第9話:この気持ちに、名前をつけた日



火曜日の朝、目覚ましの音よりも早く、俺は目を覚ました。


眠れなかった。

昨日のことが、何度も脳裏をよぎっていた。


桐谷と佐伯先輩。

すれ違った視線。

手をつないだあの日のぬくもり。

そして、彼女からの「ごめんね」のメッセージ。


(もう、わからないままでいたくない)


俺は、桐谷とちゃんと話そうと決めた。


***


その日は偶然、ふたりとも早めに出社していた。


オフィスに数人しかいない時間――。

桐谷が自分のデスクに座って、何かの資料をめくっている。


「桐谷」


名前を呼んだ瞬間、彼女が顔を上げた。

少し驚いたような目をして――すぐに、静かに微笑んだ。


「おはよう。……少し、話せる?」


「俺の方こそ。話したいことがある」


会議室に移動し、ドアを閉めると、

空間に静かな緊張が満ちた。


俺は深く息を吸って、言った。


「昨日のこと……いや、その前から、ずっと気になってた。

桐谷のこと、何を考えてるのか、わからないままでいたくなかった」


「……うん」


「でも、今はもうはっきりしてる。

俺、桐谷のことが――好きだ」


彼女の目が、見開かれた。


「誰かと話してるのを見て、こんなに胸がざわつくのは初めてだった。

一緒に笑って、隣で歩いて、手をつないで……

それが“特別”じゃないなら、俺はきっと、恋を知らなかったんだと思う」


言い切ったあと、ほんの少しだけ、怖くなった。


断られたら、壊れるかもしれない。

でも、それでも言わなきゃ、前に進めなかった。


桐谷は、静かに俯いていた。


やがて、ぽつりとつぶやいた。


「……アタシね、誰かに“好き”って言われるの、怖かった」


「……怖い?」


「うん。完璧でいようとすると、傷つかない代わりに、誰も本音をくれない。

でも朝倉くんは、ちゃんと見てくれた。弱いとこも、迷ってるとこも」


「……だったら」


「だったら、今度はアタシから言わせて」


彼女が顔を上げた。

目に少しだけ、涙の膜が浮かんでいた。


「アタシも――朝倉くんが好き。

最初はただ、気が楽な人だなって思ってた。

でも一緒にいるうちに、もっとそばにいたいって思うようになって……

そしたら、もう同期とか仕事とか、関係なくなってた」


俺は、その言葉に――笑った。


安堵と、幸福と、すべてを混ぜたような感情が胸に広がった。


「……よかった」


「アタシも、そう思ってる」


ふたりで、笑い合った。

何度も、何度も。


***


「じゃあ、今日から……恋人?」


「んー……どうだろ」


「えっ、ちょっと待って。なんでそこ曖昧にするんだよ」


「いや、付き合うってさ、宣言したらすごい構えるじゃん。

でも、アタシたちはもう十分“特別”な関係でしょ?」


「……まあ、そうだけど」


「だから、もう少しだけ、ちゃんと大事に育ててからでいい?」


「……そういうの、ずるいな」


「ずるくていい。

だって、朝倉くんはちゃんと待ってくれるって、信じてるから」


その言葉を聞いて、もう何も言えなくなった。


恋人じゃない、でも――

たしかに“好き”がそこにある。


そう思えた瞬間、俺はもう十分だった。

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