」
「……え?」
宵は反射的に顔を上げた。
桂火は、炎を見たまま、視線を動かさない。
「顔に……書いてある」
その声は、低く、静かで、どこかあたたかい。
問いではなく、断定でもなく、ただ、心に触れるような言葉だった。
「でも……今はまだ、話さなくていいさ」
「……」
「俺は、誰かの傷を引きはがす趣味はねぇ。話したくなったときに、話せばいい」
その言葉に、宵の胸の奥で、何かがふっと緩んだ気がした。
誰かに話さなくていい、と言われたのは、初めてだった。
王宮では、黙っていれば『冷たい』と言われ、語れば『分を弁えろ』と叱られた。
白羽山では、神託以外の言葉を許されなかった。
だが、この男は――何も求めない。
「……どうして、そんなふうに、できるのですか」
「そんなふう?」
「……何も、問わずに」
桂火は少しだけ焚き火から目を逸らし、宵の顔を見た。
「別に、大した理由なんてねぇよ……俺もまあ、色々失くした人間だからな」
その言葉に、宵は思わず息を呑んだ。
「失くした……?」
「家も、居場所も、人も――それから、信じてたものも、な」
静かな口調だったが、言葉の一つひとつには確かな重みがあった。
「だから、俺は分かる。話せないってのは、話したくないんじゃなくて、話す相手がいないってことだって」
焚き火が、パチ、と大きく音を立てる。
「でもな、あんた、ここに来れたんだ。まだ、何かが残ってるってことさ」
宵は何も言えず、ただ焚き火の明かりを見つめ続けた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
泣くには早すぎる、でも、静かに癒えるような感覚だった。
やがて、桂火は焚き火に薪をもうひとつ加えながら、ぽつりと呟いた。
「火ってのはな、壊すだけじゃねぇ。闇を照らして、人を温める。生きるための光だ」
「……生きるための……」
「そう。俺は夜が明けるのを待つために、火を囲むんだ。」
その言葉は、宵の中に沈んでいた祈りの記憶に、静かに触れた。
祈りとは、神に捧げるだけのものではないのかもしれない。
命を慈しみ、明日を願う。
この男の言葉は、それを思い出させてくれる。
形式も、儀式もなく、ただ『温かさ』から生まれるもの。
「……あの、桂火様」
「『様』はいらねぇよ。桂火でいい」
「……桂火、さん。あの……ありがとう」
その言葉に、桂火は軽く頷くだけだった。
だがその顔には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「礼を言われるほどのこと、してねぇよ……俺がやりたかったから、やっただけだ」
宵は、再び膝を抱えながら、小さく笑った。
その笑みは、ほころびかけた心の証でもある。
「……ここ、暖かいですね」
「ああ。そう思えるなら、もう大丈夫だ」
桂火の声が、焚き火の音に溶けていく。
外では、まだ雪が降り続いていた。
けれど、小屋の中には確かな温もりがある。
それは火の熱だけではない――宵が、誰にも知られず失っていた『誰かと繋がる感覚』が、再び灯りはじめていたのだ。
神子としてではなく。
王太子の妃としてでもなく。
ただの『宵』として、存在を受け入れてくれる人がいた。
その事実が、何よりも彼女の心を救っていた。
そして――彼女の胸の奥に、小さな祈りが芽生え始める。
それは、誰かのために捧げるものではなく、自分自身のための祈りだった。
(もう一度……生きてみたい)
そんな静かな願いが、心の奥にそっと灯った。
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