第09話 再び神子として
夜の帳がすっかり降りた仮の小屋。
宵は、焚き火の炎を見つめながら、眠れずにじっとしていた。
桂火は、そんな宵が目を閉じたのを確認すると、そっと立ち上がり、小屋の入り口へと向かった。
扉を静かに閉め、外の様子をうかがいながら、見張りについたようだった。
ぱち……ぱち……。薪のはぜる音が、小屋の静寂に優しく響く。
その音が、かすかな呼吸のように、宵の胸の奥を落ち着かせてくれる。
(……あの人は、どうして……)
宵は、思い返していた。
桂火が自分に言った、あの言葉。
――理由がなきゃ、誰かを助けちゃいけねぇって決まり、あったか?
飾り気のない、まっすぐな言葉だった。
けれど、それは王宮でも、白羽山でも聞いたことのない、まるで異国の言葉のように感じられた。
王宮では、神子としての責務を果たせと命じられた。
白羽山では、神の器として祈れと教えられた。
宵が『宵』として見られたことなど、一度だってなかった。
――けれど、あの男は違った。
何も求めず、何も問わず、ただ、倒れていた自分を当たり前のように助けてくれた。
「……あんなふうに、誰かに手を差し伸べてもらったの、初めて……」
小さく、呟いた声は、焚き火の中に吸い込まれていく。
誰にも気づかれず、誰にも認められず。
祈っても、祈っても、神の息吹など感じられなかった王宮の日々。
それでも――あの人は違う。
「桂火さんは……違う」
その言葉に、涙がこみ上げそうになるのを、宵はぐっと堪えた。
彼に何か返せることがあるだろうか?
役に立つ力もない。神託も降りない。
子も――産めなかった。
それでも今、この胸にある想いだけは、本物だった。
ゆっくりと、両の手を胸の前に合わせる。
それは、白羽山で幼い頃から繰り返してきた、祈りの姿勢。
けれど今の祈りは、かつてのような神に捧げる『務め』ではなかった。
「……どうか、この小さな火が……桂火さんを守ってくれますように」
声は、震えていた。けれど、確かだった。
「この寒さから……彼の身を護ってくれますように、どうか……」
その瞬間だった。
焚き火の炎が、ふわりと、大きく揺らめいた。
「……!」
宵は、思わず身をすくめた。
けれど、炎は荒れ狂うでもなく、ただ柔らかく、優しく、包み込むようにゆらいでいる。
まるで――祈りに応えるかのように。
ゆらゆらと立ち上る光の帯が、宵の指先をそっと撫でた。
直接触れてはいないはずなのに、そこには確かに、温かい『何か』があった。
「……この感覚……」
宵の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
忘れもしない――白羽山で、神子として初めて祈った夜、静かな社の奥で、香の煙とともに感じた、あの微かな神の息吹。
「これって……まさか」
胸が高鳴る。
王宮では、何度祈っても、何も感じられなかった。
ただ形式的に祈りを捧げ、空を見上げている。
でも、今は違う。
「……まだ……私の祈り、届くのですね……?」
ぽたり、と――頬を伝う雫が、小さく焚き火のそばに落ちた。
それは、悲しみでも絶望でもない。
自分が、まだ『神子』として捨てられていなかったという、確かな証。
そして、誰かのために心から願った、その祈りが――力として、世界に響いたという確信。
「私……間違っていたのかもしれません」
ぽつりと、宵は呟いた。
「神様に祈っても、何も変わらないと思っていました。でも……」
手のひらをそっと見つめる。
「本当に誰かを想った時、祈りって、ちゃんと届くんですね……」
誰かのために願う――それだけで、灯る力がある。
それは『神託』ではなく、もっと人に寄り添った、小さな祈り。
(私は神の声を聞くために祈っていたんじゃない……誰かを守りたくて祈っていたんだ)
そう気づいた瞬間、胸の奥にあたたかい火がともる。
その火は、焚き火の熱とは違う。
もっと深く、もっとやさしく、心を照らす火だった。
「桂火さん……あなたが助けてくれたのは、命だけじゃなかったんですね……」
その夜――宵の中で、長く閉ざされていた『祈り』が、再び息を吹き返す。
神のためでも、国のためでもない。
ただ誰かの幸せを願うための、ささやかな祈り。
そしてそれは、失われた『神子』ではなく――ひとりの女性・宵の、初めての、人としての祈りだった。
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