第02章 雪に咲く火の花

第07話 出会いの炎


 雪が降っていた。

 冷たい冬の空から、静かに、淡く、柔らかく――けれど容赦なく、白い帳が世界を覆っていく。

 吐く息は瞬く間に白く霧散し、身を切るような冷気がよいの身体を蝕んでいた。

 薄汚れた服は、もはや雪と泥にまみれて、衣というよりは重く冷たい布にしか感じられない。


「……さむ……」


 震える声が、凍える唇から微かに漏れた。

 けれど誰も、その声に応える者はいない。


 宵は白羽の山を追われ、ただ一人、雪に埋もれる大地に倒れていた。


 どれほどの時間が経ったのだろうか。

 意識の端が暗く霞み、思考は白の世界に溶けてゆく。

 遠く、誰かが呼んでいたような気もしたが、それも雪の音にかき消された。


(ここで……終わるのかな……)


 不思議と恐怖はなかった。

 ただ、心のどこかでようやく解放されるという安堵があった。


 しかし、その時、頬に――熱が、触れた。


 ほんの微かに。だが確かに、温かいぬくもりが宵の肌を包んだ。


「……あったかい……?」


 かすれた声が漏れる。

 鼻腔をかすめるのは、焦げた木の匂いと、湿った土の香り。

 耳に届くのは、ぱち、ぱち、と薪がはぜる音。

 まるで夢の中のようだった。

 けれど、それは確かに現実だった。


 薄く瞼を持ち上げると、視界に赤い炎が映った。

 焚き火の熱が、氷のように冷えきった体をじんわりと包み込んでいく。

 思わず伸ばしかけた指が、ぴくりと震えた。


「っ……」


 身体を起こそうとした瞬間、鋭い痛みが全身を走る。

 筋肉は硬直し、骨は軋み、手足の感覚すら曖昧だ。


(……動けない……)


 焦りが胸を締めつける。

 そんな時、突然声が聞こえてきた。


「動くな……まだ、体が冷え切ってる」


 低く、落ち着いた声が、耳元に届いた。


「えっ……誰……?」


 視線をずらすと、焚き火の向こうに、一人の男がいた。

 黒に近い紺色の外套をまとい、背筋をまっすぐに伸ばして座っている。

 その顔にはうっすらと雪が残り、整った輪郭に無骨な印象を漂わせていた。

 彼は、宵の問いかけに答えず、ただじっとこちらを見つめていた。

 その瞳は、問いも詮索もなく、ただ彼女を静かに受け止めていた。


「……焚き火を……?」

「お前をここまで運んで、火を起こした。助けたのは、俺だ」


 淡々と、けれど決して冷たくはない声音。

 宵は、何かを問いかけようとして――声にならなかった。


(なぜ……?)


 誰からも必要とされなかったこの命を、どうしてこの男は救ったのか。

 王宮でも、白羽山でも、見下され、利用され、最後には捨てられた命だったのに。

 そんな宵の内心を察したように、男はふっと小さく笑った。


「名を聞くのは後にする……今は、とりあえず、あったまれ」


 彼の笑みは短く、それでいて、不思議な温かさを帯びていた。


    ▽


 火の傍には、小さな鍋がかけられていた。

 ゆっくりと湯気が立ち上り、やがて、ほんのりと米の香りが宵の鼻をくすぐった。


「食えそうか?」

「……わかりません。でも……匂いが……そそる感じがします」

「なら、もう少しでいい。腹に入れられそうになったら言え」


 彼は鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見やった。

 その手際は滑らかで、手慣れている。

 まるで、こうして誰かの世話をすることに何の抵抗もないかのようだった。


「……なぜ、助けてくれたのですか?」


 声が震えるのは、寒さのせいだけではなかった。


「誰にも……こんなふうにされたこと、なかったから……」


 男は、すぐには答えなかった。

 鍋の蓋をそっとずらし、湯気の立ち方を確かめるように見つめている。

 そして、ぽつりと答えた。


「――理由がなきゃ、誰かを助けちゃいけねぇ決まりでもあるのか?」


 その言葉に、宵の瞳がわずかに揺れた。


「……でも、私は……何も持っていません。助けられる理由も、感謝を返す力も、その、ないです」

「別に、何か求めて助けたわけじゃねぇよ」


 彼は焚き火の光の中で微笑んだ。


「道端で倒れてる人間がいたら、手を差し伸べる――それだけだ」


 それは、あまりにも自然な言葉だった。

 偽りや打算が混じらない、まっすぐな善意。


「……あの、あなたの名を……」

桂火けいかだ。お前は?」

「……宵。白羽の、神子、です……でした、かもしれません」

「神子ねえ……そりゃ、立派な肩書きだ」


 桂火は肩をすくめ、冗談めかして言った。

 けれど、そこに皮肉はない。

 ただ、肩書きよりも目の前の命を大事にする人間なのだと、宵は直感した。


「……神子だったら、神に祈ってたのか?」

「……ええ。その、祈って、祈って……でも、何も届きませんでした……だから……もう……」


 続く言葉は、声にならなかった。

 桂火はそれを遮らず、しばらく黙って鍋をかき混ぜていた。

 その沈黙すら、なぜか心地よかった。

 やがて、そっと小さな器に湯漬けをよそい、宵の手元に置く。


「冷める前に食え。無理しなくていい……でも、体は、正直だ」


 宵は恐る恐る器を受け取り、湯気を吸い込んだ。

 その香りに、ほんの少しだけ、胸の奥が熱くなった。

 スプーンを手に取る。

 小さく、ひとくち――その瞬間、喉の奥が自然と動いた。


「……あたたかい」

「そりゃよかった」


 桂火の声が、火の揺らめきの中でやさしく響く。


 

 雪はまだ、外で降り続いている。

 けれど、宵の中にあった氷は、確かに、少しずつ溶け始めていた。


 ただ、「一人の人間」として――初めて、誰かに手を差し伸べられた、宵という少女の小さな再生の夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る